フィヨルドの変人 ~Odd person in fjord~

ぇいらっしゃ~い!!!

(あえて今だから)群馬県内石田三成を巡る旅 そのに

2023年03月11日 21時34分40秒 | 日記
やってきたのは太田市大舘町にある天台宗の寺院、東楊寺。

ここに一人の人物のお墓がある。通称大舘御前と言われる、津軽藩2代藩主津軽信牧の奥方。他ならぬ石田三成公の三女である。

彼女もまた波乱の人生を送っている。関ヶ原の戦いで父が破れて敗軍の将として首を切られたのが8歳の時。この時には秀吉の正室、北政所の養女となっていたために難を逃れ、18際頃に津軽信牧に嫁ぐ。二人の仲はとても睦まじかったと伝えられるが、幕府としても藩としても石田三成の娘が譜代大名の正室でいるのは少々具合が悪い。そこで藩からの希望なのか幕府からの圧力なのかは不明ながらも家康の養女(種違いの甥の子)を娶ることになり、この際に正室から側室に降格。居住も津軽ではなく、分領であった上野国大舘に移り住む形になった。そしてこの大舘の地が、徳川発祥の地である世良田のほんの隣という歴史の皮肉が起きた。
歴史の流れはまだまだ続き、側室に降格されても信牧と大舘御前の仲睦まじさは変わらず、信牧は参勤交代の際には必ず大舘に立ち寄り、大舘御前とともに過ごしていたと言われ、変わらぬ寵愛を受けた。大館御前は若くして亡くなってしまったのだが、信牧には大舘御前と正室の満天姫どちらにも男児が生まれる。正室は満点姫であるのだが、信牧は大舘御前の産んだ子供が後継であるとして頑として譲らず、この子供は長じて津軽藩3代藩主信義となった。もうこのあたりの話は雲の上の三成公が聞いたら嬉し涙で前が見えなくなるだろう、そんな歴史の一幕が、ここ現在の群馬県太田市の片隅で、400年ほど前に実際にあったわけである。
・・・とまあ、話がこれで終われば綺麗なんだけども、歴史は時に残酷。紆余曲折を経て藩主になった三成公の孫にあたる信義だが、その家督相続自体しこりを残すものであったことは事実。また、家康公の幼女の子供、ということで目をかけられた満天姫の子、津軽信英は幼少から英才教育を施されかなり聡明な人物に育った。何かと比べられることから信義のプレッシャーも相当なものがあったらしく、その治世はよく言えば賛否両論。酒色に耽っていたとも言われるので、評判は正直良くない。大きな処分こそなかったものの、藩主を信英にしよう、という動きが露呈するお家騒動も起こしている。
歴史の話はこの辺にして、ここは「津軽藩代官足立氏の墓所」と太田市に史跡認定されており、大舘御前の石塔はそこに隣接していて特に説明はない。一応足立氏の石塔のすぐ隣の石塔がそれなんだが、戒名(貞松院殿深誉教説大姉)を知っていないと見過ごすかも。なお、石塔の撮影自体はしたのだがなんとなくここに載せる気になれなかったので、写真はカットな。まあ、歴史を重ねているとはいえお墓なわけだし。

お寺は現在補修作業中で、運がいいことに作業の様子を見に来た住職にお話を伺うことができた。住職自体はあまり歴史に詳しくないそうだが、最近大舘御前のお墓参りに来る人もポツポツおられるそう。また、詳しい人がパンフレットを作ってくれた、と言うことで一部いただくことができた。

かつての所領、と言う縁から津軽藩の本拠だった弘前市と太田市(正確には平成の合併前の尾島町)は交流が生まれ、昭和61年から尾島ねぷた祭りも行われている。交流自体は所領があったことではあるが、その関係性の中に石田三成公のご息女の名前もあるということで、今なお、その生きた証が語り継がれていると言うことですよ。


ちなみに、(多分)大舘御前が住まわれていたであろう居館の跡にも足を運んでみた。多分というのはこの場所は津軽氏の所領となる遙か前の「大舘氏館跡」と語られるために、江戸時代の代官屋敷とか陣屋と言った形で語られることがなく、現時点で「ここに大舘御前が住んでいた」と断定できる情報がなかったのよね。まあ、他にそれっぽい場所はないのでほぼ間違いないと思うけど。ちなみに痕跡は何もなく今は一面の畑。写真は跡地の中心あたりにある諏訪神社なんだけど、これ自体は痕跡とは呼べませんわね。(つづく)
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