さて、ブログの閉鎖を公言して幾年月、あとはデータ削除を待つだけのこのページであるが、今回はネタがあったので特別寄稿。ちょっと前に群馬県内有数の心霊スポットである薗原ダムの赤い橋について、極めて否定的に扱わせていただいた。
人間アラフィフにもなれば心霊スポットに一喜一憂なんかしない。そういうことを生業としてるんならともかく、霊が見えたと本気で言う人には、夜ぐっすり寝るように言うか、精神安定剤を処方して貰うように勧めるかどっちか、という常識的な考えを持つようにはなっている。ただ、そういう話が語られる場所については何らかの理由が得てしてあるので、それを探っていくのは個人的な知的好奇心が非常に刺激される。実際、図書館であれこれ考えながら資料を探してあれこれ調べるのはむちゃくちゃ面白い。
さて、赤い橋(正式名称薗原橋)についてはそちらを読んでいただくとして、群馬県下の心霊スポットとしてもう一つ有名な場所がある。桐生市黒保根町、国道122号に存在する城下(しろおり)トンネルである。
噂に関しては通り一遍(トンネルで語られる心霊話なんてどれも大同小異だ)なので省くとして、ここが心霊スポットとして語られてしまうことに関してはやむを得ない部分がある。
実際供養塔があるんですもの。これでは心霊話好きな人に語るなと言っても無理でしょうよ。線香をあげる台も設置されてるんですよこれ。
またこの供養塔が素っ気なくて、建立の経緯が一切書いてない。表は「供養塔」「交通事故」「諸聖霊」のみ。後ろは「昭和60年3月吉日建之」「贈 大間々町一一五二 高橋石材 高橋正治」(正確には「高」の字はいわゆるはしご高)とあるのみである。これではいくらでも邪推できる。ちなみに記載の住所(の今)であると推測できる「みどり市大間々町大間々1152番地」には2025年現在石材店はなかった。ググってみてもみどり市や桐生市には高橋石材という店はもう見当たらなかった。
昭和50年代に作られたそんなに新しくないトンネル脇に由来の分からない供養塔、しかも名前が「城下」と戦国時代を連想させる。これはもう話に尾ひれ背びれどころか胸びれ腹びれアブラびれまでつけて語ってくれと言わんばかりの状況である。当時の村長が実際に幽霊を見たのでこの供養塔が設置されたんだ、なんていう本物っぽい噂もまことしやかに語られるくらいにはなっている。
ただまあ、今更私が語るまでもなく尾ひれ背びれに関してはもうあちこちで否定されてます。ネットで調べても出てくるくらいで、
昔処刑場があった→そんなもんない
城で戦があった(敗残兵がここで首を切られた)→トンネル近く(ちなみにトンネルの真上ではない)の深沢城には戦の記録がない。城主阿久澤氏ものちに帰農していることが記録で語られいる。
足尾銅山の強制労働者が逃亡した際の処刑場があった→そもそも足尾銅山が遠くわざわざここまで来る意味がないしそんな事実は存在しない。
とこんな感じで大き目な話は大概出鱈目。興味を持って積極的に調べないと分かんないから、まあこれらの情報を知らないことを責めるのは酷ではあるな。
さて、ここからが本題。色々と語りはしたが心霊話の噂で否定しきれない、と言うか正しい情報がある。交通事故による死者の存在である。もちろんこの近辺で亡くなった人がいるから慰霊塔が存在するわけだからね。
ではこの供養塔はなぜここに、どういう経緯で建立されたのか、と言うことを調べてみることは噂の理解にも繋がる。だから地区の図書館を訪れ、地元の資料をあたってみることにしたわけである。
図書館と言っても正確には「黒保根公民館図書室」。現在黒保根地区の公民館は役場支所の中にあり図書室は建物の2階。でこれまた支所内の長いカウンターの一角の「黒保根公民館」のプレートの所の職員に言って鍵を開けてもらう形。誰が行っても自由に閲覧できる形ではあるが、少々敷居が高く感じたな。
蔵書的には残念ながら地元の資料はあまり多くはなかったものの、当時の広報の60年3月号にこの供養塔建立の記事が見つかった。全文転載してみよう。
交通事故犠牲者のめい福を祈る
去る1月21日、黒保根村下田沢の国道122号線城下トンネル北口にて、交通事故犠牲者供養が行われ、村交通対策協議会長の村長さんを初め、約35人が霊を慰めるとともに、事故の撲滅を祈願しました。
村内を走る122号線は、45年頃より拡幅工事が行われ、52年に全面改修がされました。この改修以後、7件の死亡事故が発生しており、このうち4件が同トンネル付近で起こっているため、今後の事故撲滅を願い、村交通対策協議会及び交通安全協会黒保根支部の共催で行いました。
