フィヨルドの変人 ~Odd person in fjord~

ぇいらっしゃ~い!!!

本当はとても幸せだったとあとで気づいた

2023年10月16日 20時23分25秒 | 旅行&おでかけ
先日新潟に遊びに行ったんですけどね。
で、ぬたり一人で出かけてるならともかく、いまやおかあちゃんも一緒にいるわけで、食事のお店にも気を遣う。んで、スマホを駆使してとあるお店を訪問。褒める気しかないので店の名前も出すが、「FARM FRONT SEKI NOEN」である。米処南魚沼の米生産者が経営する直売所兼レストラン(カフェといった方が良いかも)といった形の施設。
米生産者の食事処な訳だから、食事しようとしたらメニューは実質「塩むすび」しかない。しかも、具なしのおむすび2個、味噌汁、漬物、海苔、のセットが1,480円とお世辞にもリーズナブルとは言いがたい。
しかしこれがまあ、バカうまい。
炊き方等の好みもあろうが、米を分かってる人間がきちんとおいしくなる様におむすびを作っているという感じ。ここはホントに米が食べられる人には全員にお勧め。言って食え。そして米という食材のポテンシャルを再認識すべし。
ぬたりは自他共に認めるおむすび好きであるが、おむすびを食べてそのうまさに思わずうなったのは人生で2度目。一度目は広島の「むさし」の銀むすび。あの時は「世界一うまいおむすびがまさか広島にあるとは」といたく感動したもんだ。今回のおむすびと比べてどうかと言われると「方向性が違う」と言うのがぬたりの回答。むさしのおむすびの肝は「握り具合」と「塩加減」の絶妙さ。握り具合はかなり優しく塩味は結構きつい。この具合が絶妙で正直むさしのおむすび食べるのならおかずなんかいらない。
一方FARM FRONTは良質な米をおいしくなる様に炊き、一番おいしくなる様なおかずを配している、という感じ。おむすびだけでも十分おいしいが、米がシンプルなおかずを引き立て、またおかずも米の存在を引き立てている感じ。これは良い店を見つけた。また行こう、と言いつつむさしのおむすびも久しぶりに食べたいなあ。

さて、今回のネタは、おいしいお店を見つけた、と言うだけでは終わらない。もう一つ、おいしいお店がなくなった、と言う経験も同日にした。店の名前はオレンジハート石打店である。
オレンジハートはマイナーにも程があるコンビニチェーン。正直ネットの情報も頼りなく、青森県内に数店舗まだあるらしく、ここ石打店も看板と店舗スペース自体は現存している。
オレンジハート自体がかなり緩いフランチャイズだったようで、結構各店舗は好きにやってたみたいで、結構どの店も「手作り弁当・おむすび」を売っていたようで、石打店も店内調理の惣菜やおむすびを売っていた。このためコンビニでありながら、地元南魚沼産の米を使ったおいしいおむすびが買え、しかもお値段もそこそこリーズナブル。コンビニおむすびと考えればすこし高いが、前述のように現地でコシヒカリおむすび食べようとすると結構な値段するから相対的に相当リーズナブルだった。なのでぬたりは通るたびに寄って購入していた。
が、結婚してからは新潟方面の外出の機会も減り、なかなか行けない状況。実際オレンジハートはフランチャイズ本部もいつの間にやら実態不明になり、2020年にみなし解散となっている。だから今も残っている店は当時の名残で名乗ってるだけ、という形。
で、今回、久しぶりに石打店を訪れたぬたりは、一応看板は掲げられたままで、店内電気もついていることから入店。しかし店内は一切商品はなく、ただのスペースを見ることに。レジカウンターはあったが、宝くじ売り場、として機能していた。まあ、ストリートビューを見てもまともなコンビニとしては機能できないなってのは分かっていたけどね。看板があるとは言え、これで新潟県からもオレンジハートはなくなったと言うことですね。青森の店舗は複数まだ営業中のようだが、流石に気楽に現地確認は出来んな。ストビューだとやってるっぽいけど。
まあコンビニチェーンの消滅なんて案外珍しいもんではなくて、結構たくさんあった全国的なチェーン店は、セブンイレブン、ローソン、ファミリーマートに集約された。地域展開のコンビニにしても大手に鞍替えは珍しくはなくて、群馬県でも地場コンビニ、セーブオンがローソンにまるまる移行した(移行せずに閉店した店も結構あったけど)。世の中は移り変わっていくんだなあ、としみじみしつつ、知らなきゃ寄れないような地味なコンビニに美味しいおむすびがあることを知ってて、何回も寄って食べられたことの幸せを素直に喜びましょうかね。オレンジハート石打店様、お世話になりました。
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(あえて今だから)群馬県内石田三成を巡る旅 さいご

2023年03月12日 20時23分17秒 | 旅行&おでかけ
さて思いもかけず大舘御前の話が長くなってしまったので、あと2つは駆け足で。まああとは伝承の話ですからね。

