フィヨルドの変人 ~Odd person in fjord~

ぇいらっしゃ~い!!!

名所はある意味あるものではなく「つくるもの」

2024年06月30日 11時55分21秒 | 日記
ずいぶん前の話になるが「水曜どうでしょう」の副音声にてディレクターの嬉野雅路氏が「寺だって経営をしている」と言う趣旨の発言をしていた。実家のお寺が縁日等をやるのはなぜかと思っていたら、これはその時にお札を売ったり名前を売ったりする経営の一環なんだなと思った、と語られていた。
僧侶といえども仙人じゃないんだから霞を食べて生きていけるはずもなく、現代日本では当然収入を得なければいけない。だが21世紀の昨今、檀家料だけで生きていこうとするのは相当に大変なんて話も聞く。副業を行っているお寺さんも数多い。この辺の話をすると「宗教法人は税金がかからない坊主丸儲け」みたいなことを言い出す人もいるけど、全部の税金が免除されるわけじゃないからな。
そんなお寺の経営であるが、群馬県の片隅に、こと知名度に関してはここ数年で一気に関東有数に上り詰めたお寺がある。名前を宝徳寺という。

この床もみじが「映える」と昨今大人気。特に文字のとおり紅葉の時期となると拝観者の数は恐ろしいことになる。
はっきり言うが、10年以上前にここを知っている人はほとんどいなかった。人知れず床もみじがあったのではない。以前はこんなにきれいに映る床ではなかったんである。
施工した業者のサイトもあるんだが、この床は長年磨かれ続けてこうなったわけではなく、端的に言えばものすごく厚いウレタン塗装。施工は2018年とほんの数年前の出来事である。
だから歴史もへったくれもないんだが、これがまあ昨今のSNS映えの流行にも乗ったのか人気が大爆発。群馬の片田舎ながらいまや一般公開時には、はとバスツアーにも組み込まれる大人気観光スポットである。
寺社仏閣の観光と言えば、どちらかというと歴史や伝統を重んじる風潮があるけど、ここに関してはそういうものではない。さらにはきれいに撮影するためには低いアングルの撮影が求められるが、スマホでこれをするとなるとご本尊にお尻を向けて、何なら腹ばいになる形になるので、そんなに気分の良いものでもない。
とは言え、観光スポットとしてとても魅力的であることは疑いようのない事実。いかに床がきれいに映るとは申せ、見える景色が大したことなければ台無しだがここに関してはそんなことはない。散策できる境内の庭園もかなりきれいに整備されているし、売っているお守りや御朱印もどこか親しみやすいものばかり。行って損はないのは間違いない。
話は最初に戻るが、「経営」と言う面において宝徳寺は本当にセンスが良くて、実際多くの人を引きつけている。多分リピーターもそれなりにいると思う。では床をピカピカにすれば、ファンシーなお守りを売れば人は来るのかと言えばそんなことはなく、住職は以前から拝観者のために庭造りを長年行っていたようで、評判になったのこそ最近とは申せ一朝一日にできあがったものではなく、長い苦労とセンス磨きの積み重ねがあってのこと。「来た人に気持ちよく散策して欲しいな」「少し高台にあるから借景がきれいだな」「床に風景がもっときれいに映ったら良いな」と言った感想を、素直に積み上げていったんだと思う。こういうのはセンスのない俗物ぬたりは100万回生まれ変わっても真似できない領域。

と言うわけで観光地としては群馬県内でも有数のオススメスポットになりますので皆様も一般公開時に一度は是非。なお、床もみじを撮影する際はどうしてもご本尊にお尻を向ける形になりますので、ちゃんと最初にご本尊を拝んで許しをもらってから撮影してくださいね。仏罰はあとが怖いぞ。
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ともかく仕事にちょっと余裕がないのよ