トンネル北口道路わきには高さ2.5メートルの供養塔が建立され、大間々警察署長さんをはじめ、村交対協役員、安全協会支部役員さんらが焼香し、犠牲者のめい福と、交通安全を祈りました。
まあ内容的にはシンプル。特段何かの出来事の供養というわけではなくて、近辺の交通死亡事故で亡くなった方々を総合的に弔う形。同じような場所で4件の交通死亡事故があれば、供養塔を建てたくもなるし、心霊話を語りたくもなる人も出てくるだろう。でも、後ろに書いてあったように供養塔が石材店の寄贈であることを考えると設置に切迫性はあまり感じられない。それこそ「村長も見たから供養塔が立った」と言う噂ほどの話であれば、寄贈なんか悠長に求めてられない気もするんだよね。しかも寄贈者は隣の町の石材店だし。
また、事故の場所もトンネル「付近」としか分からない。「付近」ではトンネルからどのくらい離れているのか具体的には分からない。心霊話はトンネルに集中しているけど、トンネルで事故が起こったという記載ではなかったので、単にシンボリックだからトンネルに話の場所を求めているんじゃないかとはなんとなく思った。正直供養塔の位置に関しては、「トンネル近辺では道路脇の広い場所がここくらいしかなかった」って程度の理由だと思うな。
次に道路状況。昭和52年から昭和60年の8年間で沿線で7件の死亡事故が起こるほどの道なのかと言われれば、群馬県民としては「イエス」と言わざるを得ない。カーブやアップダウンはひっきりなしだし、道幅も「とりあえず片側1車線を確保しました」という感じで、路側帯もほぼ確保されていないところがほとんど。1回自転車で走ったことあるけど、もう二度とチャリでは行きたくないです。沿線は比較的風光明媚ではあるけど、そんなもんを愛でている余裕は全くなかった。程度の大小の話で、自動車を運転していても正直景色を愛でながらのんびり走れる路線じゃないです。
これはもう地形の問題。図書室で「黒保根村史」も読んでみたが、道路に関しては昔から酷く、群馬県の移動図書館の運転手が「ここに来る道は県内随一の酷さ」と述べたエピソードが記載してあるなど、昔から道路の悪さは筋金入り。それだけに国道122号の開通は村民の悲願だったはず。
ただし国道は改良されても走りにくい道として残り、そこに改良により交通量が増大したことで今度は交通事故の増加を招くことになった。元々人口の多くなかった村であり、一時期は人口一人あたりの事故率で県内ワーストを記録されてしまったらしい。この数字が国道の事故がほとんどだとするなら、国道整備は国と県が担当だし、通行者の多くが村外の人間。となればこの数字自体はかなり外的要因から来るもので村の行政や住民はとんだとばっちりじゃないかという気はするけどね。
ともあれ「人口比で事故の多い村」と言われてしまった村とすれば、これを払拭したいと当然考える。そんなところに死亡事故が多く起こる場所があれば、そら供養塔の一つも立てたくなるだろう。
同じく黒保根村史には交通事故の状況も記されており、国道全面改良後、供養塔建立までの黒保根村内の交通事故死亡者の数を列挙すれば、
昭和52年 1人
昭和53年~昭和55年 0人
昭和56年 1人
昭和57年 0人
昭和58年 1人
昭和59年 2人
とのこと。そもそも数が少ないので統計的な話もできないですねこれでは。でも少なくとも一般的な尺度で言えば死者が続出すると言われるような状況ではないことだけは確か。また供養塔建立前の2年で亡くなった方が増加してるのも事実と言えば事実なので、これ以上増やしたくない、という思いも供養塔建設に繋がった可能性はある。あまり田舎扱いすると地元の人に怒られちゃうけど、静かな山村にとって「事故率圏内ワーストワン」「2年連続死亡事故発生」ってのは大きな話になっちゃうんだろう。そもそも都市部ならもっと事故の件数多いし死者だって多いぞ。
ちなみに供養塔建立の昭和60年以降、村史に記載のあった平成4年までの7年間、黒保根村内の交通事故死亡者は0人である。第二次交通戦争と重なる時期でもあるから、これは村の関係者は誇っていいんじゃなかろうか。それとも供養塔がホントに効いたのかもしれないですね。いずれにせよ言えることは、令和の現在、城下トンネルでドライバーを惑わす存在は、元々いなかったか、もしくは供養塔の設置のおかげで出現しなくなったので、みんな安心して通行してよいですよ。
