フィヨルドの変人 ~Odd person in fjord~

ぇいらっしゃ~い!!!

愚痴ちっくやめて本日のぬこ様画像

2023年03月28日 20時55分27秒 | ぬこ様
更新した直後から考えていたんだが、愚痴は吐き出すことが大事で保存するものでもないので、バサッと内容を変えてぬこ様画像にチェンジだ。


うちの猫は世界一かわいい。
異論は認めん。
人よ、ネコと和解せよ。
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(あえて今だから)群馬県内石田三成を巡る旅 さいご

2023年03月12日 20時23分17秒 | 旅行&おでかけ
さて思いもかけず大舘御前の話が長くなってしまったので、あと2つは駆け足で。まああとは伝承の話ですからね。

やってきたのは伊勢崎市茂呂町にある退魔寺。

なかなかに立派なお寺ですな。
名前からして勇ましいお寺ですが、この名前の由来話に三成公が出てくる。
時は安土桃山時代。この頃この寺は香華院と言う名前だったそうだが、寺のすぐ近くの橋に妖怪が現れ、土地のものは皆困り果てていたという。そんな折、小田原攻めのために当地を通りかかった石田三成公は困った人々を見るに見かねてこの妖怪を退治してしまったという。住人たちは大層喜び、このことにちなみ近くのこの寺を「退魔寺」と改称し、寺の紋も石田三成公の紋をいただき、その恩を末永く後世に伝えたそうな。以上が退魔寺の由来と伝わっている。
まあこの伝承自体はそんなに信憑性もないだろうけれどもね。寺の紋もどうなんでしょう? 香炉には丸に三階松が入ってたけども、石田家の家紋は九曜か下り藤と言われてるよね確か。まあ寺紋が今も当時と同じって訳でもないのかもしれないが。
ちなみにここ、中世の茂呂城の本丸跡にも当たり、趣味の城跡巡りもかねての訪問。まあ、城跡としての遺構はほとんどないんだけども、そうすると寺の位置は当時とは違うと言うことにもなるんだけどな。一応戦国期の城跡になるし、ここ。
ともあれ、小田原攻めをした武将はたくさんいて、勇名を馳せる人物もかなりいる中で、わざわざ石田三成公を選出するあたりなかなかに渋く、微妙な説得力のある伝承ではありますわね。北関東で石田三成公の小田原攻めなんて、それこそ忍城落とせなかったことくらいしか話題はないのにな。

そして次のスポットは県北沼田市宇楚井町。ここに白栄寺というお寺がある。

ここには石田三成のものと伝わるお墓とお位牌があります。ゆかりとするとズバリですね。
で、ぬたりはアポもなく興味本位で訪れてますから、当然お位牌なんか見られるはずもなく(まあ、見学する気もなかったが)、一応お墓と伝わる石塔を見学させていたのみ。
こちらも一応石塔の写真は遠慮するが、複数並ぶ歴代住職のお墓で、これが光成公のものである、という案内はなかったものの、確かに石塔の一つに「石田」とは刻まれていた。ググってみると、本堂に安置してあるお位牌には裏に「石田治部少輔公」とはっきりと刻まれている。
まあ、これも伝承の域を出ませんけどね。位牌の文字も石塔に刻まれた「石田」の文字も、正直あとから掘られたもの感がどうしても拭えないし。特に石塔は、そこに文字を刻むか? って場所に彫ってある。なのでこれ自体はそんなに信憑性も求められない。
とは言えここは沼田の地。かつて治めていたのは真田家であり、三成公と比較的関係性は良好だったと伝わっている。なのでこちらの伝承も微妙な説得力を持っていたりもするんですけどね。実際真田家との関係性も浅からぬお寺のようで、真田幸隆公のお位牌もあったりするらしい。
そうは言っても三成公の生存伝説を頭から信じることはできないわけで、地元の興味としても、「どうしてそんな話になったか」「そういう話になる経緯はどんな感じか」、という感じに向いてることは否めない。勿論ぬたりとしても、経緯はともかく、興味本位ながらも縁あって墓参をさせていただきました、と言う気持ちで、小高い山腹にある墓所で手を合わせてもらいました。その後、ふと振り返ったときに見えたその風景に、なんとなくこんなことを思いましたね。