2024年06月18日 20時31分28秒 | 日記
NASAでかつて打ち上げられていたスペースシャトルはフライトごとに「STS-○○」というナンバーが振られていた。例えばスペースシャトル最後のフライトは「STS-135」であり、シャトルの135回目のフライトとして「計画」(打ち上げ順の番号付与ではない)されたものであることを示している。
そんなフライトの中で、STS-27というフライトが1988年に行われている。フライトミッションが軍事目的であり、我々一般人に馴染みの出来事があるわけではないのだが、このフライトは成功に終わったスペースシャトルのフライトの中で、最もシャトルの損傷が激しかったフライトとして記録に残っている。
この激しい損傷がなぜ起きたかと言えば、外部燃料タンクの表面、部位的には「パイポットランプ(タンクとシャトルの接続部)」と言われる箇所に貼り付けられた断熱材が発射時の空力で剥離し、それが機体にぶつかり傷をつけたもの。
先にも言ったとおり、このフライトは成功しクルーは無事に帰ってきている。しかしクルーは激しい感情のジェットコースターに乗せられることになった。打ち上げ後、衛星軌道上で損傷を知らされ、シャトルのアームに取り付けられたカメラで損傷を確認したところ、相当に激しい損傷が確認された。まだチャレンジャー号の事故から2年経っていない時期であり、クルーの絶望は想像に難くない。早速地上に画像を送ったところ、回答は「飛行に問題は無い」だった。相当に激しい損傷で完全に剥離したタイルらしき部位も見えるのに、だ。これにより今度は困惑と苛立ちのコースターに乗せられることになった。そして彼らは無事に地上に帰ってきたわけだが、この際の歓喜は相当なものだったろう。自分たちが絶望した状況でも地上スタッフは事態を冷静に判断していたのだ、という事であり、クルーの一人は後に「スタッフにキスして回りたいと思った」と述べている。
だが、歓喜は後にまた暗転する。後に彼らには「送られてきた画像は荒く、損傷部が光と影に見えた」と言うことが告げられる。地上スタッフは損傷の深刻さを認識していなかったと告げられたわけだ。ミッションが軍事目的であったためシャトルに積まれた無線機は画像を送るように想定されたものは積んでいなかったためである。実際は損傷した部位がたまたま大丈夫な位置だったと言うだけで、少しでもズレていれば大惨事だった、と言うのが結論。尤も後にフライトクルーの一人も自伝で振り返っていたが、NASAが重大さを認識していたとしても出来ることは何もなかった。救出用のロケットを打ち上げるにしても時間がかかりすぎ、その前にシャトルの空気が尽きる。当時は国際宇宙ステーションも建設前でどこにも逃げ場はなかった。生き残る唯一の手段は、運を天に任せて着陸を行うことだけだったのだ。
さてこの事態だが、実は剥離した「パイポットランプの断熱材」はこの飛行時から仕様変更が行われていた。空力を考え、より性能を良くしようとしたための変更らしい。
工学の優先事項に「より良い、は、使い物になる、の敵」と言うのがあるそうだ。STS-27のクルーの叫びはまさにこれだったそうだ。もっと砕けた言葉で言うなら「ちゃんと動いてるならいじるな!」である。
ちなみにこのパイポットランプのフォーム剥離。STS-27のフライトの15年後に起きた、かのコロンビア号空中分解事故の直接の引き金になった。損傷部分が機体腹部のフォームと翼の前縁部というズレこそあるが、現象とすれば同じことである。これでNASAはどう対応したか。
「フォームはいつも剥離してるし、飛行に影響が出るほど機体を傷つけることなんてないよ(意訳)」と抗弁したのである。今まで大丈夫だったんだから、というわけだ。
この後は多くは報道でも扱われたが、実際にフォームを翼の構造材にぶつける実験が行われ、結果、構造材には大穴があき、「てめえら舐めくさるのも大概にせえよ」とかえって追及が厳しさを増すという事態にもなったわけだが。

とまあ、今日のネタで何が言いたいかと言えば、ぬたりの会社で今年から大規模システム変更を推進、決断した社員は全員○を切って○ぬべきである、ということである。
今までのシステムに大きな不満が出てたわけでもないのに、なぜまるごとシステムを変える必要があるのかね。現場の大混乱の責任誰が取るんだコラ。
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確かに欧州車の中古車はみんなこうなってます

