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フィヨルドの変人 ~Odd person in fjord~

ぇいらっしゃ~い!!!

古道由来の十八坂七曲を歩いてきました 事後調査編

2024年12月02日 21時04分24秒 | 旅行&おでかけ

十八坂七曲の遠景。相向かいの崖の真ん中あたりの沢になってるあたりが七曲。こうして見てみると実際地形の険しさが分かる・・・と言いたいところだが逆行気味で詳しくは分かんないのよね。

と言うわけで、現在の道路地図には載らない沼田市の「十八坂七曲」を歩いてきた。
率直な感想とすれば案外ちゃんとした道だった、と言う印象。廃道ではあるし藪化や落石、土砂の流入はあるけれども、路盤の決壊とかはほとんどないからちゃんと整備すればまだまだ使える。歩道として見ればむしろ立派な道になるくらいだと思う。
それにしても道を作る人の地形を見る目は実際確かで、この道は崖の上と下を行き来できるピンポイントの位置に開削されている。ここ以外は道など開削が出来ないほどの険しい崖となっている。ただ、道を通せたとは言え実際険しい地形であることに変わりはなく、自動車を通せる規模の道を通すのはかなり大変だってのは実際歩いてみてよく分かった。現在の道をいくら改良しても自動車が走れるようにはならないと思われ、このルートを車道昇格させるには新規に道を作るくらいの規模で莫大な費用をかけなきゃならない。そこまでしても通行量はさして多くならないだろうから、どう考えてもここが車道になる事はないだろう。
モータリゼーションの浸透は道づくりをがらりと変えたと言ってよく、どんなに歴史がある道でも自動車が走れないとなれば容赦なく淘汰され、逆に自動車を通したいというニーズがたくさんあれば、多額の費用をかけたとしても地形を克服して道を作ってしまう。それは良い悪いの話ではなく、道というのは人に使われ、人の役に立つためだけにそこに存在するわけであるから、多くの人の役に立つ道、使いやすい道は「正義」という単純なことなのである。

閑話休題

ともかく発端とすれば「江戸時代まで使われていた街道をルーツにする歴史ある道なのに今は使われていない道」という形で、いわば古道を巡る気持ちで歩いたわけだが、現地を歩いてどうしても一つ気になることが出てきた。
この道の今現在の法律の位置づけはどうなんだ?
道にも種類がある。有名なのは国道、県道、市町村道だが、他にも林道、農道、港湾道なんてのもあり、それぞれ法律で管理される道。また、市町村道からすらも漏れた集落道を里道と呼び、現在では市町村が管理を行うもの(これも法律に規定がある)と集落が独自に管理をするものに分けられる。道といっても種類は多いのだ。
とは言え、この道が属する道として可能性のあるものは多くない。道路的に国道と県道、港湾道はあり得ないし、立地的に農道もない。可能性があるのは沼田市道、林道、里道のいずれかである。
現在顧みられていない点を考慮すれば里道が一番可能性が高いのかなとも思ったが、アスファルト舗装や落石覆いなど、ある程度の規模の管理がなされており、一集落の管理だとするとやや規模が大きいような気もする。では沼田市道かと言えば放置されてる現状もあるし・・・。
で、多くの市町村では道路の情報も検索できたりするのだが、沼田市役所のホームページには市道を調べられるページはなかった。うーん、どうしよこれ。
と言うわけでバカの振りして沼田市役所にメールで問い合わせしてみました(振りではなく正真正銘のバカでは?)
そして担当者さんから丁寧なメールの返事が届き、あの道は沼田市道5018号線(十八坂線)であり、帳簿上は現役の市道であることが確定しました。メールでは道の整備目的も「地区の住民が岩本駅へ行くため」と教えてくださっていた。そして現在は車道ではないので利用者皆無となり廃道状態となっていると言うことも教えてくださった。沼田市役所の担当者さん丁寧でホント感謝。
実際この道があるのとないのでは地区の住民が岩本駅まで歩く距離は段違い。道しるべのあたりで道は最終的に3つに分かれたが、それぞれ地区の南部、中部、北部に通じる形であり、地区の住民を徒歩で岩本駅に導くには非常に理にかなった道の作りになっている。今回の探索地点のスタートは尋常小学校の跡だったが、子供達が学校に通うにもこの道は無くてはならないものだったろう。
とは言えこれらはすべて「徒歩なら」の話。例えば子供が学校に通うとしても(地区に子供がいるかどうかはともかくとして)、今は学校の位置が違うからここは通らない。前述のようにモータリゼーション全盛の今では駅に行くにしても自動車なら多少遠回りしても問題はなく無理して短絡する意味がない。更には現在地区にはバス便も存在している。

定期では1日1本7時半のみ(しかも平日のみ)という形ではあるが、基本はデマンドバスなので地域住民は予約さえすればバスの利用は可能である。
以上のような状態では歩いて岩本駅近辺に向かう地域住民はほとんどおらず、地域住民も納得している形の廃道状態というわけである。ぬたりは確かに廃道状態の道を探索気分で歩いたんだが、実は市役所にちゃんと登録されている(しかも通行止めですらない)公道を歩いただけ、という探索になったわけさ。
ちなみに法律に定められた市町村道がそんなでいいのかと言う突っ込みもあろうが、市町村道の世界ではこのあたりの話は珍しくもないことで、ニーズがなくなり廃道化した道なんて珍しい存在ではない。歩行者しか通れない所なんてのも国道では「階段国道」なんつって観光地になったりするけど、市町村道では割と当たり前の話。