波乱の人生を送った三成公が、こんなのどかな風景で眠ることができているなら、それは素晴らしいことだろうなあ。(おわり)
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(あえて今だから)群馬県内石田三成を巡る旅 そのに

2023年03月11日 21時34分40秒 | 日記
やってきたのは太田市大舘町にある天台宗の寺院、東楊寺。

ここに一人の人物のお墓がある。通称大舘御前と言われる、津軽藩2代藩主津軽信牧の奥方。他ならぬ石田三成公の三女である。

彼女もまた波乱の人生を送っている。関ヶ原の戦いで父が破れて敗軍の将として首を切られたのが8歳の時。この時には秀吉の正室、北政所の養女となっていたために難を逃れ、18際頃に津軽信牧に嫁ぐ。二人の仲はとても睦まじかったと伝えられるが、幕府としても藩としても石田三成の娘が譜代大名の正室でいるのは少々具合が悪い。そこで藩からの希望なのか幕府からの圧力なのかは不明ながらも家康の養女(種違いの甥の子)を娶ることになり、この際に正室から側室に降格。居住も津軽ではなく、分領であった上野国大舘に移り住む形になった。そしてこの大舘の地が、徳川発祥の地である世良田のほんの隣という歴史の皮肉が起きた。
歴史の流れはまだまだ続き、側室に降格されても信牧と大舘御前の仲睦まじさは変わらず、信牧は参勤交代の際には必ず大舘に立ち寄り、大舘御前とともに過ごしていたと言われ、変わらぬ寵愛を受けた。大館御前は若くして亡くなってしまったのだが、信牧には大舘御前と正室の満天姫どちらにも男児が生まれる。正室は満点姫であるのだが、信牧は大舘御前の産んだ子供が後継であるとして頑として譲らず、この子供は長じて津軽藩3代藩主信義となった。もうこのあたりの話は雲の上の三成公が聞いたら嬉し涙で前が見えなくなるだろう、そんな歴史の一幕が、ここ現在の群馬県太田市の片隅で、400年ほど前に実際にあったわけである。
・・・とまあ、話がこれで終われば綺麗なんだけども、歴史は時に残酷。紆余曲折を経て藩主になった三成公の孫にあたる信義だが、その家督相続自体しこりを残すものであったことは事実。また、家康公の幼女の子供、ということで目をかけられた満天姫の子、津軽信英は幼少から英才教育を施されかなり聡明な人物に育った。何かと比べられることから信義のプレッシャーも相当なものがあったらしく、その治世はよく言えば賛否両論。酒色に耽っていたとも言われるので、評判は正直良くない。大きな処分こそなかったものの、藩主を信英にしよう、という動きが露呈するお家騒動も起こしている。
歴史の話はこの辺にして、ここは「津軽藩代官足立氏の墓所」と太田市に史跡認定されており、大舘御前の石塔はそこに隣接していて特に説明はない。一応足立氏の石塔のすぐ隣の石塔がそれなんだが、戒名(貞松院殿深誉教説大姉)を知っていないと見過ごすかも。なお、石塔の撮影自体はしたのだがなんとなくここに載せる気になれなかったので、写真はカットな。まあ、歴史を重ねているとはいえお墓なわけだし。

お寺は現在補修作業中で、運がいいことに作業の様子を見に来た住職にお話を伺うことができた。住職自体はあまり歴史に詳しくないそうだが、最近大舘御前のお墓参りに来る人もポツポツおられるそう。また、詳しい人がパンフレットを作ってくれた、と言うことで一部いただくことができた。