2024年06月09日 10時05分25秒 | 日記
さてさて、おかあちゃんの車購入で散々腐したフォルクスワーゲンではあるが、とりもなおさずぬたりの愛車もフォルクスワーゲンティグアンである。
で、こいつがあるからこそ筆も厳しくなってもいるとも言えて、乗ってての不満点は複数あるのに改善される気配もないので「なんで新しくなったのに駄目なまんまなんだ?」と怒りを通り越して呆れる始末でな。フォルクスワーゲンの人間は自社の車に乗ってねえのか?。
ではぬたりは今の車を気に入っていないかと言えば、「道具としては」今のところ有用にも程があるという評価で今後もしばらく乗り続ける。今のところこれと言った乗換え候補も思い浮かばないしな。まあ新車で買うと高いので(500万はします)程度の良い中古車が無いと乗換えもままならないという弱点はあるが。貧乏はつらいのう。
で、そんなティグアンに一つ気になる部分がでてきた。メッキモールである。
別にぬたりの車に限った話ではなく、ほとんどのフォルクスワーゲン車のメッキがこうなってしまうのだが、窓のエッジの辺りのメッキモールが水玉が浮くように白く汚れているのである。そもそも高級感が得られる(例えばポロやゴルフにはメッキモールはない)のでフォルクスワーゲンでも値段が高めの車についているのだが、ものの数年でここがくすんで見窄らしくなる。遠くから見る分にはまだ良いんだけど、こちとら毎日のように乗り込んで使うわけだから白く薄汚れたメッキをそのたび見ることになる。なんとかならんかこれ?
でも得てしてこういうのはメーカーを頼っているうちは幸せになれない。どーせ「仕様です」「本国の対応待ちです」で逃げるに決まっている。ここは日本だ。日本人には日本人の武器がある。

ピカール先生のご登場である。
金属部分の研磨ならとにかくなんでもお任せ。家の中から家の外まで、金属部分をピカピカにしたいなら先生に勝るものはない。しかも安い。これで数百円である。早速近くのホムセンで買ってきて磨く。
挫折しかける。
やる前から覚悟はしていたが、とにかく手作業で研磨するのは大変。手も腕もパンパンになる。助手席側の窓のモールを一通りやってとりあえず一段落つける。しかも微妙に取り切れねえし。これは汚れじゃないのか?
で、今回に関しては調べる前にやり始めたのがアダになった。ここに来てようやく調べたところ、この白いのは簡単に言えば白錆。研磨剤ではなくて、そもそもヤスリで削るもんなんだそうだ。さらには錆びたんだから削ったあとはコーティングしないとまたすぐに錆びるんだそうな。マジかよそれ.
んでまあしょうがなくカー用品店にて二千円くらいする専用のキットを購入。まずはヤスリで削ると言うことで、キット付属のヤスリでゴシゴシゴシ・・・。
ヤスリがあっという間に力尽きる。
付属のヤスリはちっちゃいにも程があり、すぐに目が潰れだしたため、結局は大まかにヤスリがけする→根性でピカールで磨く、の作業を行うことに。あーつかれた。ともあれ、かなりきれいになったわ。んでコーティング剤を塗って完了。まあ不器用ぬたりがやるコーティングなど近くで見れば粗がありすぎるんだが、それでもずいぶん良くなった。

ちなみに欧州車のメッキパーツは多くの車はものの数年で大体こんな感じになっちゃうらしい。なんでこんな錆びるのかと言えば、ネットでは「日本の高温多湿にコーティングが合っていないから」と、一応もっともらしく説明はされてますがんなもんどーせ本国でも錆が出まくってるに決まってるわ。
輸入車の駄目な部分があると、昭和の頭では「車としては先進国な欧米車に駄目なところがあるわけない。きっと日本が悪いんだ」と考えがちだけれども、いやいや、あいつら昔から駄目な車を割と量産してるからね。
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買ったんだから悪口ちっくでもいいよね

2024年06月05日 14時51分17秒 | 日記
おかあちゃんが車を買換えました。ゴルフ7からゴルフ8に。
以前に書いたが、輸入車大手の一つ、フォルクスワーゲンであっても今新車は買いにくく、値上げと法規対応で輸入体制も販売体制も混乱気味。ぬたり達は3月に日本に到着する船便のうち、欲しいグレードの最後の1台を押さえられたわけだが、これを逃すと同グレードは半年後の輸入で、しかもそれを買おうとすると大幅値上げ後という状況だった。
んでまあ、21世紀の世の中、もはや国産車と輸入車の性能差なんてない。もちろん違いはある。けれどもそれは優劣をつけられるものではないと思う。そもそも輸入車が優れてて国産車が劣っていた、なんてのは輸入代理店から接待を受けたジャーナリストやマスコミのステマの影響が大きい。確かに日本は自動車に関しては後進だからかつては劣っていた部分もあった。けれどもその頃だって海外でちゃんと評価されていた日本車は多かったし、言われるほどの差なんかなかった。そんてことはそれこそ21世紀では周知の事実になったし、そんなことをやっていたから若い人たちは今や自動車雑誌やモータージャーナリストに見向きもしないんだよ。その状況を「若い人の車離れ」などと恥ずかしげもなく彼らは書くけど、自動車は今も若い世代にちゃんと売れている。あんたらが見向きもされなくなったのを車離れと勘違いしてんじゃないよ。