ともあれ十八坂七曲の話はこれでおしまい。つくづく思ったのは生まれて50年。あそこの近くは数え切れないほど通ったけど、よもやあんな所に道があるとは、そしてその道がかつて人の往来の主役であったとは、夢にも思わなかったですよ。
ホント案外身近に面白いスポットって隠れてるもんです。
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古道由来の十八坂七曲を歩いてきました もうちょい

2024年12月01日 15時10分01秒 | 旅行&おでかけ
さて、十八坂七曲を登り切ったわけだが、流石に事前に地図で見当をつけており、概ねここに繋がるだろうな、と言う予想は立てていた。そして実際その通りの場所に出たわけだが、実は見当をつけていた場所は2つあった。その一方に出てきたと言うことはもう一方の場所から下りてみるのが常道。

それがここで正面に下る道がある。広さが違うのでそうは見えないけれども道の形的には典型的な追分ですね。

まあこちらも正直荒れており管理はされていない様子。それでも道はコンクリ舗装になっているので最初のうちは歩きやすくすいすい歩いた。最初のうちはな。

すぐにこうなって、

こうなって、

こうなって、

こうである。勘違いしないでほしいが上の写真の場所ですらコンクリ舗装は継続している。

最後にはこうなった。何度も言いますが、この時点でも下はコンクリで舗装されてます。
この藪で「もがー」とかと訳分からんうなり声を上げながら下ったらさっき歩いた道に合流。道しるべを右に折れてすぐの所だった。藪の状態からてっきり道しるべの左の道に出るのかと思っていたのだがそうではなかった。つーかさっき登ってくるときにここに道があること全く気づかなかったけども。
ともあれ、とりあえず見知った道に出た。道しるべの左の道も気になったものの、藪が濃いのと想定していた道は制覇したので今回は自重。地理院地図の表記にもない道で、地図を見るになんとなく行き先が察せられたので。
ともあれ、あとは来た道を帰るだけ。ちなみにこの探索時、手袋を忘れるというミスを犯し、手が傷だらけになりましたがね。5センチ以上のひっかき傷とか久しぶりに負ったわ。

ここからは後日の考察になるが、この回で取り上げた道が「久三木大石」に至る道であると思うし、多分江戸時代までの古道を元にした道だと思う。と言うのもこの十八坂の古道の峠の名前が参考にした文献では「グミ木峠」と書いてあったのでね。「久(グ)三(ミ)木」と言うわけ。
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古道由来の十八坂七曲を歩いてきました そのいち                                                        

2024年11月30日 20時11分55秒 | 旅行&おでかけ
と言うわけで、今回は綾戸渓谷を迂回する十八坂のうち、七曲と言われる部分を歩く。今回はかなり写真多めでお送りします。

今回の探索の始まりはここ。写真では読めないと思いますがこの石柱には「川田尋常高等小学校」と書いてあります。令和の世の中に尋常小学校の門柱が残っているのも珍しいと思うんだけど、あんまり注目されているとは思えないな。別にこれを見に来たわけじゃなくて、単純に付近に車を停めるところがなかっただけ。古い村誌でも「岩本の小学校の裏に下りてくる」と書いてあったのでちょうどよかったし。

岩本地区は今は上越線が走っていて岩本駅すら設置されている。その線路に沿うように道は続いている。ちょうどくまさんが目撃されたのもこのあたりなんですけどね。

おかげでクマ鈴が増えたわ。

で、前回ラストの写真。この正面に道があると知らなきゃ絶対に分かんない。
ともかく藪に突っ込んでみる。背丈ほどの笹藪ではあるがなるほど足下は平ら。かがんでみると踏み跡らしき痕はある。
くまさんじゃねえよな?
そんな藪に埋もれる形で道路の真ん中にはガードレールに使われる支柱も立っていた。車両通行に物理的に規制かけてた模様。

20メートルも歩くと藪を抜ける。おお、これは道だわ。

少し進むと落石覆いがあった。あれ?案外管理されてる?入口のあたりは藪だし、なんなら払われた枝とかが無造作に置かれていて、少なくとも道としては認識されてなさそうだったのに。

しばらく歩くと最初の折り返し。現代車道が道としてはデフォルトの我々からするとこの道は狭すぎるしこのカーブも車両に対応してるとは思えない。けれども歩道と考えると道幅は広い。古道の名残か、それとも整備されたんですかね?