やってきたのは伊勢崎市茂呂町にある退魔寺。

なかなかに立派なお寺ですな。
名前からして勇ましいお寺ですが、この名前の由来話に三成公が出てくる。
時は安土桃山時代。この頃この寺は香華院と言う名前だったそうだが、寺のすぐ近くの橋に妖怪が現れ、土地のものは皆困り果てていたという。そんな折、小田原攻めのために当地を通りかかった石田三成公は困った人々を見るに見かねてこの妖怪を退治してしまったという。住人たちは大層喜び、このことにちなみ近くのこの寺を「退魔寺」と改称し、寺の紋も石田三成公の紋をいただき、その恩を末永く後世に伝えたそうな。以上が退魔寺の由来と伝わっている。
まあこの伝承自体はそんなに信憑性もないだろうけれどもね。寺の紋もどうなんでしょう? 香炉には丸に三階松が入ってたけども、石田家の家紋は九曜か下り藤と言われてるよね確か。まあ寺紋が今も当時と同じって訳でもないのかもしれないが。
ちなみにここ、中世の茂呂城の本丸跡にも当たり、趣味の城跡巡りもかねての訪問。まあ、城跡としての遺構はほとんどないんだけども、そうすると寺の位置は当時とは違うと言うことにもなるんだけどな。一応戦国期の城跡になるし、ここ。
ともあれ、小田原攻めをした武将はたくさんいて、勇名を馳せる人物もかなりいる中で、わざわざ石田三成公を選出するあたりなかなかに渋く、微妙な説得力のある伝承ではありますわね。北関東で石田三成公の小田原攻めなんて、それこそ忍城落とせなかったことくらいしか話題はないのにな。

そして次のスポットは県北沼田市宇楚井町。ここに白栄寺というお寺がある。

ここには石田三成のものと伝わるお墓とお位牌があります。ゆかりとするとズバリですね。
で、ぬたりはアポもなく興味本位で訪れてますから、当然お位牌なんか見られるはずもなく(まあ、見学する気もなかったが)、一応お墓と伝わる石塔を見学させていたのみ。
こちらも一応石塔の写真は遠慮するが、複数並ぶ歴代住職のお墓で、これが光成公のものである、という案内はなかったものの、確かに石塔の一つに「石田」とは刻まれていた。ググってみると、本堂に安置してあるお位牌には裏に「石田治部少輔公」とはっきりと刻まれている。
まあ、これも伝承の域を出ませんけどね。位牌の文字も石塔に刻まれた「石田」の文字も、正直あとから掘られたもの感がどうしても拭えないし。特に石塔は、そこに文字を刻むか? って場所に彫ってある。なのでこれ自体はそんなに信憑性も求められない。
とは言えここは沼田の地。かつて治めていたのは真田家であり、三成公と比較的関係性は良好だったと伝わっている。なのでこちらの伝承も微妙な説得力を持っていたりもするんですけどね。実際真田家との関係性も浅からぬお寺のようで、真田幸隆公のお位牌もあったりするらしい。
そうは言っても三成公の生存伝説を頭から信じることはできないわけで、地元の興味としても、「どうしてそんな話になったか」「そういう話になる経緯はどんな感じか」、という感じに向いてることは否めない。勿論ぬたりとしても、経緯はともかく、興味本位ながらも縁あって墓参をさせていただきました、と言う気持ちで、小高い山腹にある墓所で手を合わせてもらいました。その後、ふと振り返ったときに見えたその風景に、なんとなくこんなことを思いましたね。


波乱の人生を送った三成公が、こんなのどかな風景で眠ることができているなら、それは素晴らしいことだろうなあ。(おわり)
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(あえて今だから)群馬県内石田三成を巡る旅 そのいち

2023年03月10日 21時31分36秒 | 旅行&おでかけ
今年の大河ドラマの主人公は徳川家康ですね。
徳川家康公は歴史の教科書でも扱われる方で、特に関ヶ原の戦いと江戸開府については必ず扱われる出来事。それぞれの1600年、1603年なんてのも暗記させられましたね。
そのうち関ヶ原の戦いの相手役と言えば石田三成。従前の三成と言えば「融通が利かず仲の悪い諸侯は数知れず」と言ったイメージで語られていたけども、昨今はイメージ回復も図られて、滋賀県がイカしたCM作ったりツイッターで大活躍をしておられたり、今では「不器用にもひたすら秀吉に忠義を尽くした人物」という感じで語られることも多いかな。かつてはひたすら文官扱いされてもいたけども、なんなら戦での活躍も再評価が進んでいる。
三成は出身も知行地も近江(今の滋賀県)で、ぬたりの住む関東地方との縁はあんまりない。実際歴史に残るのは小田原攻めくらいなもんだろうが、ぬたりの住む群馬県においてなぜかゆかりの地が存在する。しかも知る限り3カ所。勿論すべてが確実に縁があるというわけではなく2カ所は伝承の域を出ず、雲の上の三成公が聞いたら苦笑されるかもわからんのだが、ともあれ知ってしまったので石田三成公ゆかりの地巡りをしてきました。なお、1日で一気に巡ったけど、バックボーンの解説とかやたら長くなるから何回かに分けるよ。
ともあれ、群馬に残る石田三成公ゆかりの地巡り、スタートです。