閑話休題

さて、ぬたりはゴルフ8を他人に勧めるかどうかと言われれば、「お好きならどうぞ」としか言わない。上でも述べたがゴルフならではという「違い」は確かにある。けれども例えば国産車の同クラスのハッチバックから乗換えたら別次元の体験が出来るかと言えば、そんなことはない。
というのもゴルフ8、使い始めてすぐに分かる弱点が複数ある。まずはフォルクスワーゲン共通の問題として純正ナビが有料オプションのくせに性能がゴミ。まあ今はスマホ連携使えば良いので、むしろレスオプションの方がいいって人も多いだろうが、そのレスオプション仕様の輸入の絶対数が少なく、メーカー在庫がほとんど無く事実上選べない。だから高いお金を出してゴミのようなナビを買わされるわけだ。ナビに関しては長年こうだから多分今後も改善の目はない。それどころか機能が増えた分悪化してる節すらあるけども。
あとは悪い意味でたまげたところはエアコンの操作部というかなり重要なインターフェイスがダメダメ。物理ボタンではなくタッチパネル式なのだが、ナビ画面の直下に位置するために画面を操作しようとして不意に手が触れてしまう現象が多発。ナビをいじろうとしていきなりエアコンから爆風が出る、という経験はゴルフ8ユーザーはかなり早い時点で経験する。
しかしエアコン操作部の最大の問題点はそこではない。驚かずに聞いてほしいがこのタッチセンサー、バックライトが搭載されていない。夜になると操作はほぼ不可能になるのだ。
この仕様をどこのバカが良いと判断したのか知らないが、不意に触っちゃうわ夜は操作できないわととにかくお話にならない。一応コンソールにエアコンボタンがあり(こっちは光る)、画面にエアコン操作機能を表示させることはできる。こっちでやれとでも言いたいんだろうが。ただでさえ運転中の繊細なタッチパネル操作は難しいってのに画面を注視しろとでも言いたいのかね。夏は高温多湿で冬は寒い日本の気候ではエアコンは重要な装備であり、これが使いにくいとなればさすがに日本では多くの人には勧められない。
他にも、フォルクスワーゲンはドイツでは大衆車なわけで、コストを無視した質感は追えない。だから細かい部分で涙ぐましいコストダウンは図られてて、目立たないところ(下の方とか)は結構ペナペナなプラスチックを使っているし、標準のタイヤはなんと韓国のネクセン。欧州車っつったらミシュランかコンチネンタルじゃねえんかよ。
ここまで言えばわかるとおり、正直日本車に対する優位性というものは今やもうない。昭和や平成初期ならいざ知らず、今ではゴルフの直接ライバルとなる車(いわゆるCセグメントハッチバック)は国産車にも多くある。カローラスポーツ、シビック、マツダ3、インプレッサですね。こう並べるとホントに独自の強みをちゃんと持ってる車が並ぶ。個人の好みやニーズを考えて好きなの買えば後悔はしないと思うな。
勘違いをしないで欲しいが、ぬたりはゴルフ8を(おかあちゃんが)買ったことに後悔は一切無い。確かに弱点は多いが、走りの安定性、室内の使い勝手、手が触れる部分の質感、装備等、何をとってもちゃんと満足できるパッケージングは利点だと思う。素直に良い車だと思ってはいるんですよ。それなりに弱点があるから他人に無責任に勧めようと思わないだけでな。しかしレビュー記事とか読むと絶賛しか見かけないんだが、ホントにおまえらちゃんと見てるか? って突っ込みは入れたいところではありますがね。
みんなも自分の好みとニーズをちゃんと把握して、楽しい愛車選びをしてくださいね。
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本格更新再開は来週あたりかしら?

2024年05月26日 20時49分51秒 | 日記
なんかもう新年度になってから仕事が落ち着かなくてな。来週くらいになればいろいろ落ち着いてくると思うんだが。
とは言え、ぬたりのような人事課公認役立たずまであれこれ仕事回されるんだから、うちの会社も相当病んでるな。就職希望者がいたら全力で止めてあげよう。

ともあれ、本格再開の前の小手調べ、動画貼り付けでお気楽更新してみましょう。
COMIC FUZ新連載『IDOL×IDOL STORY!』公式PV



【PV】IDOL×IDOL STORY【TV CM】


まんがタイムきららで有名な芳文社のネット漫画サイト(アプリも有)、「Comic FAZ」連載中の作品だけども、いわゆる「きらら系」でいつかアニメで来るであろう作品だから、アニメ好きな方は今のうちにチェックしておくが吉。
・・・と言うか漫画作品としては既に「来て」いて、Comic FAZ内ではすでに有数の人気を誇っている。同じFAZ連載で、一世を風靡した(している)かの「ゆるキャン△」と、いいね!やお気に入り登録はほぼ同じ。サイトを代表する作品には既になっています。

