とあるゲームの一場面に、ハッとさせられる経験をした。
シーンはバーでの主人公とマスターの会話。以下がその内容。
「たとえば日記を公開したりするでしょう? ネットで」
「日記ね あるね」
「私、よく読むんですがね。若い世代のあの手の日記は非常に不可解ですよ」
「どんなとこが?」
「あれは読み手を意識した日記でしょう? それも大抵は理想の読み手を想定してるんです。自分自身と自分の周囲の世界だけを表す言葉を散りばめて・・・。本来、そんなものを読んで正しく理解できる不特定多数の読者など存在しない。けれど、そんな自分だけの言葉を理解して共感してくれる読者を想定して書かれている」
「それで?」
「それって恐ろしく孤独な作業ですよね。そう思いませんか? 世界中の誰もが見られるネットに、本当は誰にも理解できないことを書き記して公開してるんです。それはメッセージですらなくて、主張でも自己顕示欲でもなく、ただのつぶやきです。でもそれが必要なんでしょうね。若い人達にはね」
「つぶやくことが?」
「つぶやくことが・・・ それをひっそり晒すこともね」
「それをよく読んでるあんたも・・・」
「ええ、病気ですな」
あらかじめ言っておく。このゲームの発売は1999年。「つぶやき」といえばおなじみTwitterだが、サービス開始は2006年。まだ影も形もない。ブログですら出始めの頃だったと思う。当時こういう意見が一部にあった以上、つぶやきを前面に出したTwitterが登場するのは必然だったのかもしれないね。
さて、私のブログに関して言えば、この「孤独な作業」にまさに当たると言える。自分とすると「歪んだ自己顕示欲」という感覚でブログをやっていた訳だが、言われて読み返してみれば、ここにある文章に自己顕示もクソもない。30過ぎの独身男の日常やら趣味やらを開陳しても、全てを喜んで受ける読み手はいない。こちらが発信しても実際に受け手がいない状況では「自己顕示」など出来ていようはずもない。
誰かに向かって話しているが誰も聞いていない。世間ではこれを「つぶやき」若しくは「独り言」と呼ぶ。
実際、結構趣味の合う人間はいるし、そう言った方々にブログを見ていただいているわけだ。しかし、全く趣味が同じの人間は存在しない。「さだまさし」「奥華子」「ハルヒ」と興味の方向についてはある程度括れても、ではそれぞれのツボまで同じかというと全くそんなことはない。どんなところが、どの曲が、どのキャラが、どのシーンが好きか、実際は人によってまちまちである。しかしながらブログの内容に関して言えば、自分のツボを指向して書かれた文章しかない。自覚のあることとして言っておけば「今回は自分以外は読んでもなんの反応も出来なければ、『つまらない』以外の反応は持ちようがない」というネタとて過去に(mixi日記時代含む)複数存在する。無論今回も。
とは言え、ブログというのは一定線さえ守れば、基本的には何を書いても良いとは思っている。例えば人を傷つけない、例えば人を必要以上に煽らない、例えば人に必要以上の不快感を与えない、例えば人のプライバシーを曝かない。「一定線」と一口に言っても括りは多いが、逆にそれさえ守ればあとはつぶやきだろうが独り言だろうが戯れ言だろうが構わないと思う。
読む側が取捨選択してくれればいいと思う。
引用文中のマスターのこの言葉が、こんなくだらないつぶやきを晒している私を端的に表している。
「ええ、病気ですな」
シーンはバーでの主人公とマスターの会話。以下がその内容。
「たとえば日記を公開したりするでしょう? ネットで」
「日記ね あるね」
「私、よく読むんですがね。若い世代のあの手の日記は非常に不可解ですよ」
「どんなとこが?」
「あれは読み手を意識した日記でしょう? それも大抵は理想の読み手を想定してるんです。自分自身と自分の周囲の世界だけを表す言葉を散りばめて・・・。本来、そんなものを読んで正しく理解できる不特定多数の読者など存在しない。けれど、そんな自分だけの言葉を理解して共感してくれる読者を想定して書かれている」
「それで?」
「それって恐ろしく孤独な作業ですよね。そう思いませんか? 世界中の誰もが見られるネットに、本当は誰にも理解できないことを書き記して公開してるんです。それはメッセージですらなくて、主張でも自己顕示欲でもなく、ただのつぶやきです。でもそれが必要なんでしょうね。若い人達にはね」
「つぶやくことが?」
「つぶやくことが・・・ それをひっそり晒すこともね」
「それをよく読んでるあんたも・・・」
「ええ、病気ですな」
あらかじめ言っておく。このゲームの発売は1999年。「つぶやき」といえばおなじみTwitterだが、サービス開始は2006年。まだ影も形もない。ブログですら出始めの頃だったと思う。当時こういう意見が一部にあった以上、つぶやきを前面に出したTwitterが登場するのは必然だったのかもしれないね。
さて、私のブログに関して言えば、この「孤独な作業」にまさに当たると言える。自分とすると「歪んだ自己顕示欲」という感覚でブログをやっていた訳だが、言われて読み返してみれば、ここにある文章に自己顕示もクソもない。30過ぎの独身男の日常やら趣味やらを開陳しても、全てを喜んで受ける読み手はいない。こちらが発信しても実際に受け手がいない状況では「自己顕示」など出来ていようはずもない。
誰かに向かって話しているが誰も聞いていない。世間ではこれを「つぶやき」若しくは「独り言」と呼ぶ。
実際、結構趣味の合う人間はいるし、そう言った方々にブログを見ていただいているわけだ。しかし、全く趣味が同じの人間は存在しない。「さだまさし」「奥華子」「ハルヒ」と興味の方向についてはある程度括れても、ではそれぞれのツボまで同じかというと全くそんなことはない。どんなところが、どの曲が、どのキャラが、どのシーンが好きか、実際は人によってまちまちである。しかしながらブログの内容に関して言えば、自分のツボを指向して書かれた文章しかない。自覚のあることとして言っておけば「今回は自分以外は読んでもなんの反応も出来なければ、『つまらない』以外の反応は持ちようがない」というネタとて過去に(mixi日記時代含む)複数存在する。無論今回も。
とは言え、ブログというのは一定線さえ守れば、基本的には何を書いても良いとは思っている。例えば人を傷つけない、例えば人を必要以上に煽らない、例えば人に必要以上の不快感を与えない、例えば人のプライバシーを曝かない。「一定線」と一口に言っても括りは多いが、逆にそれさえ守ればあとはつぶやきだろうが独り言だろうが戯れ言だろうが構わないと思う。
読む側が取捨選択してくれればいいと思う。
引用文中のマスターのこの言葉が、こんなくだらないつぶやきを晒している私を端的に表している。
「ええ、病気ですな」