ここは太田市世良田町にある世良田東照宮。「東照」の名前があるとおり主祭神は徳川家康公(東照大権現)。徳川氏はその出自を新田源氏に求めており、ここは元々は新田氏の一族の世良田氏の館があった場所。新田氏の一人、新田義季が「得川」を名乗ったとの伝承から、これにあやかり家康は松平から最終的に「徳川」に改姓。そしてその得川義季の本拠地がここ世良田氏(義季かその息子が世良田と称し始めたらしい)の館だったというわけで、江戸時代にここに東照宮が建てられた。
勿論この出自が怪しいにも程があるのは歴史の常識。というかまあ、多分家康は新田氏の血なんか引いちゃいない。それでも新田氏の一族を参考にして「徳川」を名乗ったのであれば、このあたりが徳川という「名乗り」の発祥の地と言ってしまっても間違いではない訳ですわ。

と言うわけで、現在太田市は「徳川発祥の地」としてピーアールを図っている。この近くにはまんま「太田市徳川町」という地名すらある。徳川町には満徳寺という縁切寺として有名な場所があり、ここの初代住職は前述の新田義季の娘、と言うことで、東照宮共々「徳川ゆかりの寺社」として幕府の手厚い庇護があったそうです。

・・・ってなんで石田三成ゆかりの地に行くのに長々と怨敵とも言える家康のゆかりの地の説明してんのだと、雲の上の三成公が発狂しそうなんでこの辺にしておきますが。
長々と東照宮の説明したのは、この東照宮のホントに目と鼻の先に三成公ゆかりの地があるから。しかもここに限っては伝承ではなく、確実にゆかりがある地だったりするのよ。だから東照宮から車でどのくらいで着けるのか、実際に計ってみたかったのよね。それに大河やってるとこで、ゆかりの地としては若干渋めのここにどのくらい人がいるのか気にもなったので。平日に行ったんだが、人はポツポツいたよ。 確実に大河効果はありますね。

そして東照宮から車を走らせること、6分04秒(実測値)。最初の目的地に到着いたしました(長くなったので続く)。
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渋川市道3号線の逆襲 一考察編

2022年11月04日 09時21分48秒 | 旅行&おでかけ
ぬたりが今回こだわった渋川市道3号線は、路線指定自体は国道353号線の小野子地区から県道35号線の祖母島地区に至る道になる。歩道になったり繋がっていなかったりで変則的な印象ではあるけど、経路的には実は始点から終点までを比較的に素直に結んでいる。
で、この道が昔「小野上村道3号線」だったことは間違いない。では現在の渋川市道3号線がすべてが小野上村道3号線だったかと言われれば、この可能性は低いんじゃないかと思う。小野上村道3号線の路線指定の目的が祖母島駅へ向かうための指定であるのはほぼ間違いないと思う。県道35号に至るための道として指定するなら県道35号線にそれなりの目的地がないと小野上村は渋川市内に村道を指定できないが、特にその必要性を感じられるものはない。終点のあたりにあったものはせいぜいバス停くらいなもんだが、市道3号線の始点は国道353号線であり、昔からバス路線も設置されているから吾妻川対岸に行く必要はない。しかも橋を渡ってたどり着いたバス停はこの体たらく。


一方小野子集落内でバスに乗るならこんな感じ。


で、段丘を上る部分の車が入れない部分の道の正体は、明らかに昔の集落道が今に残っているもの。祖母島集落の中心地は段丘上の平地にあり、ここは明治期に灌漑用水が引かれるまでは水利的には貧弱な土地。一方段丘下は吾妻川の川のレベルとなり、比較的平地で水利もよい。耕作には適しているが、大雨になると洪水のリスクも抱え込む。だから住居を段丘上において、田畑は段丘下に、という形式は理にかなっている。その行き来のために古くから使われていたのがあの歩道部分だったんだと思う。前回に「古道みたい」という言葉を何回か使ったが、掘り込まれ方とか見ても、一朝一日に作られる雰囲気じゃない。
そういう歴史のある道であっても、自動車全盛の時代になってしまえば、多少遠回りであっても自動車であれば変わらないし、地区の交通整備の中心となる祖母島駅ができてしまえば、そちらを中心に車道は整備されて、この道は使われなくなっちゃったんだろう。
ただ、モータリゼーションなんて所詮戦後しばらく経っての話。それ以前から道路行政は機能していたわけで、その頃は歩道の市道指定なんて珍しくもない。その頃の指定のままずっと公図上残り続けていた部分が、ほかに接続できる道と同一化されて今の小野子地区から祖母島地区をつなぐ渋川市道3号線としてつなげて指定された、という感じなんだと思う。道路としても、国道から県道を結ぶ、と一応形になるしな。それにしても何となくで訪れた道がこんな珍しい側面を持っていたとはねえ。だから道好きはやめられないんですわなあ。
・・・とまあ、語ってはみたものの、路線指定は所詮お役所の書類上の話。実際の道の姿は、
小野子地区から橋を渡って祖母島駅に向かう道
段丘の崖を登る、今はもうほとんど使う人のいなくなった道
祖母島地区を横断して県道にぶつかる道
の3つがあるに過ぎないんだけどね。現地にそれと分かる目印もない。歩道部分に市の管理の痕跡があれば面白いと思って探してみたんだけど、残念ながら何も見つからなかったな。だから詳しくない人に話しても何が面白いのかさっぱり分かんないんだろうけどね。