サイトやアプリで読むだけなら無料なので、ぜひ一度読んでみてくださいな。

まあ、無料ってのは案外「沼」の入り口にもなりますのでご注意のほどを。
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妖怪の住まう沢

2024年05月01日 20時48分20秒 | 日記
さてさて、ワウーについてぬたりは知るに至ったが、そのワウーの出没地点に関しては地図で「ここだ」と示してくれる資料はネット上には見つからなかった。
地名のみは「刈俣」と記載があるが、今のみなかみ町の地名には見えない。グーグルマップ等で追える地名は「利根郡みなかみ町藤原」まで。その先の小字とか地区名はいくつかの資料では確認できるが、その中に「刈俣」という名前はない。そもそも藤原地区の中心部は現在藤原ダムの建設によりダム湖の底に沈んでおり、当時の集落自体がもうない。
さらにはワウーの話自体が「山に入っていって遭遇した」なんだから、現在の集落近辺に「刈俣」は無いんじゃなかろうか。日常的に山に入る藤原の住民がどこかをそう言い習わしていた、とも考えられ、そうなるともうどう調べて良いのか見当もつかなくなる。
次にワウーが出たから名付けられたという「ワウー沢」に注目。川や沢というのはそれを遡る趣味の人たちがおり、ネットにも情報がたくさんある。と言うわけで武尊山中の沢登りの記録をあれこれ読ませていただいたが、「ワウー沢」という名前はなかった。
というわけでお定まりの方法。地元の図書館へ行く。みなかみ町に図書館はなく公民館の図書室という形であったが、地域の本の蔵書はやはり頼りになる。民話関係、地形図関係、水利関係、関係ありそうなものを片っ端から読んでいく。
結論から言えば、場所を特定出来る情報は無かった。ただ、話のディテールを少し深めることが出来て、ワウーの話が出たのは明治維新の前くらいの時期であること、刈俣は正確には「刈俣沢」という沢の名前であること、そして当時の山小屋と言ってもとりあえず雨風をしのげる程度の掘っ立て小屋で、1坪程度の簡素なものだったこと、などが分かった。そして地域の古老はワウーの正体をミミズクあたりではないかと思っていたそうだ。21世紀を生きる我々だと山小屋を揺らすとなると大きな怪物を安易に想像してしまうが、周囲を囲った程度の掘っ立て小屋なら、確かに猛禽類ならぐらぐら揺らすことも可能だろう。
こんな感じで得るものはあったものの「刈俣沢」「ワウー沢」どちらも現地確定には至らず、すごすごと家に帰る。まあ妖怪なんて求めてると遠ざかってしまうもんさ、なんて思いながら、地区の大まかな地形や道、集落等を復習しようと手元の県別マップルを手に取る。藤原地区で武尊山中だとこのあたりなんだよなあ。

載っとんのかい。
なんとまあ、自宅でご飯食べるすぐ脇に置いてあった道路地図に答えが載っていたという、青い鳥は実は身近にいたというのを地で行く展開になった。何だったんだ今までの苦労。
現在の標記は「刈又沢」と書かれてるようだが、こういう標記のずれはよくあること。残念ながら「ワウー沢」の記載は無かったけれども、ほぼ沢筋1つに場所を限定できた。
ただ、なるほどこれは情報収集には悪い意味で絶妙の位置。刈又沢は武尊川の支流で武尊川は沢登りの人の情報も数多いのだが、現在では刈又沢合流の遙か上流に駐車場があり、刈又沢のあたりを沢登りする人はほとんどいない。だから情報が少なかったのだ。
そして調べたからには行ってみたいと思ったんだがこれもまた悪い意味で絶妙な位置。刈又沢のあたりでは道路は大きく迂回していて簡単に近づける位置にない。実際に現地を下見にも行ったのだが、険しい人跡未踏の山肌をかなりな高度を克服するか、渡渉しながら沢を登るかの2択。やってやれなくはないと思うがちょっと荷が勝ちすぎる感じ。ウェーダーを履いての渡渉も経験がないでもないんだけど、見た目よりも水圧が相当にきつくてかなり怖かったのであんまりやりたくないんだよね。見た感じ武尊川は結構水量も多かったし。
というわけで、調査は一旦これでおしまい。なお、刈又沢に車道で一番近づけるあたりにはほうだいぎキャンプ場があるので、いつかワウーを思いつつキャンプしに行くのも良いかもしんないね。
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へんないきものは、きっとまだ日本にたくさんいます