かつての所領、と言う縁から津軽藩の本拠だった弘前市と太田市(正確には平成の合併前の尾島町)は交流が生まれ、昭和61年から尾島ねぷた祭りも行われている。交流自体は所領があったことではあるが、その関係性の中に石田三成公のご息女の名前もあるということで、今なお、その生きた証が語り継がれていると言うことですよ。


ちなみに、(多分)大舘御前が住まわれていたであろう居館の跡にも足を運んでみた。多分というのはこの場所は津軽氏の所領となる遙か前の「大舘氏館跡」と語られるために、江戸時代の代官屋敷とか陣屋と言った形で語られることがなく、現時点で「ここに大舘御前が住んでいた」と断定できる情報がなかったのよね。まあ、他にそれっぽい場所はないのでほぼ間違いないと思うけど。ちなみに痕跡は何もなく今は一面の畑。写真は跡地の中心あたりにある諏訪神社なんだけど、これ自体は痕跡とは呼べませんわね。(つづく)
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(あえて今だから)群馬県内石田三成を巡る旅 そのいち

2023年03月10日 21時31分36秒 | 旅行&おでかけ
今年の大河ドラマの主人公は徳川家康ですね。
徳川家康公は歴史の教科書でも扱われる方で、特に関ヶ原の戦いと江戸開府については必ず扱われる出来事。それぞれの1600年、1603年なんてのも暗記させられましたね。
そのうち関ヶ原の戦いの相手役と言えば石田三成。従前の三成と言えば「融通が利かず仲の悪い諸侯は数知れず」と言ったイメージで語られていたけども、昨今はイメージ回復も図られて、滋賀県がイカしたCM作ったりツイッターで大活躍をしておられたり、今では「不器用にもひたすら秀吉に忠義を尽くした人物」という感じで語られることも多いかな。かつてはひたすら文官扱いされてもいたけども、なんなら戦での活躍も再評価が進んでいる。
三成は出身も知行地も近江(今の滋賀県)で、ぬたりの住む関東地方との縁はあんまりない。実際歴史に残るのは小田原攻めくらいなもんだろうが、ぬたりの住む群馬県においてなぜかゆかりの地が存在する。しかも知る限り3カ所。勿論すべてが確実に縁があるというわけではなく2カ所は伝承の域を出ず、雲の上の三成公が聞いたら苦笑されるかもわからんのだが、ともあれ知ってしまったので石田三成公ゆかりの地巡りをしてきました。なお、1日で一気に巡ったけど、バックボーンの解説とかやたら長くなるから何回かに分けるよ。
ともあれ、群馬に残る石田三成公ゆかりの地巡り、スタートです。

ここは太田市世良田町にある世良田東照宮。「東照」の名前があるとおり主祭神は徳川家康公(東照大権現)。徳川氏はその出自を新田源氏に求めており、ここは元々は新田氏の一族の世良田氏の館があった場所。新田氏の一人、新田義季が「得川」を名乗ったとの伝承から、これにあやかり家康は松平から最終的に「徳川」に改姓。そしてその得川義季の本拠地がここ世良田氏(義季かその息子が世良田と称し始めたらしい)の館だったというわけで、江戸時代にここに東照宮が建てられた。
勿論この出自が怪しいにも程があるのは歴史の常識。というかまあ、多分家康は新田氏の血なんか引いちゃいない。それでも新田氏の一族を参考にして「徳川」を名乗ったのであれば、このあたりが徳川という「名乗り」の発祥の地と言ってしまっても間違いではない訳ですわ。

と言うわけで、現在太田市は「徳川発祥の地」としてピーアールを図っている。この近くにはまんま「太田市徳川町」という地名すらある。徳川町には満徳寺という縁切寺として有名な場所があり、ここの初代住職は前述の新田義季の娘、と言うことで、東照宮共々「徳川ゆかりの寺社」として幕府の手厚い庇護があったそうです。

