どうもブログ更新が不調でしてね。まあ、取りとめて何もない平穏な生活を送っているからこそ、とも言えるので、悪い事でもないんですけども。
ただまあブログ始めた以上は、出来るだけ続けるのが礼儀っつーもんで、ちょっと仕切り直しをしようかと気怠い日曜日の午後に思ったわけです。
要するに、「固すぎる」と思って捨てかかったネタ(基本笑えるブログを目指してますから)を、逆にがっつり固い方に極端なまでに広げて更新しようかと。ま、ショック療法みたいなもんで。
ので、以下の文章はかなりくどくて面白くない文章になると思うよ。なので最初に言っておくけど聞き流すくらいの覚悟でお読みいただければ幸いですね。文章推敲もあえてせず書いて出しにします。
ああ、これも言っておかないと。
僕もうさだファンじゃない(以下略)
4月10日にさださんの還暦を記念したイベントがさいたまスーパーアリーナで開催される。
「行くの?」というのはぬたりのネット人脈上、必ず聞かれることではあるのだが、ぬたりは基本的には行くつもりはない。コンサートのチケットもそもそも手配していないしね。
コンサート以外のイベントに関しては、別に入場は無料だし行けば誰でも見られるわけだから、必ず会場に行かない、と決めているわけでもないけどもね。高崎から電車乗ればなんと乗り換えなしでいけるしさ。知り合いから、来てくれ、と言う話があれば、ムンクさん担いで(?)行くことはやぶさかではない。
が、イベントそのものに興味はない。
折に触れて(今日も)言っているが、ぬたりは純粋な意味ではもうさだファンではない。もちろん長年追いかけていたわけだから、今でも憎からず思っているし、面白くて凄いオッサンだと思っている。
ただ、実はぬたりは今現在のさださんからは意図的に距離を置いている。テレビもほとんど見ない。
今現在のさださんを見ること、それは当然の話だがさださん自身と向き合うことを意味する。そしてさださん自身と向き合った時、ぬたりとさださんの考え方の違いというのを否応なしに認識させられるわけなのよ。当たり前の話だけれども、ぬたりとさださんは考え方が違う。
かつてやっていた毎日新聞の連載で「どうしてこんな上から目線で語っちゃうの?」と感じちゃったのが萌芽で、その後彼の作る歌でもそういうのを認識させられるようになった。
甘えに聞こえるだろうから言っておくけども、これはいわば当たり前の話。人間は人間の数だけ個性があるのだから、全く同じ考えの人などいるはずがない。あらゆる考えに頷きたい曲を求めるなら、自分が歌を作るしかない。それは分かっている。
個人的な事項であるが、ぬたりの歌との付き合い方として、曲を通して自分と向き合うのがスタンス。歌詞があったら、その歌詞が身につまされるか、ストーリーとして自分で消化できるか、自分に対して何か問いかけがあるか、それを無意識に考え、それにひたる。
ところが、さださんの意見が大きくなりすぎて、自分と向き合うことを邪魔し始めたのである。ぬたりは確かにさださんの歌を追いかけていた。がそれはさださんを鏡として、実は自分と向かい合っていたんである。鏡自体の色を、あまり認識しすぎては困るのである。
自己愛が強すぎると笑わば笑え。ぬたりは20年ほど前にさださんに出会った時に、その歌をぬたりの色に染め上げて聴いていた。そしてその中から、自分に都合の良い歌を拾い上げて楽しんでいたのである。言ってみれば無意識での誤魔化しであるのだけれども、特に不都合はなかった。周りにファンもいなかったし。
が、毎日新聞を萌芽として、さださんは様々なシチュエーションで自らの色を出し始めた。毎日新聞の連載も長期に亘った。読むたびに、ぬたりはさださんとの距離を自覚していった。さださんの文章を読むのがつらくなった。もうやめてくれ! と叫びたかった。
だって、それらの意見は、テレビのスイッチをひねれば、したり顔の人たちがいくらでも垂れ流していたから。そこにない物を、ぬたりはさださんに求めたはずだったのに…。
「昔の歌を聴くという事、それはそれを聴いていた時代の自分の想い出を聴くという事」 これはシャオさんから言われて深く感銘を受けた言葉。ぬたりが今のさださんは避けているのに、昔のさださんの歌を今も好んで聴く理由はここにある。誤魔化しであったとしても、ぬたりなりにさださんの曲と向き合って、自分と会話をしていた時代があった。