そして2回目の折り返し。古道巡りの気分なのでカーブ内側の石垣とかに「味があるなあ」と言う感想を持ったが、冷静に考えればいつ整備されたかもわからんのよね。ついでに言えば行き先も少々怪しい。

3回目の折り返し。先ほど1回目の折り返しの時にも突き当たりに看板があったのだがここにもあった。内容は下に石を落とすな、というJR設置の看板。JR設置と言うことは昭和62年の分割民営化以降の設置と言うことで、やっぱりこの道は平成初期くらいまでは生きてたのかね? 今は完全廃道ですが。

4回目

5回目の折り返し。七曲と言われているからあと2回ですかね。

廃道とは言いつつも、現状は「管理されてない」と言うだけで、決壊があるわけでもなく気をつけていれば誰でも歩けると思う(流石にスニーカーは必須で汚れてもいい服で)。そんなことを思っていた直後、足下の異変に気がついた。

こんな所にアスファルト舗装だと?
掘り返して確認したが確実にこの道が舗装されている。え? ここ舗装路なの?そうは見えないが。と言うことはここはやっぱり公道なんだろうか? とかとあれこれ考えていたら6回目の折り返しの写真を撮り忘れる。

道全体が埋もれているのではっきりとは分からないものの、その後もアスファルトはちょこちょこ顔を出した。部分部分の舗装なら崩れやすい所とか雨の時道路の土が流されやすいところとかを舗装するだろうが、そんな感じでもない。となるとこの道は大部分がアスファルト舗装されていると言うことになる。となるとこれは一応現代の道だと言うことになる。

ただ、この写真見せてこの道はアスファルト舗装路ですと言って何人が信じてくれるかしらね?

そして7回目の折り返し。その名の通り九十九折の形としてはこのカーブが最後だった。

最後の九十九を過ぎるとにわかに道が険しさを増す。今までは狭いから車で走るのは涙目だったが、このあたりは「高さ」が加わって、もしもここを自動車で走れと言われたらぬたりならおしっこちびる。ただし、歩く分には不安は感じない程度には道幅がある。とは言え下をのぞき込んでみると思いのほか高い場所を道が通っている。落ちたらタダでは済みません。まあ、案外写真では高度は伝わらないんですけどね。

やがて現れるガードレール。車両通行できない道と考えればオーバースペックだと思うけど、やっぱりここ昭和から平成にかけて管理されてる感じですね。

やがて道にはこんなものが。明らかに自動車の通行の規制をかけてる場所ですね。その割に旋回できるスペースがないスパルタぶり。じゃあこの先は車が入ってこれるってことか。

そしてお地蔵様が。古道においてお地蔵様は難所の入口に設置されることが多く、おそらくこれから一気に下ると言うことでここに設置されたんでしょうね。



少し進むと丁字路になりここに道しるべが設置されていた。右が久三木大石、左が大久保へ至るそうである。なるほどなるほど。
えーと、どっちが昔からの十八坂かわかんない。
何しろこの道が往来の主役であったのは江戸時代だから詳細な地図というのは望むべくもない。更には久三木大石だの大久保だのの地名もよく分からない。ただ、進むべき方向は案外早く決まって、左は藪がすごかったし右はコンクリ舗装されていたので素直に右に。
ちなみに道しるべの正面は「前国道ニ至ル」と書いてあった。国道と言うことはこれが建てられたのは明治以降。道しるべというと古いものに感じるけれども古道のものではないですね。

右の道は途中人家もあったりなので一気に飛ばして現在の道に合流。これで探索は一段落ですよ。
・・・でもまだもうちょっとだけ探索は続いたりするんですよ。

ねえ(つづく)
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ルーツを巡る調査旅 本編

2024年11月23日 20時08分05秒 | 旅行&おでかけ
まずやってきたのは富山県立図書館。もちろん調査の本命は島地から一番近い八尾町(※)の図書館なのだが一応こっちも当たっておこうかと思ったのと、群馬からだとまずはこっちに寄ってから八尾町に行った方が都合が良かったので。
実際群馬ではお目にかかれない八尾町誌があったりで、わざわざ来た価値は十分にあったのだが、郷土関係の本棚には、これ、という資料はなかった。もちろん前述の八尾町誌あたりでも島地地区に関する記載はあるのだが、主要産業は農業と林業とか、川が分流して島状になっていた土地だから島地と名付けられたと伝わる、等の記載だけ。それはそれで参考にはなるが、群馬と関係性が出来そうな事柄の記載は無し。珍しいところではたたらによる製鉄技術が行なわれていたという記載もあったが、島地地区の記載ではなかった。
ただし全くの徒手空拳で図書館に来たわけでもない。現在島地には「大長谷地区センター」なる富山市の施設があり、ここに事前にメールで「センターに地区の歴史の参考となる資料がないか」と問い合わせをしていたのだ。センターに図書類はなかったのだが「大長谷郷土史」なる資料が参考になるのではないかと紹介していただいていた。昭和の大合併前まで島地地区が属していた「大長谷村」に関する資料になる。これを期待していたのだが本棚にはなし。まあ八尾町の図書館に行けばいいだろと思いつつ、それでもと蔵書検索のパソコンで検索かけてみた。
なんとまあ蔵書がヒット。禁帯出のため書庫保存ではあったが閲覧可能だった。早速係員に出してもらう。結論から言うとこの本はまさにビンゴの資料だった。
なんと明治初年の島地地区の世帯がおおまかな地図つきで載っていた。世帯全員の記載は無く、世帯主の名前のみ記載であったが、これでも明治当初の島地地区の世帯がほぼすべて分かったことになる。
さて、既に閉じられた戸籍であり、ぬたりの本名バレをしない程度で明かせば、ぬたりの祖父の祖父の名前は「清三郎」。そしてこの清三郎は嶋地村の「好田彦平」の次男。明治5年に群馬の戸籍に入ったとある。そして富山の役場の戸籍には「好田」なる姓がないことは父親が確認済みである。
そしてこの「大長谷郷土史」にある明治初年の島地の世帯にも「好田」の姓は見えなかった。
また「彦平」なる世帯主も見えなかった。これ以上詳細に明治初期の嶋地村の世帯を網羅した資料はちょっと考えられず、この時点でぬたりんちの古い戸籍を元にした調査の糸は再び切れてしまったわけだ。そういう意味では「大長谷郷土史」はぬたりが求めていたそのものズバリの資料であったとも言える。この資料で無理ならもう無理だろ。
結論から先に言ってしまえば、その後訪れた八尾町の図書館には参考となる資料はなかった。八尾町自体が「おわら風の盆」で知られるように中心地は歴史の古い町。そのためどうしても所蔵の資料もそのあたりの資料が多くなって、山間部の資料は少なくなってしまうわけだ。