・・・ってなんで石田三成ゆかりの地に行くのに長々と怨敵とも言える家康のゆかりの地の説明してんのだと、雲の上の三成公が発狂しそうなんでこの辺にしておきますが。
長々と東照宮の説明したのは、この東照宮のホントに目と鼻の先に三成公ゆかりの地があるから。しかもここに限っては伝承ではなく、確実にゆかりがある地だったりするのよ。だから東照宮から車でどのくらいで着けるのか、実際に計ってみたかったのよね。それに大河やってるとこで、ゆかりの地としては若干渋めのここにどのくらい人がいるのか気にもなったので。平日に行ったんだが、人はポツポツいたよ。 確実に大河効果はありますね。

そして東照宮から車を走らせること、6分04秒(実測値)。最初の目的地に到着いたしました(長くなったので続く)。
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色々と楽にはいかない世の中ですよ

2023年03月07日 19時50分10秒 | 日記
おかあちゃんに車のセールスが来る。
いや、付き合いのあるディーラーから諸々含めて営業がかかったって形なので単純にセールスというわけではなく、今後の車の方向性含めて「提案」と言った方が近いかもしれないけどね。
にしてもまあ、新型コロナとか戦争とかの影響で、今まであまり見えていなかった問題が目に見える形で顕在化してきていて、自動車に関してはほんとに以前の感覚のままでいると、購入時に超えなきゃいけないハードルが増えている。
実際、セールスをわざわざかけられている(ディーラーの最善は車買ってくれることだろうし)のに、納期に関しては全くの不透明で最低半年とかそんなレベル。一応それに付帯してサービスは色々してはくれるんだけれども、車の買い換えに関してはかなり前(車検時乗り換えなら車検の半年前くらいには話し始めないと)から計画的にディーラーと詰めていかないといけないって感じなのね。
また、車の価格も大きく上昇している。おかあちゃんが乗っているのはゴルフ。そして購入候補として見積もり取ったのはクラスが下のポロだが、新車価格で今乗ってるゴルフのプラス100万円ってのは、内容(装備品が違うのでそもそも一列に並べて比べられない。うちのゴルフの装備は比較的シンプル。ポロは装備結構モリモリのグレード)考えても素直に首肯はできないよね。これゴルフで見積もり取ったらいくらになるんだ?
勘違いのないように言っておくが、車の値上がりは別にここ10年に限った話ではなく、自動車が一般に普及して以降、ずっと続いている話。最初は車に乗るのは特別なことだったが、各種の技術革新で運転は楽になったし乗り心地もよくなった。そしたら今度はぶつかっても人を守れと言われ、今や条件によっては時速40キロくらいでぶつかっても無傷で済む位に安全性も向上した。そしたら今度は環境負荷がとかと言われ、燃費向上や部品のリサイクル性能なども高めなきゃいけなくなってる。こんなことしてれば車の値段なんか上がって当たり前。ただ、メーカーもディーラーも余裕がないからそれを企業努力で補うにも限界があるんでしょうな。
で、ぬたりんちは今回は車の買い換えは無しで「来たるべき車検はよろしくね(つーか点検パック入ってるから他のとこに行きようがない)」という感じなんだが、ディーラーとしても、苦しい中色々工夫してんだなあ、というのは肌で感じましたね。
車を買おうにもそもそも待たなきゃいけない、即納できる中古車は高い、という、車買うにはあんまりいい状況じゃないのは実際なので買う気がないなら今の車そのまま乗っているのが一番ベターな選択肢だと思うけれども、買う気があるならチャンスはあるのかもなあ、という感じ。
実際軽く話しただけでもいくつかサービスの話は出たから、目に見える金額だけではなくて、交渉していけばあれこれとサービスしてもらえる可能性はあると感じたな。勿論そのためには慎重かつ大胆にディーラーと話をしていく話術と気力と計画性が必要になるけども。

そういうことで「新しく車を買いました」というネタにはならなかったけど、一応購入に向けた話をしたよ、って話でしたとさ。皆さんも車買い換えたいなら早めにディーラーに相談した方が良さそうよ。
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