ただし、交通事故が起こるくらいの道の悪さは当時のままである。今回実際現地に行って歩いてみたんでよく分かったが、トンネル部分はグネグネが続く沿線の中では珍しいちょっとした直線に「感じる」から無理な追い越しが出来るんじゃないかと錯覚しやすい場所でスピード超過にもなりやすい。しかし実際は微妙に曲がっていたり微妙なアップダウンもあったりでスピードを出しやすく見えるのに実はそうでもない。トンネルはあんまり長くないし向こうも見えるから、全体的に見通しの悪い国道122号のなかでは珍しい長い直線だろうと私ですら思っていた。でも実際車降りて歩いてみて「こんな微妙なぐねぐね道だったのか」と驚いたくらい。となれば土地勘ない人にはここの危険は気づきにくいよね。
今回調べたことにより、まあ城下トンネルのあたりの交通状況に関しては理解は出来たし、あの供養塔の設置に関してもおおむね心霊話なんかを持ち出さなくても納得できるくらいには知ることが出来たとは思っています。ただ、心霊話を否定はしきれてないとも考えています。交通事故があったことは事実だし、当時の村長も見た、という噂に関しても肯定否定ともにソースがなく分からなかった。そのあたりはそれこそ当時の田沼新平村長とか寄贈した大間々町の高橋正治さんに聞かないと分からんが、正直個人が好奇心で調査するのはちょっと無理ですわね。
何度も言っていますが、私は心霊話なんか信じていない。ただし語られるには語られるだけの背景が必ずあり、それを調べることは本当に面白いと思っている。今回に関しては調べただけで心霊話を否定するには至っていないし、今回語った背景を認めてなお、心霊話をする余地は十分にある。
ただし道路好きとして言っておきたいのは、城下トンネルは多くの人に望まれて建設されたものであり、実際多くの人の喝采の元に使用されてきた。そして建設から半世紀近く、数え切れないほどの人々の行き来を見守ってきた存在なんである。そしてその脇にある慰霊塔も、多くの人思いを受けてあの場所に建設され、やはり40年ほどの年月、人々の行き来を見守ってきたんである。
だから、もしも今のトンネルに幽霊がいるなら、あなたが今いるこのトンネルと慰霊塔は、本当に多くの人の思いが結実したもんなんだよ、と教えてあげたいですね。
人間アラフィフにもなれば心霊スポットに一喜一憂なんかしない。そういうことを生業としてるんならともかく、霊が見えたと本気で言う人には、夜ぐっすり寝るように言うか、精神安定剤を処方して貰うように勧めるかどっちか、という常識的な考えを持つようにはなっている。ただ、そういう話が語られる場所については何らかの理由が得てしてあるので、それを探っていくのは個人的な知的好奇心が非常に刺激される。実際、図書館であれこれ考えながら資料を探してあれこれ調べるのはむちゃくちゃ面白い。
さて、赤い橋(正式名称薗原橋)についてはそちらを読んでいただくとして、群馬県下の心霊スポットとしてもう一つ有名な場所がある。桐生市黒保根町、国道122号に存在する城下(しろおり)トンネルである。
噂に関しては通り一遍(トンネルで語られる心霊話なんてどれも大同小異だ)なので省くとして、ここが心霊スポットとして語られてしまうことに関してはやむを得ない部分がある。

実際供養塔があるんですもの。これでは心霊話好きな人に語るなと言っても無理でしょうよ。線香をあげる台も設置されてるんですよこれ。
またこの供養塔が素っ気なくて、建立の経緯が一切書いてない。表は「供養塔」「交通事故」「諸聖霊」のみ。後ろは「昭和60年3月吉日建之」「贈 大間々町一一五二 高橋石材 高橋正治」(正確には「高」の字はいわゆるはしご高)とあるのみである。これではいくらでも邪推できる。ちなみに記載の住所(の今)であると推測できる「みどり市大間々町大間々1152番地」には2025年現在石材店はなかった。ググってみてもみどり市や桐生市には高橋石材という店はもう見当たらなかった。
昭和50年代に作られたそんなに新しくないトンネル脇に由来の分からない供養塔、しかも名前が「城下」と戦国時代を連想させる。これはもう話に尾ひれ背びれどころか胸びれ腹びれアブラびれまでつけて語ってくれと言わんばかりの状況である。当時の村長が実際に幽霊を見たのでこの供養塔が設置されたんだ、なんていう本物っぽい噂もまことしやかに語られるくらいにはなっている。