実際うちのおかあちゃんに話したら「だからそれが何?」とにべもなかったわ。
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渋川市道3号線の逆襲 現地編

2022年11月03日 10時25分43秒 | 旅行&おでかけ

というわけで再びやってきた道の駅おのこ。
今回はあくまでも渋川市道3号線を辿ることが主役。前回辿れなかった部分だけ辿るなら祖母島駅あたりに車止めて歩く方が効率は良さそうだったんだが、全線踏破にこだわって今回もここに車止めて歩く。

で、やってきた市道起点。ここを上れば前回恐怖の体験をした第一吾妻川橋梁なんだが、今回は道をたどるのがメインだから橋は二の次ということで。

でも数分で電車が来ちゃったもんだから、今回は歩道と電車の距離感に注目してパチリ。こうして撮るとより近さをお分かりいただけるんじゃないかと。ぬたりは前回、この歩道に立ってたんですぜ。これは近いわ。

んで、ちょっと歩くとT字路に。前回は迷いもなく直進したが、渋川市道3号線はここを右折する。まあ、直進も渋川市道のようなんですが。番号は7510号線。このT字路から祖母島駅までが路線。つまりこの写真に渋川市道7510号線がすべて写っているということなんですが(奥の左カーブまで)

曲がった先の3号線。見た目はほぼ奥の家に入る私道ですけどもれっきとした公道。そして写真の一番奥で突き当たる。

変則的な十字路になっていますが、右左折と直進、いずれも市道3号線ではなく違う番号の市道(直進路も私道ではなく坂上がるまではれっきとした市道)。公図上、市道3号線は正面の藪に突っ込むことになっている。

もちろん道はない。実は市町村道の世界では、こうして公図上は道があるのに実際には道がないってのはたまにあること。元は道があったのかそれとももともと道はなかったのか、ちょっと判断が付きませんが。
ともあれここは入っていけないので迂回。

段の上は田んぼになっていて、写真は振り返って撮影。公図上はこの田んぼを突っ切ってくることになる。実際現地で見てみてもこの田んぼの中に道がある(あった)様子はない。んで、上がってきた道だがここで道は復活する。写真左側からこちらに伸びている道が市道3号線である。

進行方向を見る。これが間違いなく渋川市道3号線である。決して畑のあぜ道ではないのです。天下の公道です。

少し進むと上り坂に。繰り返しますがここは間違いなく渋川市道3号線です。道は吾妻川の河岸段丘を上る経路を取る。

道は九十九折で段丘を上る。これが1回目の折り返し。少し道っぽくはなりましたな。よくなったと言っても車が通れる道では断じてない。狭いし急すぎる。

2回目の折り返し。坂の急さが分かるような写真が取れた。

3回目の折り返し。この辺りからかなり掘り込まれた古道のような雰囲気を見せてきた。いや、古道辿りに来たんじゃなくて、現役の市道を歩きに来たんだが。

そして4回目、最後の折り返し。ホントもう古道の雰囲気。あえてもう一回言います。この道は現役の渋川市道3号線です。

そして登りきる。この写真だけなら江戸時代の街道の峠と言っても通用しそうな感じではあるな。

で、上りきるとこんな感じ。えっとね、

だからここは天下の公道なんだってば。畑のあぜ道じゃないんだってば。ただ、写真の奥に映ってるカーブミラーのところで未舗装は終わる。

道は十字路になっていて、市道3号線は左から来て右に抜ける。

その先すぐにY字路になってるのでここは狭い方の右。

いやあ、祖母島って散歩するにはいい場所だなあ。雰囲気がすごくいい。写真見てもわかるとおり当日は雲一つない晴天。歩いてて気持ちいいわ。

そして市道3号線は県道に突き当たって終わり。これで今回の散歩の最大の目的を達成することができたわ。

終点を振り返る。残念ながらというか当然ながらというか、特に市道であることを示すものはなかった。

というわけで渋川市道3号線は辿れる部分は完全踏破できました。で、辿りながらいろいろ考えることがあったので、次回はちょっと好き勝手にこの道の事を語ってみたい。
ええまあ誰もそんなこと興味ないだろうけども。
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渋川市道3号線の逆襲 事前編

