地に墜ちた芥川賞 井戸 児石さんの作品です
明日発表の芥川賞の候補作品の一つが剽窃(ひょうせつ)問題で揺れている。北条裕子の「美しい顔」が、群像新人賞をとり、さらに芥川賞の候補作に躍り出た。ところが剽窃だとネットで騒がれると、群像を出版した講談社は、出典の掲載を忘れたに過ぎず、剽窃には当たらず、この小説の素晴らしさの根底を揺るがさないとし、異常とも言える無料公開を開始した。白熱した事態となった。
剽窃とは、他人の文章、語句、説を盗用することである。盗用された作品「遺体」を私は購入した。ネットに公開された美しい顔の最初の部分を読み始めたが、十日後に突然、予告なく講談社は中断してしまい、剽窃の詳細を自分では調べられない。仕方なく、毎日新聞他に頼った。
①遺体の『その横に名前、性別、身長、体重、所持品、手術痕などわかっている限りの情報が書かれているのだ』を、美しい顔では「その横に名前、身長、体重、所持品、手術跡といったことがある。今現在わかっている限りの情報だという」
②遺体の『床に敷かれたブルーシートには、二十体以上の遺体が蓑虫のように毛布にくるまれ一列に並んでいた。』『うっすらと潮と下水のまじった悪臭が漂う』を美しい顔では「すべてが大きなミノ虫みたいになってごろごろしているのだけれど、すべてがピタッと静止して一列にきれいに並んでいる。うっすらと潮と下水のまじった悪臭が流れてくる。」
③遺体の『今日までに見つかっている遺体はこれがすべてです。ご家族と思われる特徴のある方がいれば何体でもいいので番号を控えて教えてください。』を美しい顔では「今日までに見つかっている遺体はこれがすべてです。お母さんと思われる特徴の番号があればみんなここに。あとで実際に目で確認いただきますから」
④遺体の『毛布の端や、納体袋のチャックからねじれたいくつかの手足が突き出している』を、美しい顔では「毛布の隅や納体袋のチャックから、ねじれたいくつかの手足が突き出していた」
⑤遺体の『死亡者リストに記載されている特徴にはかなり違いがあった。すでに名前や住所まで明かになっているものもあれば、波の勢いにもまれて傷んでいるために「年齢二十歳~四十歳」「性別不明」「衣服なし」としか情報が載っていないものもある』を、美しい顔では「壁の遺体リストに記載されている特徴にはかなりの違いがあった。すでに身元が特定され、住所や勤め先の会社名まで記してある番号もあれば〈性別不明〉〈所持品・衣服なし〉としか情報が載っていないものもある。〈年齢三十歳~六十歳〉とものすごい幅のあるものもある」
⑥3・11慟哭の記録の『なぜ警察も自衛隊も助けに来てくれないのか。日本はどうなってしまったんだろうとおもいました。』を、美しい顔では「なぜ警察も自衛隊も助けに来てくれない。日本はどうなってしまったんだ」
この①②③④⑤⑥からすれば、明かな剽窃である。小説とは、作者が自由な方法とスタイルで、人間や社会を描く様式。フィクションは散文で作成された虚構の物語として定義される。(wikipediaより)
だとすれば、小説家は自分の文章、語句、言葉で語るべきである。他人の書物を参考にしても、十分に消化し、自分の言葉とすべきであり、北条は軽薄にも脱線し、剽窃におよんでいる。そのことを本人も、講談社も素直に認めればいい話し。それができない。
さて、ここまでくると芥川賞の選考委員は、単に彼女の作品を落選させただけでは事がすまない。候補にした総括、そもそも小説とは何か、彼女の犯した行為は何が問題か、再発防止はどうするのか、を個別論と普遍的な全体論とを語る絶好のチャンスであり、またそうすべきだと私は思う。今の騒ぎを解決する指針を投げかけるべき。これをせず、単に芥川賞を選ぶだけの選考委員であれば、まさに失格ではないだろうか。お手並み拝見としよう。明日の夕方には判明する。
選考委員は小川洋子、奥泉光、川上弘美、島田雅彦、高樹のぶ子、堀江敏幸、宮本輝、山田詠美、吉田修一の九人。論客の村上龍が今回から抜けて、果たして、日本を代表するコメントを出せる力量があるか、はなはだ不安である。私の仮説では、「選考委員はこういった文芸問題には対処する力量が乏しく、剽窃の批判声明は出ない。彼らに替わり、週刊紙が大いに活躍するのでは」。小説家ではない週刊紙の記者、ルポライターが、経験豊かな知見をベースに、批判記事を積極的に掲載するだろう。
