おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

品格

2023-11-05 10:56:15 | 日記
 小林秀雄と古典学者の折口信夫の対談の本を読んでいて、今更のように「そういえばそういうことか」と思い至った。

 清少納言の「枕草子」の中に、藤原行成をからかっている描写があり、現代の読者は清少納言の観察の鋭さを気にかけるが、行成という人物の立派さには目が行かないという。藤原行成という人は、平安中期の能書家(字がうまい人)で小野道風、藤原佐理とともに、三蹟のひとりに挙げられている。現代の読者には、「清少納言の文章の面白さは僕等にもすぐわかるが、行成の字の美しさはもうわれわれからは遠い処にある」ということになっている。

 行成の歌は「古今集」にも収められているが、僕たちは文庫本などで活字で読む。が、当時、文庫本も活字もなかったということは忘れられている。「書」というものが、当時どういう文化的価値を持っていたのかがわからないということは、歌を鑑賞する上でもずいぶん違ったことになっているはずである。

 平安時代の貴族の恋人たちが歌のやり取りをしていたことは知っているが、ただ歌がうまいだけでは意味がなかったはずである。どういう歌をどういう字で、どういった紙に書いて送ったかが、歌を詠むということだったはずである。見てくれはどうであれ、内容が立派ならいいじゃないか、などと考えるのは現代人の言い分である。

 幕末や明治維新で活躍した人たちの書は、今でも重宝されている。勝海舟や西郷隆盛の書は、お宝探偵団でもたびたび登場する。その時代、立派な人は立派な字を書いたのである。言葉は立派でも字は下手くそなんてのは、意味のないことだったのである。

 現代人はいつの間にか、見てくれはどうであれ、中身さえ良ければそれでいいということになっているようである。というのも、今の国会の各政党のトップの字を見る機会があったが、全員釘が曲がったようなひどい字だったからだ。小学生でもあそこまで下手くそではない。あんな字を見せられて、僕らの生活全般を任せようなどとは、到底思えないのである。
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