2022年11月02日 21時21分50秒 | 旅行&おでかけ
いやもう、道路の細かい話をここでしても面白がってくれる人は少ないとは分かっているんだがね。要はチラシの裏にでも書いとけそういうのはって言われちゃうんだが。

先日ネタにした渋川市道3号線であるが、道の設置目的は「小野子地区の人が祖母島駅に行くための道」だと考えていた。まあ、JRが鉄橋の歩道併用を認めているのも、「沿線人口の確保」という目的に沿うからだろうし、この点に関しては間違いないと思う。
この場合、市道の路線認定するなら小野子集落から駅まで指定するのが一番素直な考え方。この場合、現在は始点も終点も渋川市で問題はないが、平成の大合併前だと始点は小野上村で終点は渋川市。市村境で管轄を分けて橋までを村道、橋から駅までを市道とすると「小野上村民が渋川市の駅に歩くための道を渋川市が税金使って半分整備する」という形に捉えられかねない。普通こういう複数の市町村を経由する道路は都道府県道が担うところなんだが、何しろここの道のニーズは小野子集落の住民のみで、都道府県全体のことを考えて整備する都道府県道の考え方には少々そぐわない。
で、日本の法律はこういう事態もちゃんと考えているもので、「最寄り駅への道路確保」とかの明らかな目的があるなら、市町村道はよその市町村の区域内に路線を指定することもできる(県道だと管轄外の指定は一切不可。国道は言うまでもないな)。勿論相手方の承認を得なければ指定はできないが、自分の区域内の道を隣の市町村が整備してくれるんだから、受け入れ側にとってもそんなに悪い話でもないと思う。
つまりこの市道3号線、昔は「小野上村道3号線」として、駅まで路線指定されていた可能性すらあったわけで、現地では祖母島駅まで歩いて制覇したという気になっていた。探せばいくらもあるだろうが市町村区域外の市町村道指定なんて珍しいと言えば珍しいんだし。
で、実際小野上村だった頃の路線指定までは調べられなかったんだが、今現在の渋川市道については一応ネット上に地図が公開されている。その情報を見てみると、現在の渋川市道3号線の指定がどこからどこまでかが分かるようになっていた。早速見てみると・・・

・・・散歩したルートと違うじゃん。
橋を渡ったまではいいが、その後右折。最終的には県道35号線に突き当たって終わる。要するに当日祖母島駅で「これで渋川市道3号線を踏破できたぜ。路線全体を味わうなんて、道路好きの面目躍如だぜ」などと悦に入ってたくせに、実は4割くらいは路線を取りこぼしていたという現実。これは恥ずかしい。
いや、分かるんだ。市町村道の路線指定なんて所詮はお役所の書類上の話でしかない。道の性格からすれば祖母島駅まで辿るのが最も素直で、散歩ルートとしても明確な目的地もできて面白かったんだからこれで全く問題ない。
要は道好きとしての矜持の問題なのである。
元々は珍しい橋として第一吾妻川橋梁に行った際にそこが市道として指定されていた、というあくまでも後付けの理由で興味を持ったにしても、興味を持った以上、それを辿ろうとした以上、せめて全線踏破はしなけりゃ道に申し訳がない。
と言うわけで、ブログネタとしてはもはや誰の興味も引かないであろう渋川市道3号線の全線踏破リベンジの様子を次回お伝えしようと思ってますよ。
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渋川市道3号線をのんびり散歩した話

2022年10月22日 20時57分13秒 | 旅行&おでかけ
さて、列車がすぐ近くを通っているから吾妻線を珍しい車両が走れば撮り鉄で埋め尽くされんじゃないかという特異な第一吾妻川橋梁だけども、道路好きなぬたりとするとここを道路として楽しみたい、という思いがあった。この道が小野子集落から祖母島駅への短絡さにあるのなら、とりあえずは祖母島駅まで歩いてみることにした。

とは言えまだ橋の上。傍らにはJRのキロポストがあった。よく見かけるけど実際に触れられるところにあるのは珍しいんじゃなかろうか。

渡り切って橋を映してみる。こうしてみると市道の部分は完全に添え物扱いですねこれ。橋桁に直接乗ってないもん。

渡った先も狭い道が続いてますね。ここも線路わきの歩道ちっくですが、向こうを向いてる看板が一枚。

何と橋までは車が入っても良いらしい。ただしUターンスペースはないからここまで来たら長い距離バックで戻ることになるけど。ぬたりのミゼット2でも多分旋回は無理。

ちょっと歩くとこんなのどかな風景に。いやあ、ここ散歩道にすごくいいなあ。

道は1区画だけ不自然に未舗装の部分がある。そしてその脇にはなぜか1区画だけ耕作されたと思しき田んぼ。用地交渉に応じてくれなかったのかな? 歩く分には全然問題ないんだけど。
写真だと道がクランク上に曲がっているけど、その奥の曲がってるすぐ先が吾妻線の祖母島駅。