2024年04月30日 22時09分32秒 | 日記
さて、群馬の妖怪の話をしたところで、ぬたりが今回参考にしたのが「群馬県史 資料編27」。ここに記載の「怪異」の項ではあるが、アズキトギ婆は文章量こそ多いが項目トップの妖怪というわけではなかった。天狗やカッパという全国的に有名な怪異もあったが、こと「群馬県史」で扱われた妖怪のうち、一番最初に記載されていたのは「ワウー」である。
ワウーは今で言う利根郡みなかみ町藤原で伝わる妖怪。藤原自体が平家の落人伝説も残る山奥の集落だが、ワウーが出たのはそのさらに山奥、武尊山の山中になる。伝承はこうである。
ある日村の猟師が武尊山山中に狩りに出かけ、その日は里には帰らず刈俣(という場所)の山小屋に泊まった。すると夜中に「ワァーウー!」とうなり声を上げる化け物がやってきて、山小屋をガタガタと揺すりだした。
猟師は恐怖のあまり夜一睡も出来ず、翌日里に帰ると「ワウーのお化けが出た」と里にふれて回ったという。
しかし山に生きる藤原の里の生活に山の資源を欠かすことは出来ず、数日後今度は木工職人が材料集めで山に入らなければならなくなった。
そして夜になり山小屋の中にいるとやはりワウーがやってきて、「ワァウー!ワァウー!」と体がしびれるほどの大声を上げながら、一晩じゅう山小屋を揺らし、職人は恐怖で数日間小屋から出ることが出来なかった。数日後ようやく里に帰り、このことを皆に伝えたという。
それ以来、ワウーが出たあたりの沢のことは「ワウー沢」と呼ばれるようになったという。

さてこのワウー。間違いなく地域独自の妖怪で小豆洗いのように他の地区にも伝承があるなんてことは無いと考えられる。似たような事をする妖怪は他にもいるだろうけど、ワウーとは言われていないだろう。
さて、令和の世の中、妖怪と言ったらまずは水木しげる先生。水木先生が作品で大きく取り上げた妖怪の知名度は相当に高いが、そうでない妖怪の知名度は低い。ワウーに関しては奇妙な鳴き声で小屋を揺らすだけなので特殊能力という点では弱く、それこそゲゲゲの鬼太郎に登場しても扱いに困るだろう。このため群馬県民でもワウーを知っている人は少ないんじゃないかな。
ましてこのワウーが出たという場所は具体的に一体どこなのかとかは、ワウーについて記載した文書にもほとんど書いてない。「武尊山中」「刈俣」と書かれていても、じゃあそこはどこなのかの記載は見当たらないのである。民話の中の地名だから、あまり追っても仕方ないのかもしれない
・・・でも、気になっちゃったんだよねえ(つづく)
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みんなでうたおう ゲゲゲのゲー

