唐突に思い出したことがある。
それはぬたりが中学生の時。ぬたりのクラスでは朝のホームルームで「スピーチ」なる時間があった。これは毎朝一人、順番になにがしかのスピーチをするという時間である。スピーチノートとかがあって、そこに事前に自分の話す内容を書いて、それをその通り話す、と言う段取り。
そしてぬたりが当番の日の朝、スピーチノートは白紙だったわけである。すっかり書くのを忘れてたわけ。
ぬたりはどうしたか、簡単な話だ。
朝登校してから、スピーチの時間までのわずかな時間でスピーチをでっち上げたのである。書いた物を読まなきゃいけない、と言う形であったのでスピーチの時間には白紙のノートを手に持って一席ぶって見せた。
今なら人前でしゃべるときはむしろそんなノートなんか書かずにフリートークをし、それなりに流暢にやれる自信もあるのだが、何しろ当時は中学生。結構なしどろもどろになり、怒られた記憶もある。
だが、今から思うと、スピーチなんぞはむしろノートを読まずに手ぶらで喋れた方が評価は高いわけで、ぬたりのやったことは、もちろん事前準備を怠ったという行為は褒められたもんではないが、将来の練習と考えるならばむしろ有用だったんじゃないかと思う。
かつてぬたりは仕事での人前でのプレゼンに関して所属事務所から結構な勢いで褒められた経験もある。実地で学んだことだが、人前で話す場合に手元にシナリオがあると得てしてそれに縛られすぎて、説明が棒読みになる。こうなると相手の印象に残りづらくなるもんで、むしろ本番では資料を捨てるくらいの気持ちを持った方が相手に伝わるもんなのよ。それだと話忘れが出ちゃうかも、と言う心配はあるんだろうけど、自分が伝えたいと思い壇上に上がっていながら話し忘れちゃうことなんか、得てして落としちゃっても問題ない事柄なのよ。まあ、もちろんこれをするには、直前まで資料を読んで内容を頭にたたき込んでおく、と言う前段階は、シナリオ持ち込みする時以上に必須になるわけだが。
翻って、ぬたりが中学生の時に怒られたのは「ノートを書かなかったこと」。だが、本来スピーチをするという「目的」の時間であるのならば、ノートという「手段」は本来枝葉の部分。スピーチがうまくできなかったことに関して怒られるなら本望であるが(実際あの時のスピーチはひどかった記憶がある)、ノートを書いていないと言うことに関してだけ怒られるのは正直違うと思うな。「ノートを書かなかったからうまく話せなかったじゃないの!」というお説教は正当。「ノートを書かないとは何事だ!」と怒られるのは違う。作文の時間じゃない。スピーチの時間だろう。「手段のためには目的を選ばない」というのは基本的にギャグのネタではあるんだが、学校教育の現場では得てして真面目にそういうことが行われちゃうのよね。
で、これをもって大上段に教育を語ればありがちな話になるが、まあ今回のネタはどう考えても事前準備してないぬたりが悪い。少なくとも先生は悪くないんだけどな。実際うまくスピーチをできなかった時点でぬたりはいかなる責めも負うべきだろう。そもそも学校は「手段」を学ぶべきところであくまでも将来の練習。スピーチするのにノートを書け、というのは、人前で話す時は必ず事前準備をしろよ、という手段の練習の一環でしかない。だからノートを書かせていたこと自体は別に間違っていたとは思ってないし教師のお説教も正当なもんだろう。
実際あの時の経験はプレゼンで褒められたぬたりに確実につながっている。中学生の時に「いかに手間をかけずにスピーチをするか」という考えで行ったことは、プレゼンの資料作成や説明シナリオの作成(本番には持ち込まないが、事前の練習用には作る)に生きているし、その後の経験で、「いかに効果的に説明するか」という側面が加わっただけ。ぬたりの場合は声のトーンや抑揚でそれをやるので、手元の資料があると邪魔、ということで、説明時は必ず手ぶらで、作成したパワーポイントと対峙するわけさ。
と言うわけで、別に学校を貶したいわけじゃなく、当時があるから今があるのだわなあ、と言うことを言いたいだけではあるね。まあ、かなりねじ曲げた形ではあるけどね。学校で言われたことの素直な延長線上には今のぬたりはなく、脇道を見てみたら割と居心地がよかったのでそっち進んだ、って感じですかね。
ただ、自分が脇道にいる、というのは脇に本道があるのが見えてるから自覚できるんで、そういう意味で学校教育がなければ今のぬたりの自分自身を自覚できないことは間違いない。そういう意味ではやっぱり教育って大事なんだな、ってのは思いますね。まあ、「学校は手段を教えるところで目的は自分で見つけないとダメ」「学校が教える道以外にも、自分に合った脇道もちゃんと見つけた方がいいよ」ということ位は教えて欲しかったかも、というのはちょっとは思うけど。「とにかく学校に従え。それのみが正しいんだ!」という刷り込みはあんまりして欲しくはなかったな。
そんなことをふと思う、先日仕事関係の説明会に参加したら、説明者がシナリオ棒読みで耳に入ってこないにも程がある経験をしたぬたりでしたとさ。俺にやらせろもう少しマシに説明してやるぞ。
