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随筆紹介  胸の内   文科系

2023年10月28日 00時57分45秒 | 文芸作品
随筆紹介 胸の内  S.Yさんの作品です

 ずうっとどれくらいの時が経ったのかも忘れてピアノの音色を聴いていた。ぼんやりとショパンの曲だろうなと感じながら。大きな一枚ガラス窓の外は、パンジーやビオラなど早々と春の花の苗が植えられて風に揺れている。秋の日暮れが近づいていた。
 ここは地方の大きな病院で、だだっ広い受付ロビーの端にクリスタルのグランドピアノが置かれて自動でピアノ曲が奏でられている。私は長いことロビーの椅子に腰掛けたままでいた。
 年老いても元気だった母が、ひと月前にこの病院に搬送されていた。今日は私ひとりで見舞ったあとだった。

 ひと月前。義妹から母が脳梗塞で老人ホームから緊急搬送されたと連絡が来た。
じきに義姉からも連絡が入った。「脳がダメージを受けて、目が見えず、口もきけないし、半身不随で動けない。なんにもわからないし、肺炎も起こしている」会いに行っても無駄だと言わんばかりの義姉の口ぶりにショックを受けた。続いて兄からも電話があり、葬儀の相談と遺影の写真を探しておけという命令であった。だが、辛くてアルバムを開けられない。開いても涙で見えない。
 会いに行っても無駄だと言われたのを無視して、夫と直ぐに病院へ向かった。親族のみ短時間の面会許可が出ている。
 いくつもの点滴の管につながれ、母は目を閉じてベッドに横たわっていた。母の手を取り「私だよ。わかる? わかったら手を握って!」私は自分の名前を何度も言うと、母は強く、ものすごく強く握り返してきた。「えっ! わかるんだね!」夫も同じことをして話しかけ「おばあちゃんは完全にこっちの言うことはわかっているよ」私たちは母の頭は正常だと確信した。私の顔を見て言いたいことがいっぱいあるらしく半身を起こして一生懸命に話す。だが呂律が怪しいので、喚いているようにしか見えないのが哀しい。
 兄夫婦は母が入居していた有料老人ホームを直ちに解約した。同時に家具や衣類、本や日用品など全て実家へ運び込み、ホームで七年間暮らした母の部屋は瞬時に空になったそうだ。というのは、兄からの報告はなく、私が老人施設に電話で問い合わせてわかったことだが、母はこの先何処へいくことになるのだろうか。
 兄たちが「どこまで世話をかけるんだ! いい加減にくたばってくれ」そう母のことを口にしていたのは知っていたが、単なる腹立ちまぎれに言っていたのか、母に対してのふたりの本音がどこまでなのか……。
 しかし母は驚異的に回復してきた。目もしっかり見えるし、文章も読める。肺炎も克服した。頻繁に見舞ってくれる義妹の話では、点滴もすべて外されて流動食も摂れるようになってきたとか。車椅子で院内の言語と歩行のリハビリにも通い始めたという。
 九十九歳という年齢で、ここまでの回復をみせるのは珍しいと病院側にも驚かれていた。ただ、言葉が出ないのが何とももどかしい。あんなにお喋り好きだった母との会話ができないのは私も辛い。
「おばあちゃんがこんなに回復するとは、お義兄さんたちも意外だったでしょうね」弟の嫁の義妹が言う。心やさしい彼女はいつも母を気遣ってくれていた。
「そうだね。葬儀の準備にとりかかっていたぐらいだから、計算が狂ったというところかなあ」、私は兄夫婦の非情さに日頃から反感を抱いている。
 “こうなったら、母さん。兄たちがどう思おうと、行けるとこまで生き抜いてやって!”
 私は心の中で叫んでいた。

 入院してひと月が経過。今日はひとりで母に会いに来ていた。電車やバスを乗り継いで片道二時間近く、ひとりだと遠くて長く感じる。面会はたったの十五分。
これまでの面会は夫か娘、義妹と一緒であった。母は良く笑うようになった。笑い声は脳梗塞で倒れる前と変わらない。ひょっとして以前のように喋り始めるのではと期待してしまうほどに。
 病室に入ると母は目を覚ましていた。私の顔を動く方の左手で何度も撫でる。そして左手の指を動かして何かを訴えてくる。必死なのが伝わる。もどかしいので私は「母さんの言いたいことを書いてみて」とスケッチブックとペンを握らせて手を添えたが、書くことはできなかった。十五分の面会を大幅に過ぎ、四十分ほど母の傍にいた。
 この日は敬老の日のプレゼント用に用意してあったニットのベストを持参した。それをしっかりと母は胸に抱えて、「また来るね」と言う私にバイバイと手を振ってくれた。今日の母は今までとは違っていた。一度も笑わなかった。何を言いたかったのだろう? 私はロビーの椅子に座って考えていた。ピアノ曲のやさしい音色が次第に切なくなってくる。
 母は何を言いたかったのかと自問しながら、私はイヤな想像をしていた。話すことも歩くこともできず、食べるのも今までのようにはいかない。来る日も来る日も、天井を見て寝ているだけ。母は生きているのが辛いのでは? なぜ脳梗塞で倒れた時にそのまま死なせてくれなかったのかと思っているのでは?
 元気なときでさえ、夜眠るとき、もう十分生きたからこのまま朝が来ないで、お迎えが来てほしいと願っていた母。本心はわからないが、そんなことを想像してしまう。
 夕暮れが迫り、バスの乗車時間が来て私は椅子から立ち上がった。ロビーの大きな窓ガラスに私の顔が映った。母と似ていてドキッとした。
「母さん……、神様がくれた寿命だから、もう少しだけ生きてみようよ」そっと呟いてみた。


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