ただまあ、今更私が語るまでもなく尾ひれ背びれに関してはもうあちこちで否定されてます。ネットで調べても出てくるくらいで、
昔処刑場があった→そんなもんない
城で戦があった(敗残兵がここで首を切られた)→トンネル近く(ちなみにトンネルの真上ではない)の深沢城には戦の記録がない。城主阿久澤氏ものちに帰農していることが記録で語られいる。
足尾銅山の強制労働者が逃亡した際の処刑場があった→そもそも足尾銅山が遠くわざわざここまで来る意味がないしそんな事実は存在しない。
とこんな感じで大き目な話は大概出鱈目。興味を持って積極的に調べないと分かんないから、まあこれらの情報を知らないことを責めるのは酷ではあるな。
さて、ここからが本題。色々と語りはしたが心霊話の噂で否定しきれない、と言うか正しい情報がある。交通事故による死者の存在である。もちろんこの近辺で亡くなった人がいるから慰霊塔が存在するわけだからね。
ではこの供養塔はなぜここに、どういう経緯で建立されたのか、と言うことを調べてみることは噂の理解にも繋がる。だから地区の図書館を訪れ、地元の資料をあたってみることにしたわけである。
図書館と言っても正確には「黒保根公民館図書室」。現在黒保根地区の公民館は役場支所の中にあり図書室は建物の2階。でこれまた支所内の長いカウンターの一角の「黒保根公民館」のプレートの所の職員に言って鍵を開けてもらう形。誰が行っても自由に閲覧できる形ではあるが、少々敷居が高く感じたな。
蔵書的には残念ながら地元の資料はあまり多くはなかったものの、当時の広報の60年3月号にこの供養塔建立の記事が見つかった。全文転載してみよう。
交通事故犠牲者のめい福を祈る
去る1月21日、黒保根村下田沢の国道122号線城下トンネル北口にて、交通事故犠牲者供養が行われ、村交通対策協議会長の村長さんを初め、約35人が霊を慰めるとともに、事故の撲滅を祈願しました。
村内を走る122号線は、45年頃より拡幅工事が行われ、52年に全面改修がされました。この改修以後、7件の死亡事故が発生しており、このうち4件が同トンネル付近で起こっているため、今後の事故撲滅を願い、村交通対策協議会及び交通安全協会黒保根支部の共催で行いました。
トンネル北口道路わきには高さ2.5メートルの供養塔が建立され、大間々警察署長さんをはじめ、村交対協役員、安全協会支部役員さんらが焼香し、犠牲者のめい福と、交通安全を祈りました。
まあ内容的にはシンプル。特段何かの出来事の供養というわけではなくて、近辺の交通死亡事故で亡くなった方々を総合的に弔う形。同じような場所で4件の交通死亡事故があれば、供養塔を建てたくもなるし、心霊話を語りたくもなる人も出てくるだろう。でも、後ろに書いてあったように供養塔が石材店の寄贈であることを考えると設置に切迫性はあまり感じられない。それこそ「村長も見たから供養塔が立った」と言う噂ほどの話であれば、寄贈なんか悠長に求めてられない気もするんだよね。しかも寄贈者は隣の町の石材店だし。
また、事故の場所もトンネル「付近」としか分からない。「付近」ではトンネルからどのくらい離れているのか具体的には分からない。心霊話はトンネルに集中しているけど、トンネルで事故が起こったという記載ではなかったので、単にシンボリックだからトンネルに話の場所を求めているんじゃないかとはなんとなく思った。正直供養塔の位置に関しては、「トンネル近辺では道路脇の広い場所がここくらいしかなかった」って程度の理由だと思うな。
次に道路状況。昭和52年から昭和60年の8年間で沿線で7件の死亡事故が起こるほどの道なのかと言われれば、群馬県民としては「イエス」と言わざるを得ない。カーブやアップダウンはひっきりなしだし、道幅も「とりあえず片側1車線を確保しました」という感じで、路側帯もほぼ確保されていないところがほとんど。1回自転車で走ったことあるけど、もう二度とチャリでは行きたくないです。沿線は比較的風光明媚ではあるけど、そんなもんを愛でている余裕は全くなかった。程度の大小の話で、自動車を運転していても正直景色を愛でながらのんびり走れる路線じゃないです。
これはもう地形の問題。図書室で「黒保根村史」も読んでみたが、道路に関しては昔から酷く、群馬県の移動図書館の運転手が「ここに来る道は県内随一の酷さ」と述べたエピソードが記載してあるなど、昔から道路の悪さは筋金入り。それだけに国道122号の開通は村民の悲願だったはず。