これが道側から見た祖母島駅。吾妻線の駅の中では駅舎から見える人家が最も少ない部類に入る駅で、雰囲気だけなら「秘境駅」ともいえる駅。ただし、ぬたりが歩いてきたように、一見道がなく遠いように思える対岸の小野子地区の最寄り駅でもあるから、生活利用を期待できる人口は見た目よりは多い。ただ、昨今のJRの厳しい台所事情は吾妻線においても対岸の火事ではなく、赤字が出ていることはJR東日本からも公表されている。

そんな台所事情を示す張り紙が待合室にあった。「今後一切代替手段は用意しねえぞ」という意味までではないと思うが、こうして掲示する以上は以前に比べれば代行バスの運行は縮小するってことなんだろうし。うーん。

とは言え、静かな雰囲気を感じながらパチリ。ローカル線の駅はそれだけで絵になりますな。もともと利用者の少ない駅ではあり、次の上り列車が到着する20分くらい前まで駅にいたが、誰とも会わなかった。
とまあ、こんな感じのちょっとした散歩でしたとさ。道の駅おのこに車止めれば1時間強の散歩になると思うので皆様も是非どうぞ。列車がすぐ近くを爆走する恐怖体験と祖母島駅近くの牧歌的な風景と、メリハリのある散歩体験ができますよ。
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吾妻線第一吾妻川橋梁で死兆星を見た話

2022年10月21日 20時51分55秒 | 旅行&おでかけ
(昨日の続き)
んで、道の駅おのこから歩くこと数分。目的地が見えてきた。

渋川市道3号線である。
市道としてはかなり若い番号ではあるけれども、世間一般に言う立派な道というわけではない。

何しろ車両通行禁止ですしね。

実際狭い。スマホと比べるとこの幅。人のすれ違いですらやっとという感じ。
この密を避けるご時世に、と思われるかもしれないが、まあ田舎の道ですから心配はいりませんよ。
ぬたりはこの渋川市道3号線を始点から終点まで1往復しましたが、誰ともすれ違わなかったからなあ。
さて、ともあれ上の写真の坂道を上る。坂を上り切った先に見える風景がこれ。

鉄道の橋を歩道も渡っております。この歩道は立派な渋川市道3号線である。
ここは吾妻線第一吾妻川橋梁。JRの橋梁を歩いても渡れる全国的にも珍しい橋になります。
ここで法律のお勉強。日本の公道を司る「道路法」第20条にこれに関しての定めがある。公道上に他の管理者が絡む構造物がある場合、お互いが協議して管理方法を定めなさいよ、という趣旨の条文で、こういう構造物を「兼用工作物」という。身近な存在では踏切なんかがこれにあたる。
んで、道路と線路が共有する橋梁なんてのは結構あちこちにある(レインボーブリッジとか瀬戸大橋とか)んだが、この吾妻線第一吾妻川橋梁はJRの線路の脇に歩道が設置されていて、しかもかなり近い、ちょっと考えれば保安上の理由でこういう構造をJRが認めたがらないのはすぐ分かる。ここに関しては相当猛烈に地元が要請したんじゃなかろうかと。橋の左岸側の小野子集落は線路こそあるものの駅はない。この橋を渡れるか否かでは最寄り駅までの距離は天と地ほどの差になる。道路専用の橋も上流川下流側かなり遠く、やはりこの橋を渡れるかどうかは重要になってくる。その期待の表れが「3号」という若い番号に表れてるんじゃないか、と考えるのは穿ちすぎか。最初の写真で市道の文字だけ新しいから、ここは平成の大合併までは小野子集落が属していた「小野上村道3号線」だったんだろうし。
で、ここまでくれば橋の上で実際に列車が渡っていくのを体験したいじゃないですか。そんな皆様に残念なお知らせです。吾妻線はかなりなローカル線で本数も少ないです。それを前提として、時間を少し巻き戻す。道の駅から歩きだしてあと橋までもうちょっとだなあ、というところでぬたりが見た光景をお見せしましょう。

列車行っちゃったよ。
これはかなりなショックでしてね。おいおい、橋の上で待ちぼうけかよ、と思いつつ、今はとっても便利でスマホで時刻表を確認。すると20分くらいでまた列車が来ることが分かった。こんな珍しい橋あちこち撮影していれば20分なんてあっという間よ。
実際あれこれ思ったままにシャッターを切っていると、列車の通過時間が近づく。この距離での列車通過どんななのかなあ、と思っているとやってきましたよ。

