さて思いもかけず大舘御前の話が長くなってしまったので、あと2つは駆け足で。まああとは伝承の話ですからね。
やってきたのは伊勢崎市茂呂町にある退魔寺。
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なかなかに立派なお寺ですな。
名前からして勇ましいお寺ですが、この名前の由来話に三成公が出てくる。
時は安土桃山時代。この頃この寺は香華院と言う名前だったそうだが、寺のすぐ近くの橋に妖怪が現れ、土地のものは皆困り果てていたという。そんな折、小田原攻めのために当地を通りかかった石田三成公は困った人々を見るに見かねてこの妖怪を退治してしまったという。住人たちは大層喜び、このことにちなみ近くのこの寺を「退魔寺」と改称し、寺の紋も石田三成公の紋をいただき、その恩を末永く後世に伝えたそうな。以上が退魔寺の由来と伝わっている。
まあこの伝承自体はそんなに信憑性もないだろうけれどもね。寺の紋もどうなんでしょう? 香炉には丸に三階松が入ってたけども、石田家の家紋は九曜か下り藤と言われてるよね確か。まあ寺紋が今も当時と同じって訳でもないのかもしれないが。
ちなみにここ、中世の茂呂城の本丸跡にも当たり、趣味の城跡巡りもかねての訪問。まあ、城跡としての遺構はほとんどないんだけども、そうすると寺の位置は当時とは違うと言うことにもなるんだけどな。一応戦国期の城跡になるし、ここ。
ともあれ、小田原攻めをした武将はたくさんいて、勇名を馳せる人物もかなりいる中で、わざわざ石田三成公を選出するあたりなかなかに渋く、微妙な説得力のある伝承ではありますわね。北関東で石田三成公の小田原攻めなんて、それこそ
忍城落とせなかったことくらいしか話題はないのにな。
そして次のスポットは県北沼田市宇楚井町。ここに白栄寺というお寺がある。
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ここには石田三成のものと伝わるお墓とお位牌があります。ゆかりとするとズバリですね。
で、ぬたりはアポもなく興味本位で訪れてますから、当然お位牌なんか見られるはずもなく(まあ、見学する気もなかったが)、一応お墓と伝わる石塔を見学させていたのみ。
こちらも一応石塔の写真は遠慮するが、複数並ぶ歴代住職のお墓で、これが光成公のものである、という案内はなかったものの、確かに石塔の一つに「石田」とは刻まれていた。ググってみると、本堂に安置してあるお位牌には裏に「石田治部少輔公」とはっきりと刻まれている。
まあ、これも伝承の域を出ませんけどね。位牌の文字も石塔に刻まれた「石田」の文字も、正直あとから掘られたもの感がどうしても拭えないし。特に石塔は、そこに文字を刻むか? って場所に彫ってある。なのでこれ自体はそんなに信憑性も求められない。
とは言えここは沼田の地。かつて治めていたのは真田家であり、三成公と比較的関係性は良好だったと伝わっている。なのでこちらの伝承も微妙な説得力を持っていたりもするんですけどね。実際真田家との関係性も浅からぬお寺のようで、真田幸隆公のお位牌もあったりするらしい。
そうは言っても三成公の生存伝説を頭から信じることはできないわけで、地元の興味としても、「どうしてそんな話になったか」「そういう話になる経緯はどんな感じか」、という感じに向いてることは否めない。勿論ぬたりとしても、経緯はともかく、興味本位ながらも縁あって墓参をさせていただきました、と言う気持ちで、小高い山腹にある墓所で手を合わせてもらいました。その後、ふと振り返ったときに見えたその風景に、なんとなくこんなことを思いましたね。
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波乱の人生を送った三成公が、こんなのどかな風景で眠ることができているなら、それは素晴らしいことだろうなあ。(おわり)