2024年04月24日 20時35分45秒 | 日記
子供の頃はとにかく怖がりでその手の話が大の苦手だったぬたりなのだが、子供の頃「水木しげるの妖怪辞典」をなぜか持っていた。確か世界の妖怪の本もあって、外国の妖怪は見るだけで死ぬとか容赦ないのが多くて、日本に生まれて良かったなあ、なんて子供ながらに思った記憶がある。怖がりのぬたりよくもまあこんな本を持っていたもんだとは思うが、そのあたりは一時代を築いた水木しげる先生の流石の影響力、って感じ。
本の内容は今となってはほとんど覚えてはいないのだが、一つ覚えているのは各県の妖怪伝承マップにぬたりの地元群馬県には小豆洗いの伝承が伝わると書いてあったことだ。
小豆洗いの伝承のある地域は群馬以外にもそこそこあるようで、妖怪とするとポピュラーな方。境港の水木しげるロードにも銅像がある。説明だと小豆を洗う音をさせる妖怪で姿を見たものは誰もいない、とまあ、どちらかというと微笑ましい妖怪ではありますね。実害があるとすれば「なんか不気味で怖い」「安眠妨害」くらいなもんだろう。
で、この小豆洗いであるが、さすがに団塊ジュニアのぬたりの身近な存在、というわけにはいかない。外を歩いていて小豆を洗う音を聞いたことはないし、経験談も聞いたことはない。昔話としても聞いたことはなかったから、小豆洗いの伝承はぬたりの住んでた地域ではなくて群馬の他の地域のものなんだろう、というのが子供ぬたりの結論だったわけだ。
そしてぬたりはアラフィフ。この年になると子供の頃のこういうなんてことない記憶を意味もなく思い出すもの。となれば「ではどの地域の伝承なのだ?」と調べる気にもなるもんである。
で、廃道とかと違い今回は案外簡単。民間伝承は研究している人も多く、ちょっとネットを叩いただけで群馬県発行の「群馬県史 資料編27」に記載があることが見つかる。早速最寄りの図書館へ行って該当の本を拝見。そしてそこにはちゃんと小豆洗いの伝承の記載があった。
いやもう、あるわあるわ。
小豆洗いに類する名前では県内22の地区で伝承があるとの記載だった。で、群馬の多くの地区では小豆洗いではなくて「アズキトギ婆」らしい。
最大公約数的なアズキトキ婆の伝承は、橋の下にアズキトギ婆が現れ「小豆を洗うか、人を取って食うか」と小豆を洗いながら歌っている、というもの。実際に人をさらったという伝承もある。このため小さな子供のいる親が「アズキトギ婆が出るから暗くならないうちに帰ってきな」と言い聞かせるわけだ。ひたすら小豆を洗う音を立てるだけで姿も決して見せないという多くの地域の伝承に比べると、歌を歌ったり人をさらったり、群馬のアズキトギ婆は少しアグレッシブなようだ。

それにしても、昨今不思議な現象は「心霊」や「都市伝説」ばっかりになっていて、妖怪の肩身はやや狭い感じ。話的にはそれぞれが亜種とも言える存在だと思うんだけど、妖怪話はなんというか「隙」がある。確かに人を襲ったり命を奪う妖怪話も多いが、「小豆を洗う音をさせるだけ」とか「砂をかけるだけ」とか「行く手を阻むだけ」とかと、直接的に人を傷つけない話も多い。「無念の死を遂げた人が祟り殺す」だの「国が隠蔽している。信じるか信じないかはあなた次第」などと、ただ恐怖心を煽るだけの話に比べれば、どこかユーモラスな妖怪の話の方が今の世の中には必要なんじゃないかと思いますけどね。大変なときこそユーモアって大事だと思うんだけどなあ。
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なぜ2月の探索ネタを今更やったのか

2024年04月20日 15時05分15秒 | 日記
さて、下手したらダム建設以来久しぶりに地上に姿を現した薗原ダム湖に沈む橋を愛でてきたわけだが、道路好きとしては一つ気になることがあった。
この橋の名前は?
いやまあ上に架かっている吊り橋が「薗原橋」なんだから、これも多分同じ名前なんだろうとは思ったのだが、物事は何事も例外があり実際にソースを当たらんことには分からない。心霊話でも触れたが、そもそもかつてはこれは県道の橋。でもダム建設により県道のルートは変更され、ほぼ同じ場所に橋は架けられたとは言え、目的が変わり管理者も変わっている(県道時だと群馬県。新しい橋は架橋時は利根村、今は合併で沼田市)。だから橋の名前が変わっている可能性も否定できなかった。
でも昭和30年代までしか使われていなかった箸の名前なんてどうやって調べれば良いんだ?
一応そのあたり調べてからブログのネタにしようと思っていたので探索から公表までにタイムラグがあったわけだが、調べてみたらあっという間に解決。沼田市立図書館でとりあえずこれからか、と手に取った「利根村誌」にてなんと写真付きで載ってた。この橋の名前はやっぱり「薗原橋」でした。
しかしこの園原ダム建設、地元ではやはり相当に大きな出来事だったようで、利根村誌でもかなりのページ数を割かれ、実に細かい記載がなされている。園原地区への影響だけでなく、村内では有数の観光地である老神温泉も影響を受けてますからね。
話はダムの話に脱線するが、「当時反対運動は全国有数の激しさだった」とは言われるが、建設自体は昭和27年の事業採択から昭和40年完成だから工期は13年。言われる印象ほどは長くない。ただどうやら地元の意見集約がうまくいかなかったようで、地方の村の一集落なのに4つも住民団体が結成されており、交渉がやりにくかったんではあるまいか。
特に強硬に反対する住民グループは「話し合いをすると、どう立ち退くか、の話になる。そもそも立ち退きする気はないから話すこともない」と話し合いすら拒否。彼らの肩を持つわけじゃないがダムが建設された当時の昭和30年代の話であるから、立ち退き交渉において、地方集落の住民が「国のためなんだからさっさとどけ田舎もんが」とかと軽んじられた可能性は否定できない。彼らが関係者に送った手紙にも、強硬な姿勢な中、「洪水の防止という大義は分かる」と苦しい心境も見える。このような強硬派の住民グループは8戸であったと利根村誌は伝えている。関係者と反対住民との物理的な衝突に関しては利根村誌に記載はなかったが、測量調査時においては隣の穴原地区出身で地区に顔見知りの多い警察官を警備にあて衝突を避けたという事例が紹介されている。そもそも園原ダム自体はほぼほぼ集落一つを水没させるとともに、地区では有数の温泉地の源泉と数軒の旅館に影響を及ぼす計画だったわけで、こんなの交渉に困難が伴わない方がおかしい。