そして八尾の市街地から島地へ向かう道はすれ違いができないくらいに狭い。そのくせ国道は2つ重複していたりするアンバランスさは、やっぱり道好きとしてはたまりませんな。
そして島地の現地においては、点在する墓所や神社の石碑等もくまなくチェック。それでもやはり好田の姓は一切見られなかった。こんな形で現時点でぬたりのルーツを辿る調査は終了となった。これ以上の調査方法というのもちょっと思い浮かばないしね。
なお、そんな決定的な資料「大長谷郷土史」を紹介してくださった大長谷地区センターの職員の方には実際訪問して丁重にお礼を述べさせていただいた。いやほんと今回の調査でこの資料の果たした役割は大きかったです。


明治初期に嶋地村と言われていた集落は後に近隣集落ともに「大長谷村」となり、昭和30年頃のいわゆる昭和の大合併にて八尾町となっている。そして平成の大合併にて八尾町は富山市と合併し、現在島地は富山市に属している。
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ルーツを巡る調査旅 前段

2024年11月22日 21時16分50秒 | 旅行&おでかけ

突然だが写真は富山県富山市八尾町島地の風景である。
富山県でもかなりの山間部に位置する地区と言ってよく、酷道マニアの方には国道471号線及び472号線で富山県に入ってまもなくの場所、と言えば概ねの場所が分かってもらえるだろう。
まずはぬたりがここに来ることになった長い長い経緯を説明しよう。

そもそもは平成の大合併前のこと。ぬたりの父親が役場に勤める職員と酒を飲んでいた際、「うちの役場は古い戸籍(正確には除籍)も保存期間後も結構保存してあるんだよ」なんて話を聞いたことが発端だった。それを聞いたぬたりの父親が「じゃあ自分の家の一番古い戸籍とか取ってみてもいいかもな」なんて話になり、その役場職員の口利きでぬたりの家の古い戸籍を徹底的に役場で取得する流れになった。
日本の戸籍制度は明治5年が創設。物理的にそれより前を辿るのは不可能。その頃の戸主はぬたりの祖父の祖父。そして入手できた一番古い除籍も祖父の祖父が戸主として記載されていた。
で、ぬたりんちはすぐ近所に本家があり、この祖父の祖父の代に分家した訳なのだが(つまりぬたりは5代目)、この人物が実は入り婿であったというのは本家との近所づきあいから聞いていた。当時のことだから近所かそう遠くないところから婿取りでもしたんだろうと本家とは話していた。
そして戸籍に記載されているぬたりの祖父の祖父の出身地には「越中国婦負郡嶋地村(当時のことなので番地記載は無し)」と記されていた。
はい、ここでようやく島地に話が繋がりましたね。まあ要するに令和を生きるぬたりの200年近く前のルーツがこの富山の一集落である可能性が高い、ということ。
ただまあ戸籍というものが編纂されて間もない頃の話となれば記載に関しては何処まで信用できるかもわからん。記載によると明治5年に嶋地村の戸籍から移っているが、これは上記のように日本の戸籍制度開始と時が同じで、なんなら誤魔化しもきく可能性がある。
で、この除籍発見はずいぶん前の話で、大方の調査は実はぬたりの父親が既に行なっている。現地の役場に行ってあたってもらったようなのだが、記録に残る限り、除籍に記載された祖父の祖父の出身戸籍の名字の戸籍は島地には(どころかたぶん富山県にすら)ない事まで既に突き止めている。これは無理からぬ事で2010年まで閉じられた戸籍の保存期間は80年(今は150年)であったわけで、これだと大正時代までに閉じられた戸籍を調べることは難しい。ぬたりの祖父の祖父が群馬に戸籍を作ったのが明治5年(1872年)なんだから、その父親の戸籍なんて存在したとしても明治の早々に閉じられたはず。また、国の制度として名字が固定されたのが明治8年とも言われるから、当時の識字率考えれば戸籍の表記がどこまで正しいのかもちょっと怪しい。ただでさえ日本は名字の種類が多い上に、同音異字、異音同字が多くてややこしい国なんだから。
ともあれそんな具合に既に公的機関の調査まで済んでおり、当時ぬたりの祖父の祖父が島地のどこに住んでいて血の繋がった人がいたのかの情報を現在得るのはほぼ絶望的。更には現在島地は廃集落目前の状態で、定住人口は数えるほどしかいない。今更行ったって新たな発見があるとも思えない状況な訳だ。
ではなぜ行ったかと言えば単純に趣味のためである。
今回のことでぬたりは富山県富山市八尾町島地に興味を持った。となれば当時の島地の情報が何かしら無いかと気になるわけである。そして地区のことを調べるには、地元の図書館に勝る情報源は無いわけである。図書館にある本では個人の特定はほぼ絶望的だが、当時の地区の産業や生活が分かるかもしれない。「当時の島地は貧しく、遠く関東まで男手は働きに出ていた」なんて記述でもあれば、それがぬたりの祖父の祖父である可能性だって考えられるのだ。そういう側面の調査はぬたりの父親もやっていない。
無論、島地自体が山間の小集落であることは確かで、そこを著述する資料に当たる可能性はそんなに高くない。というかわざわざ行っても徒労に終わる可能性の方が断然高い。でも地区の図書館で自らの好奇心のためにその地区の資料を当たるというのは宝探しみたいでなんともワクワクすんのよね。徒労に終わるとしてもそのために富山に行くのはちっとも惜しくない。
と言うわけで冬も近くなった11月のとある日。ぬたりは富山に向かったわけである。なお、昨今金欠のため、様々な手段を考慮した結果車で向かうことにした。もちろん宿代がもったいないから日帰りである。
なあに、たかだか往復800キロだ。(つづく)
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本当はとても幸せだったとあとで気づいた