ただし国道は改良されても走りにくい道として残り、そこに改良により交通量が増大したことで今度は交通事故の増加を招くことになった。元々人口の多くなかった村であり、一時期は人口一人あたりの事故率で県内ワーストを記録されてしまったらしい。この数字が国道の事故がほとんどだとするなら、国道整備は国と県が担当だし、通行者の多くが村外の人間。となればこの数字自体はかなり外的要因から来るもので村の行政や住民はとんだとばっちりじゃないかという気はするけどね。
ともあれ「人口比で事故の多い村」と言われてしまった村とすれば、これを払拭したいと当然考える。そんなところに死亡事故が多く起こる場所があれば、そら供養塔の一つも立てたくなるだろう。
同じく黒保根村史には交通事故の状況も記されており、国道全面改良後、供養塔建立までの黒保根村内の交通事故死亡者の数を列挙すれば、
昭和52年 1人
昭和53年~昭和55年 0人
昭和56年 1人
昭和57年 0人
昭和58年 1人
昭和59年 2人
とのこと。そもそも数が少ないので統計的な話もできないですねこれでは。でも少なくとも一般的な尺度で言えば死者が続出すると言われるような状況ではないことだけは確か。また供養塔建立前の2年で亡くなった方が増加してるのも事実と言えば事実なので、これ以上増やしたくない、という思いも供養塔建設に繋がった可能性はある。あまり田舎扱いすると地元の人に怒られちゃうけど、静かな山村にとって「事故率圏内ワーストワン」「2年連続死亡事故発生」ってのは大きな話になっちゃうんだろう。そもそも都市部ならもっと事故の件数多いし死者だって多いぞ。
ちなみに供養塔建立の昭和60年以降、村史に記載のあった平成4年までの7年間、黒保根村内の交通事故死亡者は0人である。第二次交通戦争と重なる時期でもあるから、これは村の関係者は誇っていいんじゃなかろうか。それとも供養塔がホントに効いたのかもしれないですね。いずれにせよ言えることは、令和の現在、城下トンネルでドライバーを惑わす存在は、元々いなかったか、もしくは供養塔の設置のおかげで出現しなくなったので、みんな安心して通行してよいですよ。
ただし、交通事故が起こるくらいの道の悪さは当時のままである。今回実際現地に行って歩いてみたんでよく分かったが、トンネル部分はグネグネが続く沿線の中では珍しいちょっとした直線に「感じる」から無理な追い越しが出来るんじゃないかと錯覚しやすい場所でスピード超過にもなりやすい。しかし実際は微妙に曲がっていたり微妙なアップダウンもあったりでスピードを出しやすく見えるのに実はそうでもない。トンネルはあんまり長くないし向こうも見えるから、全体的に見通しの悪い国道122号のなかでは珍しい長い直線だろうと私ですら思っていた。でも実際車降りて歩いてみて「こんな微妙なぐねぐね道だったのか」と驚いたくらい。となれば土地勘ない人にはここの危険は気づきにくいよね。
今回調べたことにより、まあ城下トンネルのあたりの交通状況に関しては理解は出来たし、あの供養塔の設置に関してもおおむね心霊話なんかを持ち出さなくても納得できるくらいには知ることが出来たとは思っています。ただ、心霊話を否定はしきれてないとも考えています。交通事故があったことは事実だし、当時の村長も見た、という噂に関しても肯定否定ともにソースがなく分からなかった。そのあたりはそれこそ当時の田沼新平村長とか寄贈した大間々町の高橋正治さんに聞かないと分からんが、正直個人が好奇心で調査するのはちょっと無理ですわね。
何度も言っていますが、私は心霊話なんか信じていない。ただし語られるには語られるだけの背景が必ずあり、それを調べることは本当に面白いと思っている。今回に関しては調べただけで心霊話を否定するには至っていないし、今回語った背景を認めてなお、心霊話をする余地は十分にある。
ただし道路好きとして言っておきたいのは、城下トンネルは多くの人に望まれて建設されたものであり、実際多くの人の喝采の元に使用されてきた。そして建設から半世紀近く、数え切れないほどの人々の行き来を見守ってきた存在なんである。そしてその脇にある慰霊塔も、多くの人思いを受けてあの場所に建設され、やはり40年ほどの年月、人々の行き来を見守ってきたんである。
だから、もしも今のトンネルに幽霊がいるなら、あなたが今いるこのトンネルと慰霊塔は、本当に多くの人の思いが結実したもんなんだよ、と教えてあげたいですね。