特急草津が。













・・・電車って近くで見るとでかいのな。
怖かったかどうかと言えば、座りしょんべんもの(実際怖いので最初から片膝ついてた)だといっておきましょうか。何よりもう振動がすごい。ファインダーを覗いていたから見た目はまだ誤魔化せたが、音と振動のすごさに多分体が無意識に外に逃げていたんだと思う。橋全体が外に傾斜している錯覚を覚えたもの。それにしても最寄りの祖母島駅での減速加速の影響が比較的少ない特急といきなり鉢合わせしたのは運がいいのか悪いのか、自分でもよく分かんないなあ。

以上が全国的にも珍しい歩道と鉄道の兼用工作物、第一吾妻川橋梁の話でしたとさ。今回のネタのクライマックスですな。
次回は渋川市道3号線をのんびり散歩するネタになりますよ。
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グーグルマップで行くB級スポットの旅

2022年10月20日 20時54分02秒 | 旅行&おでかけ
世の中にはB級スポットと呼ばれるものがある。
基本的には「一般的な観光地になりえない」とか「興味を引くにしても一部の人だけ」みたいな感じの場所のことを言うのであるが、昨今は多様性の時代でかつてのB級スポットが今や普通に人気観光地、なんてことも多くなっている。例えば栃木群馬埼玉の三県境なんて、ぬたりが初めて行ったときはほとんどの人に見向きもされてなかったが、今やかなりの人気スポット。土日ともなればかなりの人が訪れている。
ぬたりもこういう変なスポットは割と好きであちこち出掛けているのだが、ソースとなるのは今やネットの情報。これ自体は便利なんだが、ほかの人の情報でほとんど行った気になれてしまい、現地に行った時の新鮮さが失われてしまうのが弱点と言えば弱点。
んで、ちょっとドライブの予定があったので向かう方になんかスポットはないもんかと前日になってグーグルマップを眺めていたところ、気になる表示を発見。

なんすかこれ?
いやまあ、その場でググればあっという間に解決するんだろうけど(実際写真はヒットした)、せっかくのドライブだから情報を仕入れずに翌日にドライブに出かけてみることにした。

んで、早速やってきました道の駅おのこ。ぬたりの記憶に間違いがなければ県内の道の駅の中では古株の方だと思う。後の筍のように道の駅があちこちにできた時期があったけど、それよりかは少し早かったような気がする。
まあこれは裏返しな部分もあって、当時の道の駅はうどんそばコーナーと農産物直売所があればオーケー(道の駅的には24時間使えるトイレとかも必須条件らしいが)、みたいな時代にできたので、ここならでは、という特徴は正直ない。もちろん農産物直売所は一定のニーズがあり、写真からもわかるとおりちゃんとにぎわってましたけどね。
んでまあ、ぬたりは別に野菜買いにに来たわけではなく、目的はスペリオルガンダム滑り台。もったいぶるほどのもんでもないのでとっとと写真をご覧いただきましょう。

まあ、板に描いた絵が貼ってあるだけなんだが。
・・・あれ?がっかりしてる?
でもそれは大人の目線だと思うわ。ぬたりは20分くらいは道の駅にいたが、複数の子供が楽しそうに滑っていましたわ。何が貼ってあろうと子供が喜んで遊んでくれれば、とりあえずそれでいいでしょうよ。絵が一枚貼ってあるくらい、話題になるほどのもんでもないでしょう。

・・・近くにこんなもんも飾ってありましたけどね。
これもスペリオルガンダムっぽいけどもね。道の駅スタッフにガンダムマニアでもいるのかしら?
近くで見ると結構な手作り感。うん、これは正しいB級スポット。
で、勘違いしないでほしいが、ぬたりはB級スポットの良さを「一生懸命さ」にあると考えている。確かにこれらのスペリオルは再現性はお世辞にも高いとは言えない。けれども「見た人に楽しんでもらおう」と手持ちの材料と技術で一生懸命に作ったことが分かる。確かにお台場のガンダムの方がすごいし多くの人の興味を引くんだろうが、ガンダムへの愛だけはこっちも負けてないように思うんだけどな。
こういう造形のものはテレビだと単なるオモシロ物品、として笑いの対象にもされがちではあるんだけど、笑ってもいいから、その向こうにある関係者の一生懸命さも含めて楽しんでいただきたいとはいつも思っていますよ。

で、道の駅おのこは実は車を駐めるために寄ったのが目的でしてね。ここから歩いて行った先が当日の主目的だったりしますけどもね(長くなるので続く)
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国境の長いトンネル

2022年05月04日 21時12分45秒 | 旅行&おでかけ
さて、世の中マンボウのないゴールデンウィークである。
実際出掛けたみたりもすると確かに人出もいつものGWくらいの感じで、観光地にも人が戻ってきた感じしますね。要は各自きちんと気を付けて出かけなさいよ、という感じですかね。
で、ぬたりもGWを利用して出掛けてきた。せっかくのお出かけである。群馬県近郊では有数の観光スポットに行こうとすればここしかないよね!