日大アメフト部問題での大学トップのごとく、実際は力量のない、過去に運よく賞を得た選考委員の皆さんではないか。もっと根は深く、日本のいわゆる一流作家は、時代の先陣を切れないどころか、自分たちに関係する問題さえ解決できないのではないか、まさにことなかれの小心者。ますますインテリ、学者のスケールが小さくなってきている事例にならなければいいが。
一日が過ぎ、芥川賞の発表の日を迎えた。美しい顔は勿論落選した。島田選考委員は「法的には盗用に当たらないとの意見で一致したが、自分なりのフィクションに昇華する努力が足りなかったのでないかとの意見もでた」と会見した。待てよ。法的にも、文学的にも問題があるのではないか。単なる努力不足というよりは、文学的には犯罪であり、文学を志す人は、このようなことがないようにと警鐘を鳴らすべき。これでは、盗作を上手くやれ、そうすれば芥川賞も取れるんだと、上手な剽窃を推奨しているようなもの。肌寒い。出版会社の講談社らに迎合し、忖度する選考委員の力量の不足こそ問題ではあるまいか。正義は次々に消えていく。週刊紙の反撃を期待する。
明日発表の芥川賞の候補作品の一つが剽窃(ひょうせつ)問題で揺れている。北条裕子の「美しい顔」が、群像新人賞をとり、さらに芥川賞の候補作に躍り出た。ところが剽窃だとネットで騒がれると、群像を出版した講談社は、出典の掲載を忘れたに過ぎず、剽窃には当たらず、この小説の素晴らしさの根底を揺るがさないとし、異常とも言える無料公開を開始した。白熱した事態となった。
剽窃とは、他人の文章、語句、説を盗用することである。盗用された作品「遺体」を私は購入した。ネットに公開された美しい顔の最初の部分を読み始めたが、十日後に突然、予告なく講談社は中断してしまい、剽窃の詳細を自分では調べられない。仕方なく、毎日新聞他に頼った。
①遺体の『その横に名前、性別、身長、体重、所持品、手術痕などわかっている限りの情報が書かれているのだ』を、美しい顔では「その横に名前、身長、体重、所持品、手術跡といったことがある。今現在わかっている限りの情報だという」
②遺体の『床に敷かれたブルーシートには、二十体以上の遺体が蓑虫のように毛布にくるまれ一列に並んでいた。』『うっすらと潮と下水のまじった悪臭が漂う』を美しい顔では「すべてが大きなミノ虫みたいになってごろごろしているのだけれど、すべてがピタッと静止して一列にきれいに並んでいる。うっすらと潮と下水のまじった悪臭が流れてくる。」
③遺体の『今日までに見つかっている遺体はこれがすべてです。ご家族と思われる特徴のある方がいれば何体でもいいので番号を控えて教えてください。』を美しい顔では「今日までに見つかっている遺体はこれがすべてです。お母さんと思われる特徴の番号があればみんなここに。あとで実際に目で確認いただきますから」
④遺体の『毛布の端や、納体袋のチャックからねじれたいくつかの手足が突き出している』を、美しい顔では「毛布の隅や納体袋のチャックから、ねじれたいくつかの手足が突き出していた」
⑤遺体の『死亡者リストに記載されている特徴にはかなり違いがあった。すでに名前や住所まで明かになっているものもあれば、波の勢いにもまれて傷んでいるために「年齢二十歳~四十歳」「性別不明」「衣服なし」としか情報が載っていないものもある』を、美しい顔では「壁の遺体リストに記載されている特徴にはかなりの違いがあった。すでに身元が特定され、住所や勤め先の会社名まで記してある番号もあれば〈性別不明〉〈所持品・衣服なし〉としか情報が載っていないものもある。〈年齢三十歳~六十歳〉とものすごい幅のあるものもある」
⑥3・11慟哭の記録の『なぜ警察も自衛隊も助けに来てくれないのか。日本はどうなってしまったんだろうとおもいました。』を、美しい顔では「なぜ警察も自衛隊も助けに来てくれない。日本はどうなってしまったんだ」
この①②③④⑤⑥からすれば、明かな剽窃である。小説とは、作者が自由な方法とスタイルで、人間や社会を描く様式。フィクションは散文で作成された虚構の物語として定義される。(wikipediaより)
だとすれば、小説家は自分の文章、語句、言葉で語るべきである。他人の書物を参考にしても、十分に消化し、自分の言葉とすべきであり、北条は軽薄にも脱線し、剽窃におよんでいる。そのことを本人も、講談社も素直に認めればいい話し。それができない。