閑話休題

ともかく利根村誌に載っていた往時の薗原橋の姿である。

全く同じアングルではないが、水没後60年近く経った今の姿がこれ。

ずいぶん埋まっちゃってるんだな。

ちなみにぬたりが現地で「特徴的だな」と思った3つの小さな岬状の地形。ここに天狗社というお社があったことは現地編で述べたが、ここの写真もあった。

写真は上流側からの撮影ですね。上に新しい薗原橋が見えてますから水没直前の写真ってことですね。

これこそ同じアングルじゃないですけど、手前の岬状のところには石垣が残ってますね。

ともかく、たまたま通りかかったら相当に水位が下がっていて、そこに昔の橋が見えていたものだから探索した上で、ダム建設の経緯も知るに至った。まあ群馬の片田舎のダムの話など知識として持っていても多くの人は今後の人生で役に立つことはまずないだろうが、それでも探索や図書館調査の時間はむちゃくちゃ楽しかったですね。久しぶりに有意義な時間を過ごせたと思うわ。
最後に、施設工事が終われば再びダムの底に沈む旧園原橋に改めて敬意を表して終わりにします。たくさんの人の役に立ってくれてありがとう。そして、おやすみなさい。
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58年ぶりに水面上に現れた橋を見に行った話

2024年04月18日 21時08分54秒 | 日記

というわけでやってきました薗原ダム湖畔のとある公園。ダム湖を見るがこのあたりだと水は全く溜まっていない。このあたりからカヤックを漕ぎ出したこともあるんだけどな。
このあたりは渇水期であれば地面が見えることも多く、地面のぬかるみはそれほどでもない。汚れを気にしなければスニーカーでもなんとかなるんじゃないかな? ぬたりは長靴(ワークマンで売ってるごっついやつ)で歩きましたけど。

で、案外近かったのでいきなり橋に到着。ここまで水位が下がったのは58年ぶりとも言われるが少なくとも橋まで来るだけなら泥の堆積自体は長靴すらいらないくらい。まあ泥の跳ね上げとかがあるので汚れを気にしたら長靴一択だし、橋の下は相当な泥の堆積なので下に落ちたら命の保証はないな。ちなみに探索時にぬたりは万が一を考えて、紐を引っ張ると瞬間的に膨れる浮き輪を腰に巻いてました。

なにやら特徴的な意匠のある親柱。

残念ながら銘板は失われていますね。

そして橋の上。かなり泥は溜まっているけど歩く分には問題ない。そして橋の向こうは・・・

うん、ここから先はぬたりには無理。石垣とか多少の遺構は対岸からも見えていたけど自分の踏破能力を考えればこの先に踏み込むのは蛮勇。橋を踏みしめられたことで良しとする。

それでも久しぶりに地上に姿を現した橋を往復。

橋の上流部には道の跡が少しの間確認でき、駒止も残っている。短く岬上の地形が3つ続き特徴的な地形ですね。後で分かったことだがここには天狗社というお社が鎮座していたらしい。

道の跡はまもなくなだらかな地形に紛れ判然としなくなる。もちろんこの先にも道路(水没当時は県道だった)は通じていたので、辿れば辿れるんだろうが今回は橋を踏みしめることが目的だったのでこれ以上の探索はせずに撤退。当時の詳細な地図でもあれば探索もしやすいが、探索当時も、そして今も手元にはないので、道がどこを通っていたのか正確に分からないしね。
ともあれ、60年前に沈んだ橋に再び触れることができたという、得がたい経験をさせてもらいました。
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