2023年10月16日 20時23分25秒 | 旅行&おでかけ
先日新潟に遊びに行ったんですけどね。
で、ぬたり一人で出かけてるならともかく、いまやおかあちゃんも一緒にいるわけで、食事のお店にも気を遣う。んで、スマホを駆使してとあるお店を訪問。褒める気しかないので店の名前も出すが、「FARM FRONT SEKI NOEN」である。米処南魚沼の米生産者が経営する直売所兼レストラン(カフェといった方が良いかも)といった形の施設。
米生産者の食事処な訳だから、食事しようとしたらメニューは実質「塩むすび」しかない。しかも、具なしのおむすび2個、味噌汁、漬物、海苔、のセットが1,480円とお世辞にもリーズナブルとは言いがたい。
しかしこれがまあ、バカうまい。
炊き方等の好みもあろうが、米を分かってる人間がきちんとおいしくなる様におむすびを作っているという感じ。ここはホントに米が食べられる人には全員にお勧め。言って食え。そして米という食材のポテンシャルを再認識すべし。
ぬたりは自他共に認めるおむすび好きであるが、おむすびを食べてそのうまさに思わずうなったのは人生で2度目。一度目は広島の「むさし」の銀むすび。あの時は「世界一うまいおむすびがまさか広島にあるとは」といたく感動したもんだ。今回のおむすびと比べてどうかと言われると「方向性が違う」と言うのがぬたりの回答。むさしのおむすびの肝は「握り具合」と「塩加減」の絶妙さ。握り具合はかなり優しく塩味は結構きつい。この具合が絶妙で正直むさしのおむすび食べるのならおかずなんかいらない。
一方FARM FRONTは良質な米をおいしくなる様に炊き、一番おいしくなる様なおかずを配している、という感じ。おむすびだけでも十分おいしいが、米がシンプルなおかずを引き立て、またおかずも米の存在を引き立てている感じ。これは良い店を見つけた。また行こう、と言いつつむさしのおむすびも久しぶりに食べたいなあ。

さて、今回のネタは、おいしいお店を見つけた、と言うだけでは終わらない。もう一つ、おいしいお店がなくなった、と言う経験も同日にした。店の名前はオレンジハート石打店である。
オレンジハートはマイナーにも程があるコンビニチェーン。正直ネットの情報も頼りなく、青森県内に数店舗まだあるらしく、ここ石打店も看板と店舗スペース自体は現存している。
オレンジハート自体がかなり緩いフランチャイズだったようで、結構各店舗は好きにやってたみたいで、結構どの店も「手作り弁当・おむすび」を売っていたようで、石打店も店内調理の惣菜やおむすびを売っていた。このためコンビニでありながら、地元南魚沼産の米を使ったおいしいおむすびが買え、しかもお値段もそこそこリーズナブル。コンビニおむすびと考えればすこし高いが、前述のように現地でコシヒカリおむすび食べようとすると結構な値段するから相対的に相当リーズナブルだった。なのでぬたりは通るたびに寄って購入していた。
が、結婚してからは新潟方面の外出の機会も減り、なかなか行けない状況。実際オレンジハートはフランチャイズ本部もいつの間にやら実態不明になり、2020年にみなし解散となっている。だから今も残っている店は当時の名残で名乗ってるだけ、という形。
で、今回、久しぶりに石打店を訪れたぬたりは、一応看板は掲げられたままで、店内電気もついていることから入店。しかし店内は一切商品はなく、ただのスペースを見ることに。レジカウンターはあったが、宝くじ売り場、として機能していた。まあ、ストリートビューを見てもまともなコンビニとしては機能できないなってのは分かっていたけどね。看板があるとは言え、これで新潟県からもオレンジハートはなくなったと言うことですね。青森の店舗は複数まだ営業中のようだが、流石に気楽に現地確認は出来んな。ストビューだとやってるっぽいけど。
まあコンビニチェーンの消滅なんて案外珍しいもんではなくて、結構たくさんあった全国的なチェーン店は、セブンイレブン、ローソン、ファミリーマートに集約された。地域展開のコンビニにしても大手に鞍替えは珍しくはなくて、群馬県でも地場コンビニ、セーブオンがローソンにまるまる移行した(移行せずに閉店した店も結構あったけど)。世の中は移り変わっていくんだなあ、としみじみしつつ、知らなきゃ寄れないような地味なコンビニに美味しいおむすびがあることを知ってて、何回も寄って食べられたことの幸せを素直に喜びましょうかね。オレンジハート石打店様、お世話になりました。
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(あえて今だから)群馬県内石田三成を巡る旅 さいご