クロソイド曲線の碑ですよね!!
・・・待て。帰んなそこ。
まあ、一緒に行ったおかあちゃんの反応も冷めたもんで、車から一切出ようとしなかったくらいであるので皆様も興味ないであろうことは簡単に想像できるのであるが。
でもこの碑は日本道路史を語るのであれば割と重要な場所に建っているのよね。群馬と新潟の県境、三国峠にある。
道路というのは直線とカーブから出来ており、低速移動が基本であればカーブの曲線なんて割とどうでもよく、地形を素直になぞったり、単純にコンパスで書いたような均一な曲線にしておけば特に問題はなかった。
だが自動車が道路の主役になるとそうはいかない。単純に曲がり方が均一なカーブの場合、そこを自動車で曲がろうとするとカーブに入った瞬間、一気にハンドルを切って、カーブを抜けたらまた一気にハンドルを戻すという動作が必要となる。これだとスムーズな運転が難しくなるし、一気に体を振られるから酔いやすくもなる。単独カーブならこれでもいいけど、右に左にとカーブが連続する峠道の場合は体への負担が結構大変なことになる。
そこでカーブの入り口と出口に曲がりの緩い部分を作る(緩和曲線と言います)。こうすることにより少しずつハンドルを回して、また少しずつ戻すという動作に合うようにカーブをデザインしたわけで、この自然な動作に一番合う曲線がクロソイド曲線と呼ばれる曲線で、それを生かした本格的な峠道が初めて採用されたのが国道17号三国峠ということで、これはそれを記念したもの。
で、ここまで書いてなんなのだが、今回ここに来たのはこの碑が第一目的というわけではない。なんなら以前に見に来たこともあったからね。第一目的はこの碑から視線をずらすと見えてくる。

トンネルが二つ並んでます。
向かって右が従来から使われていた三国隧道。そして向かって左が新しく開通した新三国トンネル。この2つのトンネルを見に来たのね。
三国峠の車道の完全開通は昭和34年。この時に同時に峠のトンネルも使われ始めたのだが、開通から60年、大きな問題があったわけではないものの老朽化と若干手狭であったことから、数年前から新しいトンネルが掘られ2022年3月(ぬたりが行った時点で開通後2か月ってとこ)に開通していた。何しろ群馬県と新潟県を結ぶ、唯一の無料で通年通行可能な車道である。群馬県に住む道路好きとすれば見ておきたいわけよ。
というわけで以降写真を交えて新しいトンネルの話をば。たとえ閲覧者がまったく興味を示さなくても!(そういうのはチラシの裏にでも書いておかんか)

まずは新しいトンネル(新三国トンネル)の群馬側坑口。地肌から少し突き出た形になっているのは雪崩対策かしらね。

そして道路好きが必ずチェックする銘板。情報の宝庫ですね。で、そんな銘板から振り返ると、

なんですかあの穴? 立ち入り禁止になってる古いトンネルの前に行けるのかしら?

穴出たとこにはなんかもう怪しいにも程がある橋架かってますけど、橋の先は特に歩道っぽい感じもなし。ただ、特に立ち入り禁止という措置もなく古いトンネルの前に立てた。

これが60年間三国峠で頑張ってきた三国隧道。扁額は取り外されてますね。

同じ場所から振り返ると入り口から立ち入り禁止になった様子が見えますね。こんなところ堂々と立ってていいのかと思われるかもしれませんが、ここに立ち入ることに今のところ一応の理由は立ちます。新トンネルからさっきの穴を抜け、旧トンネルを横切った先にこれがある。

昔からの三国峠に至る自然歩道がある。旧トンネル入り口の橋が通行止めにされている以上、この歩道に行くためには新トンネル→旧トンネル入り口を横切る→歩道入り口、と辿るしかないのね。なお、旧来の三国峠はもっとずっと麓から車道と別れ、基本尾根筋を辿る形で峠に至っていますので、ここは単純にトンネルと峠の短絡路として昭和に入ってから整備されたもの。旧三国街道も歩道として今でも整備されてます。

旧トンネルをのぞき込んでみる。まだ現役時代とほぼ変わっていないですね。ライトが消灯されているくらい。

新旧トンネルを横から。こうして比較すると、旧トンネルの歴戦の猛者っぽさが出ますね。

トンネル入り口の新旧橋も道路好きとしてはなかなかの見どころ。橋の型式が違うのは時代の違いですね。

そして場所変わって新潟側坑口。こちらもなかなかの近さ。

こちらも横からの並び。やっぱり旧トンネルには歴戦の猛者感があるな。

旧トンネルには扁額があったものの、新トンネルには無し。この看板が代わりですかね。ちなみに旧トンネルの扁額も金属板の埋め込みではあったけど、揮毫は当時の建設大臣、根本龍太郎氏のものだった。


とまあ、日本の道路史の一頁を飾る場所の観光でしたとさ。ちなみにこれで観光終わるとおかあちゃんに本気でぶん殴られるので、三国峠近くの苗場プリンスホテルにてランチとさせていただきましたわ。

スキー場はもうやってなかったから、ちょっと寂しかったけどね。
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