今の自分から見ても幼稚で情けなく、他人が見たら眉をひそめるか笑うかするであろう当時の姿ではあるが、それでも真摯に、そしてぬたりなりに懸命に歌と、自分の心と会話を試みていたんである。たとえそれが稚拙であったとしても、当時があったからこそぬたりは今ここにいる。その思い出を聴く行為は、嫌なものになりようがない。
そんな具合で、実は今現在ぬたりがさださんに思うことはかなり複雑で、正直いくら語ったって語り尽くせるものでもないし、語ったところで多分他人には分かってもらえない感じになっている。まあそういう人間がハレの場にお邪魔するのはどうか、と純粋には思うわけですよ。「長崎から」と違って、せっかくの純粋なお祭りですからそらもう大騒ぎして還暦を祝ってあげて欲しいと思うわけです。その場にぬたりは、まあいなくてもいいだろう。
毎度ではあるが今回も言う。ぬたりは別にさださんを嫌っているわけじゃない。むしろ好意的に見ているわけなので、会場に行った人には、どうかあの愉快なオッサンの還暦を盛大に祝ってあげて欲しいと心から思う。さださん本人が「いや、もういいよ」ってくらいまで盛大にね。それに関しては、まあ「今」のファンにお任せします。
そのかわりさださんのいなくなった8月6日の稲佐山は、微力ながらイベント会場にお邪魔して、枯れ木も山のにぎわいよろしくに盛り上げようと思ってますので、まあ任せてくださいな。ぬたりはそんな具合で、さださんいなくても平気ですからね。
ただまあブログ始めた以上は、出来るだけ続けるのが礼儀っつーもんで、ちょっと仕切り直しをしようかと気怠い日曜日の午後に思ったわけです。
要するに、「固すぎる」と思って捨てかかったネタ(基本笑えるブログを目指してますから)を、逆にがっつり固い方に極端なまでに広げて更新しようかと。ま、ショック療法みたいなもんで。
ので、以下の文章はかなりくどくて面白くない文章になると思うよ。なので最初に言っておくけど聞き流すくらいの覚悟でお読みいただければ幸いですね。文章推敲もあえてせず書いて出しにします。
ああ、これも言っておかないと。
僕もうさだファンじゃない(以下略)
4月10日にさださんの還暦を記念したイベントがさいたまスーパーアリーナで開催される。
「行くの?」というのはぬたりのネット人脈上、必ず聞かれることではあるのだが、ぬたりは基本的には行くつもりはない。コンサートのチケットもそもそも手配していないしね。
コンサート以外のイベントに関しては、別に入場は無料だし行けば誰でも見られるわけだから、必ず会場に行かない、と決めているわけでもないけどもね。高崎から電車乗ればなんと乗り換えなしでいけるしさ。知り合いから、来てくれ、と言う話があれば、ムンクさん担いで(?)行くことはやぶさかではない。
が、イベントそのものに興味はない。
折に触れて(今日も)言っているが、ぬたりは純粋な意味ではもうさだファンではない。もちろん長年追いかけていたわけだから、今でも憎からず思っているし、面白くて凄いオッサンだと思っている。
ただ、実はぬたりは今現在のさださんからは意図的に距離を置いている。テレビもほとんど見ない。
今現在のさださんを見ること、それは当然の話だがさださん自身と向き合うことを意味する。そしてさださん自身と向き合った時、ぬたりとさださんの考え方の違いというのを否応なしに認識させられるわけなのよ。当たり前の話だけれども、ぬたりとさださんは考え方が違う。
かつてやっていた毎日新聞の連載で「どうしてこんな上から目線で語っちゃうの?」と感じちゃったのが萌芽で、その後彼の作る歌でもそういうのを認識させられるようになった。
甘えに聞こえるだろうから言っておくけども、これはいわば当たり前の話。人間は人間の数だけ個性があるのだから、全く同じ考えの人などいるはずがない。あらゆる考えに頷きたい曲を求めるなら、自分が歌を作るしかない。それは分かっている。
個人的な事項であるが、ぬたりの歌との付き合い方として、曲を通して自分と向き合うのがスタンス。歌詞があったら、その歌詞が身につまされるか、ストーリーとして自分で消化できるか、自分に対して何か問いかけがあるか、それを無意識に考え、それにひたる。
ところが、さださんの意見が大きくなりすぎて、自分と向き合うことを邪魔し始めたのである。ぬたりは確かにさださんの歌を追いかけていた。がそれはさださんを鏡として、実は自分と向かい合っていたんである。鏡自体の色を、あまり認識しすぎては困るのである。