2023年03月12日 20時23分17秒 | 旅行&おでかけ
さて思いもかけず大舘御前の話が長くなってしまったので、あと2つは駆け足で。まああとは伝承の話ですからね。

やってきたのは伊勢崎市茂呂町にある退魔寺。

なかなかに立派なお寺ですな。
名前からして勇ましいお寺ですが、この名前の由来話に三成公が出てくる。
時は安土桃山時代。この頃この寺は香華院と言う名前だったそうだが、寺のすぐ近くの橋に妖怪が現れ、土地のものは皆困り果てていたという。そんな折、小田原攻めのために当地を通りかかった石田三成公は困った人々を見るに見かねてこの妖怪を退治してしまったという。住人たちは大層喜び、このことにちなみ近くのこの寺を「退魔寺」と改称し、寺の紋も石田三成公の紋をいただき、その恩を末永く後世に伝えたそうな。以上が退魔寺の由来と伝わっている。
まあこの伝承自体はそんなに信憑性もないだろうけれどもね。寺の紋もどうなんでしょう? 香炉には丸に三階松が入ってたけども、石田家の家紋は九曜か下り藤と言われてるよね確か。まあ寺紋が今も当時と同じって訳でもないのかもしれないが。
ちなみにここ、中世の茂呂城の本丸跡にも当たり、趣味の城跡巡りもかねての訪問。まあ、城跡としての遺構はほとんどないんだけども、そうすると寺の位置は当時とは違うと言うことにもなるんだけどな。一応戦国期の城跡になるし、ここ。
ともあれ、小田原攻めをした武将はたくさんいて、勇名を馳せる人物もかなりいる中で、わざわざ石田三成公を選出するあたりなかなかに渋く、微妙な説得力のある伝承ではありますわね。北関東で石田三成公の小田原攻めなんて、それこそ忍城落とせなかったことくらいしか話題はないのにな。

そして次のスポットは県北沼田市宇楚井町。ここに白栄寺というお寺がある。

ここには石田三成のものと伝わるお墓とお位牌があります。ゆかりとするとズバリですね。
で、ぬたりはアポもなく興味本位で訪れてますから、当然お位牌なんか見られるはずもなく(まあ、見学する気もなかったが)、一応お墓と伝わる石塔を見学させていたのみ。
こちらも一応石塔の写真は遠慮するが、複数並ぶ歴代住職のお墓で、これが光成公のものである、という案内はなかったものの、確かに石塔の一つに「石田」とは刻まれていた。ググってみると、本堂に安置してあるお位牌には裏に「石田治部少輔公」とはっきりと刻まれている。
まあ、これも伝承の域を出ませんけどね。位牌の文字も石塔に刻まれた「石田」の文字も、正直あとから掘られたもの感がどうしても拭えないし。特に石塔は、そこに文字を刻むか? って場所に彫ってある。なのでこれ自体はそんなに信憑性も求められない。
とは言えここは沼田の地。かつて治めていたのは真田家であり、三成公と比較的関係性は良好だったと伝わっている。なのでこちらの伝承も微妙な説得力を持っていたりもするんですけどね。実際真田家との関係性も浅からぬお寺のようで、真田幸隆公のお位牌もあったりするらしい。
そうは言っても三成公の生存伝説を頭から信じることはできないわけで、地元の興味としても、「どうしてそんな話になったか」「そういう話になる経緯はどんな感じか」、という感じに向いてることは否めない。勿論ぬたりとしても、経緯はともかく、興味本位ながらも縁あって墓参をさせていただきました、と言う気持ちで、小高い山腹にある墓所で手を合わせてもらいました。その後、ふと振り返ったときに見えたその風景に、なんとなくこんなことを思いましたね。


波乱の人生を送った三成公が、こんなのどかな風景で眠ることができているなら、それは素晴らしいことだろうなあ。(おわり)
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(あえて今だから)群馬県内石田三成を巡る旅 そのいち