それはぬたりが中学生の時。ぬたりのクラスでは朝のホームルームで「スピーチ」なる時間があった。これは毎朝一人、順番になにがしかのスピーチをするという時間である。スピーチノートとかがあって、そこに事前に自分の話す内容を書いて、それをその通り話す、と言う段取り。
そしてぬたりが当番の日の朝、スピーチノートは白紙だったわけである。すっかり書くのを忘れてたわけ。
ぬたりはどうしたか、簡単な話だ。
朝登校してから、スピーチの時間までのわずかな時間でスピーチをでっち上げたのである。書いた物を読まなきゃいけない、と言う形であったのでスピーチの時間には白紙のノートを手に持って一席ぶって見せた。
今なら人前でしゃべるときはむしろそんなノートなんか書かずにフリートークをし、それなりに流暢にやれる自信もあるのだが、何しろ当時は中学生。結構なしどろもどろになり、怒られた記憶もある。
だが、今から思うと、スピーチなんぞはむしろノートを読まずに手ぶらで喋れた方が評価は高いわけで、ぬたりのやったことは、もちろん事前準備を怠ったという行為は褒められたもんではないが、将来の練習と考えるならばむしろ有用だったんじゃないかと思う。
かつてぬたりは仕事での人前でのプレゼンに関して所属事務所から結構な勢いで褒められた経験もある。実地で学んだことだが、人前で話す場合に手元にシナリオがあると得てしてそれに縛られすぎて、説明が棒読みになる。こうなると相手の印象に残りづらくなるもんで、むしろ本番では資料を捨てるくらいの気持ちを持った方が相手に伝わるもんなのよ。それだと話忘れが出ちゃうかも、と言う心配はあるんだろうけど、自分が伝えたいと思い壇上に上がっていながら話し忘れちゃうことなんか、得てして落としちゃっても問題ない事柄なのよ。まあ、もちろんこれをするには、直前まで資料を読んで内容を頭にたたき込んでおく、と言う前段階は、シナリオ持ち込みする時以上に必須になるわけだが。
翻って、ぬたりが中学生の時に怒られたのは「ノートを書かなかったこと」。だが、本来スピーチをするという「目的」の時間であるのならば、ノートという「手段」は本来枝葉の部分。スピーチがうまくできなかったことに関して怒られるなら本望であるが(実際あの時のスピーチはひどかった記憶がある)、ノートを書いていないと言うことに関してだけ怒られるのは正直違うと思うな。「ノートを書かなかったからうまく話せなかったじゃないの!」というお説教は正当。「ノートを書かないとは何事だ!」と怒られるのは違う。作文の時間じゃない。スピーチの時間だろう。「手段のためには目的を選ばない」というのは基本的にギャグのネタではあるんだが、学校教育の現場では得てして真面目にそういうことが行われちゃうのよね。
で、これをもって大上段に教育を語ればありがちな話になるが、まあ今回のネタはどう考えても事前準備してないぬたりが悪い。少なくとも先生は悪くないんだけどな。実際うまくスピーチをできなかった時点でぬたりはいかなる責めも負うべきだろう。そもそも学校は「手段」を学ぶべきところであくまでも将来の練習。スピーチするのにノートを書け、というのは、人前で話す時は必ず事前準備をしろよ、という手段の練習の一環でしかない。だからノートを書かせていたこと自体は別に間違っていたとは思ってないし教師のお説教も正当なもんだろう。
実際あの時の経験はプレゼンで褒められたぬたりに確実につながっている。中学生の時に「いかに手間をかけずにスピーチをするか」という考えで行ったことは、プレゼンの資料作成や説明シナリオの作成(本番には持ち込まないが、事前の練習用には作る)に生きているし、その後の経験で、「いかに効果的に説明するか」という側面が加わっただけ。ぬたりの場合は声のトーンや抑揚でそれをやるので、手元の資料があると邪魔、ということで、説明時は必ず手ぶらで、作成したパワーポイントと対峙するわけさ。
と言うわけで、別に学校を貶したいわけじゃなく、当時があるから今があるのだわなあ、と言うことを言いたいだけではあるね。まあ、かなりねじ曲げた形ではあるけどね。学校で言われたことの素直な延長線上には今のぬたりはなく、脇道を見てみたら割と居心地がよかったのでそっち進んだ、って感じですかね。
ただ、自分が脇道にいる、というのは脇に本道があるのが見えてるから自覚できるんで、そういう意味で学校教育がなければ今のぬたりの自分自身を自覚できないことは間違いない。そういう意味ではやっぱり教育って大事なんだな、ってのは思いますね。まあ、「学校は手段を教えるところで目的は自分で見つけないとダメ」「学校が教える道以外にも、自分に合った脇道もちゃんと見つけた方がいいよ」ということ位は教えて欲しかったかも、というのはちょっとは思うけど。「とにかく学校に従え。それのみが正しいんだ!」という刷り込みはあんまりして欲しくはなかったな。
そんなことをふと思う、先日仕事関係の説明会に参加したら、説明者がシナリオ棒読みで耳に入ってこないにも程がある経験をしたぬたりでしたとさ。俺にやらせろもう少しマシに説明してやるぞ。