自己愛が強すぎると笑わば笑え。ぬたりは20年ほど前にさださんに出会った時に、その歌をぬたりの色に染め上げて聴いていた。そしてその中から、自分に都合の良い歌を拾い上げて楽しんでいたのである。言ってみれば無意識での誤魔化しであるのだけれども、特に不都合はなかった。周りにファンもいなかったし。
が、毎日新聞を萌芽として、さださんは様々なシチュエーションで自らの色を出し始めた。毎日新聞の連載も長期に亘った。読むたびに、ぬたりはさださんとの距離を自覚していった。さださんの文章を読むのがつらくなった。もうやめてくれ! と叫びたかった。
だって、それらの意見は、テレビのスイッチをひねれば、したり顔の人たちがいくらでも垂れ流していたから。そこにない物を、ぬたりはさださんに求めたはずだったのに…。
「昔の歌を聴くという事、それはそれを聴いていた時代の自分の想い出を聴くという事」 これはシャオさんから言われて深く感銘を受けた言葉。ぬたりが今のさださんは避けているのに、昔のさださんの歌を今も好んで聴く理由はここにある。誤魔化しであったとしても、ぬたりなりにさださんの曲と向き合って、自分と会話をしていた時代があった。
今の自分から見ても幼稚で情けなく、他人が見たら眉をひそめるか笑うかするであろう当時の姿ではあるが、それでも真摯に、そしてぬたりなりに懸命に歌と、自分の心と会話を試みていたんである。たとえそれが稚拙であったとしても、当時があったからこそぬたりは今ここにいる。その思い出を聴く行為は、嫌なものになりようがない。
そんな具合で、実は今現在ぬたりがさださんに思うことはかなり複雑で、正直いくら語ったって語り尽くせるものでもないし、語ったところで多分他人には分かってもらえない感じになっている。まあそういう人間がハレの場にお邪魔するのはどうか、と純粋には思うわけですよ。「長崎から」と違って、せっかくの純粋なお祭りですからそらもう大騒ぎして還暦を祝ってあげて欲しいと思うわけです。その場にぬたりは、まあいなくてもいいだろう。
毎度ではあるが今回も言う。ぬたりは別にさださんを嫌っているわけじゃない。むしろ好意的に見ているわけなので、会場に行った人には、どうかあの愉快なオッサンの還暦を盛大に祝ってあげて欲しいと心から思う。さださん本人が「いや、もういいよ」ってくらいまで盛大にね。それに関しては、まあ「今」のファンにお任せします。
そのかわりさださんのいなくなった8月6日の稲佐山は、微力ながらイベント会場にお邪魔して、枯れ木も山のにぎわいよろしくに盛り上げようと思ってますので、まあ任せてくださいな。ぬたりはそんな具合で、さださんいなくても平気ですからね。
もう還暦なんだから、もっと「しっとり」とした話をしなきゃって思いました。
思い切ってトークは削っちゃってもいい。年配のファンはもう十分わかっているから。
被災地で自分がひっぱりだこだった話とか、誰かを蔑むような話。「さだまさしコンサートももう最近はババアばかりだね。」とかね、ちょっと鼻についた。
さださんも自分の着地点を自分なりに考えて生きて欲しいと思いました。
わたしの意見と比べりゃさださんの意見って優しくて大人しいんで緩衝材に(ぉぃ
ただ、嫁がたまたま近年、さだのファンクラブに入りなおしたり、熱心なファンの方とお友達になったりして「情報」だけは入ってくるので、「へー、そうなってんだ」的な知識としての興味はわずかながらではありますが、失わないようにしてます。
ちなみに一番感謝している事は、その後、クイズだの浦和レッズだの水曜どうでしょう…だののファン連中で、さだ信者級に「イタい」奴らを観た際に、「あ。どこの世界もさだの世界とあまり変わらないんだな」と、論戦などせずに最初から諦観してそこには関わらないように動けたの「だけ」は、さだには頭が上がらないっすねえ。いうなれば「阿らない」みたいな。
しっとりは確かに新たな発見があるのかもしれませんね。いっそ「トークの無いコンサート」とかをworldコンサートでやっちゃうとか。
まあほれ、意見には個人差があるわけですから(おい)
「信者」ってのは何処にもいますからねえ。まあ私も「ああ、こんだけ華ちゃん華ちゃん言ってて、今俺イタイ信者やってるなあ」とどこか冷めた目で自分を見続けられているのは、さださんのおかげですね(おい)。