2023年03月10日 21時31分36秒 | 旅行&おでかけ
今年の大河ドラマの主人公は徳川家康ですね。
徳川家康公は歴史の教科書でも扱われる方で、特に関ヶ原の戦いと江戸開府については必ず扱われる出来事。それぞれの1600年、1603年なんてのも暗記させられましたね。
そのうち関ヶ原の戦いの相手役と言えば石田三成。従前の三成と言えば「融通が利かず仲の悪い諸侯は数知れず」と言ったイメージで語られていたけども、昨今はイメージ回復も図られて、滋賀県がイカしたCM作ったりツイッターで大活躍をしておられたり、今では「不器用にもひたすら秀吉に忠義を尽くした人物」という感じで語られることも多いかな。かつてはひたすら文官扱いされてもいたけども、なんなら戦での活躍も再評価が進んでいる。
三成は出身も知行地も近江(今の滋賀県)で、ぬたりの住む関東地方との縁はあんまりない。実際歴史に残るのは小田原攻めくらいなもんだろうが、ぬたりの住む群馬県においてなぜかゆかりの地が存在する。しかも知る限り3カ所。勿論すべてが確実に縁があるというわけではなく2カ所は伝承の域を出ず、雲の上の三成公が聞いたら苦笑されるかもわからんのだが、ともあれ知ってしまったので石田三成公ゆかりの地巡りをしてきました。なお、1日で一気に巡ったけど、バックボーンの解説とかやたら長くなるから何回かに分けるよ。
ともあれ、群馬に残る石田三成公ゆかりの地巡り、スタートです。

ここは太田市世良田町にある世良田東照宮。「東照」の名前があるとおり主祭神は徳川家康公(東照大権現)。徳川氏はその出自を新田源氏に求めており、ここは元々は新田氏の一族の世良田氏の館があった場所。新田氏の一人、新田義季が「得川」を名乗ったとの伝承から、これにあやかり家康は松平から最終的に「徳川」に改姓。そしてその得川義季の本拠地がここ世良田氏(義季かその息子が世良田と称し始めたらしい)の館だったというわけで、江戸時代にここに東照宮が建てられた。
勿論この出自が怪しいにも程があるのは歴史の常識。というかまあ、多分家康は新田氏の血なんか引いちゃいない。それでも新田氏の一族を参考にして「徳川」を名乗ったのであれば、このあたりが徳川という「名乗り」の発祥の地と言ってしまっても間違いではない訳ですわ。

と言うわけで、現在太田市は「徳川発祥の地」としてピーアールを図っている。この近くにはまんま「太田市徳川町」という地名すらある。徳川町には満徳寺という縁切寺として有名な場所があり、ここの初代住職は前述の新田義季の娘、と言うことで、東照宮共々「徳川ゆかりの寺社」として幕府の手厚い庇護があったそうです。

・・・ってなんで石田三成ゆかりの地に行くのに長々と怨敵とも言える家康のゆかりの地の説明してんのだと、雲の上の三成公が発狂しそうなんでこの辺にしておきますが。
長々と東照宮の説明したのは、この東照宮のホントに目と鼻の先に三成公ゆかりの地があるから。しかもここに限っては伝承ではなく、確実にゆかりがある地だったりするのよ。だから東照宮から車でどのくらいで着けるのか、実際に計ってみたかったのよね。それに大河やってるとこで、ゆかりの地としては若干渋めのここにどのくらい人がいるのか気にもなったので。平日に行ったんだが、人はポツポツいたよ。 確実に大河効果はありますね。

そして東照宮から車を走らせること、6分04秒(実測値)。最初の目的地に到着いたしました(長くなったので続く)。
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渋川市道3号線の逆襲 一考察編

2022年11月04日 09時21分48秒 | 旅行&おでかけ
ぬたりが今回こだわった渋川市道3号線は、路線指定自体は国道353号線の小野子地区から県道35号線の祖母島地区に至る道になる。歩道になったり繋がっていなかったりで変則的な印象ではあるけど、経路的には実は始点から終点までを比較的に素直に結んでいる。
で、この道が昔「小野上村道3号線」だったことは間違いない。では現在の渋川市道3号線がすべてが小野上村道3号線だったかと言われれば、この可能性は低いんじゃないかと思う。小野上村道3号線の路線指定の目的が祖母島駅へ向かうための指定であるのはほぼ間違いないと思う。県道35号に至るための道として指定するなら県道35号線にそれなりの目的地がないと小野上村は渋川市内に村道を指定できないが、特にその必要性を感じられるものはない。終点のあたりにあったものはせいぜいバス停くらいなもんだが、市道3号線の始点は国道353号線であり、昔からバス路線も設置されているから吾妻川対岸に行く必要はない。しかも橋を渡ってたどり着いたバス停はこの体たらく。