さて、ここまでくると芥川賞の選考委員は、単に彼女の作品を落選させただけでは事がすまない。候補にした総括、そもそも小説とは何か、彼女の犯した行為は何が問題か、再発防止はどうするのか、を個別論と普遍的な全体論とを語る絶好のチャンスであり、またそうすべきだと私は思う。今の騒ぎを解決する指針を投げかけるべき。これをせず、単に芥川賞を選ぶだけの選考委員であれば、まさに失格ではないだろうか。お手並み拝見としよう。明日の夕方には判明する。
選考委員は小川洋子、奥泉光、川上弘美、島田雅彦、高樹のぶ子、堀江敏幸、宮本輝、山田詠美、吉田修一の九人。論客の村上龍が今回から抜けて、果たして、日本を代表するコメントを出せる力量があるか、はなはだ不安である。私の仮説では、「選考委員はこういった文芸問題には対処する力量が乏しく、剽窃の批判声明は出ない。彼らに替わり、週刊紙が大いに活躍するのでは」。小説家ではない週刊紙の記者、ルポライターが、経験豊かな知見をベースに、批判記事を積極的に掲載するだろう。
日大アメフト部問題での大学トップのごとく、実際は力量のない、過去に運よく賞を得た選考委員の皆さんではないか。もっと根は深く、日本のいわゆる一流作家は、時代の先陣を切れないどころか、自分たちに関係する問題さえ解決できないのではないか、まさにことなかれの小心者。ますますインテリ、学者のスケールが小さくなってきている事例にならなければいいが。
一日が過ぎ、芥川賞の発表の日を迎えた。美しい顔は勿論落選した。島田選考委員は「法的には盗用に当たらないとの意見で一致したが、自分なりのフィクションに昇華する努力が足りなかったのでないかとの意見もでた」と会見した。待てよ。法的にも、文学的にも問題があるのではないか。単なる努力不足というよりは、文学的には犯罪であり、文学を志す人は、このようなことがないようにと警鐘を鳴らすべき。これでは、盗作を上手くやれ、そうすれば芥川賞も取れるんだと、上手な剽窃を推奨しているようなもの。肌寒い。出版会社の講談社らに迎合し、忖度する選考委員の力量の不足こそ問題ではあるまいか。正義は次々に消えていく。週刊紙の反撃を期待する。
『芥川賞? もうダメでしょ!』
こんな酷いことをやっても、筆者が言う週刊誌からの反撃もなかったようだし。つまり、全出版社を島田論理の線で懐柔したのか、週刊誌が取り上げる価値ももう芥川賞にはなくなったのか?
島田選考委員のこの選考の辞は一体、どういう読み方、思考、判断をしているのか。
『法的には盗用に当たらないとの意見で一致したが、自分なりのフィクションに昇華する努力が足りなかったのでないかとの意見もでた』
何が、どこが「盗用に当たらないとの意見で一致した」となれたのだろう。エントリーの①~⑥を読めば、誰でも剽窃と読むはずだからである。剽窃は犯罪である。その作品を褒める連中がまた後を絶たないと来る。そんなのは、こう形容すればよい。
「1000万円泥棒をして、500万円寄付したら、そのことが褒められるのか?」
こんな「盗用に当たらない」というこの強弁は一体どこから出て来るんだ??
世の中一般の倫理的退廃を受けたような腐敗した弁護論としか思えないのである。出版不況、活字離れ、文学力の低下、小説離れ、そんな貧乏根性の吹きだまりというようにしか感じない。それも、ここに極まれりという印象、判断をした。
芥川賞ももう完全に終わった。暖簾で食っていく文章世界を押し通そうというのではなー??
サヨの、通常営業。
大学生らの学位論文の剽窃が社会の大問題になっているが、この芥川賞選考総評を詳しく調べたら、学位論文の剽窃を世に広めるようなものだろう。これが剽窃でなかったら、何を剽窃というのか。現に、原作の編集者だったかが、こう語っているほどである。
「引用文献を末尾に書くのを忘れただけ」
忘れたかどうかは他人には分からない。でも、「引用明記を忘れた」ということこそ客観的、社会的には完全な剽窃になるのである。語るに落ちたというような話であって、ただ馬鹿馬鹿しい。
出版に物を書くことなどもう、罪を重ねるような物だ。食えない世界は、食えない人が借金踏み倒しなど不義理を重ねて行くようなもので、どんどん終わっていくと言うことだろう。
ただし出版界は今でも玉石混淆。玉がまだまだ無数にある。が、それを読める人が少なくなっていると痛感するのである。なんせ、大学卒業論文で剽窃が当たり前になっているような時だである。
文ちゃん論や、文ちゃん読書感想文よりは、多くの人に、深く考察されているんだろうに・・
それを、気に入った結果じゃないからと言って、「地に落ちたニダー!」は、「流石、文ちゃん」と、褒めてあげるよ。