一方小野子集落内でバスに乗るならこんな感じ。


で、段丘を上る部分の車が入れない部分の道の正体は、明らかに昔の集落道が今に残っているもの。祖母島集落の中心地は段丘上の平地にあり、ここは明治期に灌漑用水が引かれるまでは水利的には貧弱な土地。一方段丘下は吾妻川の川のレベルとなり、比較的平地で水利もよい。耕作には適しているが、大雨になると洪水のリスクも抱え込む。だから住居を段丘上において、田畑は段丘下に、という形式は理にかなっている。その行き来のために古くから使われていたのがあの歩道部分だったんだと思う。前回に「古道みたい」という言葉を何回か使ったが、掘り込まれ方とか見ても、一朝一日に作られる雰囲気じゃない。
そういう歴史のある道であっても、自動車全盛の時代になってしまえば、多少遠回りであっても自動車であれば変わらないし、地区の交通整備の中心となる祖母島駅ができてしまえば、そちらを中心に車道は整備されて、この道は使われなくなっちゃったんだろう。
ただ、モータリゼーションなんて所詮戦後しばらく経っての話。それ以前から道路行政は機能していたわけで、その頃は歩道の市道指定なんて珍しくもない。その頃の指定のままずっと公図上残り続けていた部分が、ほかに接続できる道と同一化されて今の小野子地区から祖母島地区をつなぐ渋川市道3号線としてつなげて指定された、という感じなんだと思う。道路としても、国道から県道を結ぶ、と一応形になるしな。それにしても何となくで訪れた道がこんな珍しい側面を持っていたとはねえ。だから道好きはやめられないんですわなあ。
・・・とまあ、語ってはみたものの、路線指定は所詮お役所の書類上の話。実際の道の姿は、
小野子地区から橋を渡って祖母島駅に向かう道
段丘の崖を登る、今はもうほとんど使う人のいなくなった道
祖母島地区を横断して県道にぶつかる道
の3つがあるに過ぎないんだけどね。現地にそれと分かる目印もない。歩道部分に市の管理の痕跡があれば面白いと思って探してみたんだけど、残念ながら何も見つからなかったな。だから詳しくない人に話しても何が面白いのかさっぱり分かんないんだろうけどね。

実際うちのおかあちゃんに話したら「だからそれが何?」とにべもなかったわ。
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渋川市道3号線の逆襲 現地編

2022年11月03日 10時25分43秒 | 旅行&おでかけ

というわけで再びやってきた道の駅おのこ。
今回はあくまでも渋川市道3号線を辿ることが主役。前回辿れなかった部分だけ辿るなら祖母島駅あたりに車止めて歩く方が効率は良さそうだったんだが、全線踏破にこだわって今回もここに車止めて歩く。

で、やってきた市道起点。ここを上れば前回恐怖の体験をした第一吾妻川橋梁なんだが、今回は道をたどるのがメインだから橋は二の次ということで。

でも数分で電車が来ちゃったもんだから、今回は歩道と電車の距離感に注目してパチリ。こうして撮るとより近さをお分かりいただけるんじゃないかと。ぬたりは前回、この歩道に立ってたんですぜ。これは近いわ。

んで、ちょっと歩くとT字路に。前回は迷いもなく直進したが、渋川市道3号線はここを右折する。まあ、直進も渋川市道のようなんですが。番号は7510号線。このT字路から祖母島駅までが路線。つまりこの写真に渋川市道7510号線がすべて写っているということなんですが(奥の左カーブまで)

曲がった先の3号線。見た目はほぼ奥の家に入る私道ですけどもれっきとした公道。そして写真の一番奥で突き当たる。

変則的な十字路になっていますが、右左折と直進、いずれも市道3号線ではなく違う番号の市道(直進路も私道ではなく坂上がるまではれっきとした市道)。公図上、市道3号線は正面の藪に突っ込むことになっている。

もちろん道はない。実は市町村道の世界では、こうして公図上は道があるのに実際には道がないってのはたまにあること。元は道があったのかそれとももともと道はなかったのか、ちょっと判断が付きませんが。
ともあれここは入っていけないので迂回。

段の上は田んぼになっていて、写真は振り返って撮影。公図上はこの田んぼを突っ切ってくることになる。実際現地で見てみてもこの田んぼの中に道がある(あった)様子はない。んで、上がってきた道だがここで道は復活する。写真左側からこちらに伸びている道が市道3号線である。

進行方向を見る。これが間違いなく渋川市道3号線である。決して畑のあぜ道ではないのです。天下の公道です。

少し進むと上り坂に。繰り返しますがここは間違いなく渋川市道3号線です。道は吾妻川の河岸段丘を上る経路を取る。

道は九十九折で段丘を上る。これが1回目の折り返し。少し道っぽくはなりましたな。よくなったと言っても車が通れる道では断じてない。狭いし急すぎる。

2回目の折り返し。坂の急さが分かるような写真が取れた。

3回目の折り返し。この辺りからかなり掘り込まれた古道のような雰囲気を見せてきた。いや、古道辿りに来たんじゃなくて、現役の市道を歩きに来たんだが。

そして4回目、最後の折り返し。ホントもう古道の雰囲気。あえてもう一回言います。この道は現役の渋川市道3号線です。

そして登りきる。この写真だけなら江戸時代の街道の峠と言っても通用しそうな感じではあるな。

で、上りきるとこんな感じ。えっとね、

だからここは天下の公道なんだってば。畑のあぜ道じゃないんだってば。ただ、写真の奥に映ってるカーブミラーのところで未舗装は終わる。

道は十字路になっていて、市道3号線は左から来て右に抜ける。

その先すぐにY字路になってるのでここは狭い方の右。

いやあ、祖母島って散歩するにはいい場所だなあ。雰囲気がすごくいい。写真見てもわかるとおり当日は雲一つない晴天。歩いてて気持ちいいわ。

そして市道3号線は県道に突き当たって終わり。これで今回の散歩の最大の目的を達成することができたわ。

終点を振り返る。残念ながらというか当然ながらというか、特に市道であることを示すものはなかった。

というわけで渋川市道3号線は辿れる部分は完全踏破できました。で、辿りながらいろいろ考えることがあったので、次回はちょっと好き勝手にこの道の事を語ってみたい。
ええまあ誰もそんなこと興味ないだろうけども。
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