悲 鳴 Ⅰ S・Yさんの作品です
ひょんなことからまた犬を飼い始めた。
以前飼っていた犬たちが亡くなって二年、もう飼うまいと決めていたはずだったのに。寂しくはあるが、犬の面倒な世話がない生活、それにも慣れてきていたというのにだ。
始まりは県外にある動物愛護団体に行った時だった。近くに犬のケージを積んだトラックが停まっていた。荷台に、臭くて汚れた小さな黒い犬がうずくまっていた。まだ愛護団体も手をつけてない、たぶん処分される犬たちのうちの一匹だ。まったく元気がない。見過ごすことができなかった。
後々、衝動的に連れ帰ったその犬を見ながら「なんてことだ!」幾度自分にも、社会にも舌打ちしたことか。虐待を受けていたその犬は人間を信用していない。脅えきっていて目も合わさず、体中が震えている。心を閉ざしたまま、わが家のリビングのケージ(大型犬用なのでかなり大きい)の隅っこで這いつくばっているだけ。食欲もない。
「ごめんね、環境が変わったから怖いよね。大丈夫だよ。でも、身体を洗わせてね」
とにかく臭いのをなんとかしたい。終始震えてはいたがシャンプーはなんとかできた。しかし、耳はまるで粘土を詰めたように耳垢でいっぱい。しかも片耳は折れている。爪も猛禽類のように伸びている。足裏は毛で覆われて肉球が見えない。これでは歩くこともままならない。
犬の爪には血管が通い、爪を切らないと血管も伸びる。下手に切ると血管をも切ってしまう。病院に連れて行きたいが、脅えているので大丈夫だろうかと不安が先に立つ。
この雌犬には名前がなかった。年齢もわからない。ブリーダーに繁殖用に飼われていたと聞いた。長年にわたり何度も何度も子どもを産まされたあげく、しだいに産む数が減ってきたので不要になったのだとか。繁殖の時期だけはまともな餌を与えられたが、普段はろくに食べさせても貰えずに、狭い劣悪な環境に閉じ込められていたという。名前の代わりに番号が付けてあったと、トラックの運転手は言っていた。
うちに来て三日目、やはり食べないので夫と動物病院へ連れて行くことにした。ぶるぶると脅える犬に「大丈夫だよ、大丈夫」と車の中で背中を撫で続ける。ほんとは抱きしめてやりたいのだが、抱こうとすると猛烈に暴れるのだ。抱かれることに異常なほどの恐怖心を持っている。
評判のいい病院を選んだ。男の人を怖がるので担当は女医さんになった。「この爪では歩けないよね」やはり血管が伸びきっていたので、医師は止血しながら爪を切り、足裏の毛をバリカンで刈った。肉球が出てきたが、後ろ足指を骨折していた。耳掃除だけで一時間、炎症を起こしている。歯槽膿漏で歯もボロボロ、食べられないはずだ。歯石除去と抜歯をしなければならない。入院になるそうだが、予約が二カ月先までとれないので、ドッグフードは柔らかいものや缶詰にすることにした。
「ペットショップがあるのは日本だけですよ。生き物を商品のように店頭販売するなんてねえ」。治療をしながら医師が言う。だから悪質なブリーダーが商売にしてしまう。店頭で高額で売られている犬は当然売れ残る。値下げして売る場合もあるが、大半は殺処分される。それも子犬はほとんどが餓死させられるそうだ。命の扱いが間違っている。この国は法治国家で文明も進んでいるのに、なぜこんなに野蛮なのだ。他国のように、需要があってから注文に応じて繁殖させるという法を早急に作らねばならない。
私は怒り心頭だ。
「ところで名前は付けましたか?」医師はカルテを作らねばならない。
「あっ、『すず』にします」
すずは、ほんの少しずつ私たちに慣れて来た。うちに来るまで閉じ込められていたので、外の世界を知らない。名前を呼ばれたこともない。尾は根元から切断されていたのでしっぽを振ることもなかった。何もかもが初めてで震えてばかりだったが、一カ月もすると、夫と散歩ができるようになった。どうやら散歩は気に入ったようだが、帰ってくると自分のケージにまっしぐらで、相変わらずケージに入ったまま出てこない。
ある時、すずがケージに向かいながらテーブルの下で立ち止まった。同時にたまたま夫が何か喋りながらテーブルに近付いてきた。と、すずがヒィーというようなかん高い声を上げると海老のように背を丸めて走り出し、ソファや椅子にぶつかりながらケージに飛び込んだ。そのままワナワナと震えている。唖然として私と夫は顔を見合わせた。言葉が出てこない。今の今まで夫と散歩に行っていたのに、なぜ急に夫に驚いたのか? おそらくテーブルの下からは夫の腰から下しか見えず、太い男の声がしたので驚いたのだろう。恐怖のトラウマがあるのだ。
いったい何があったのだ? 犬が悲鳴をあげるなんて、私ははじめて聞いた。すずは今までどんな怖い思いをしてきたのか? 胸を突かれた。
守ってやろう。なんとしてもこれから先は守ってやろう。
すずと暮らし始めて二カ月になるが、あの時の悲鳴以外、声を開いたことがない。一度も吠えない。長年の恐怖生活で声も失ったのだろうか。
(もう一回続く)
ひょんなことからまた犬を飼い始めた。
以前飼っていた犬たちが亡くなって二年、もう飼うまいと決めていたはずだったのに。寂しくはあるが、犬の面倒な世話がない生活、それにも慣れてきていたというのにだ。
始まりは県外にある動物愛護団体に行った時だった。近くに犬のケージを積んだトラックが停まっていた。荷台に、臭くて汚れた小さな黒い犬がうずくまっていた。まだ愛護団体も手をつけてない、たぶん処分される犬たちのうちの一匹だ。まったく元気がない。見過ごすことができなかった。
後々、衝動的に連れ帰ったその犬を見ながら「なんてことだ!」幾度自分にも、社会にも舌打ちしたことか。虐待を受けていたその犬は人間を信用していない。脅えきっていて目も合わさず、体中が震えている。心を閉ざしたまま、わが家のリビングのケージ(大型犬用なのでかなり大きい)の隅っこで這いつくばっているだけ。食欲もない。
「ごめんね、環境が変わったから怖いよね。大丈夫だよ。でも、身体を洗わせてね」
とにかく臭いのをなんとかしたい。終始震えてはいたがシャンプーはなんとかできた。しかし、耳はまるで粘土を詰めたように耳垢でいっぱい。しかも片耳は折れている。爪も猛禽類のように伸びている。足裏は毛で覆われて肉球が見えない。これでは歩くこともままならない。
犬の爪には血管が通い、爪を切らないと血管も伸びる。下手に切ると血管をも切ってしまう。病院に連れて行きたいが、脅えているので大丈夫だろうかと不安が先に立つ。
この雌犬には名前がなかった。年齢もわからない。ブリーダーに繁殖用に飼われていたと聞いた。長年にわたり何度も何度も子どもを産まされたあげく、しだいに産む数が減ってきたので不要になったのだとか。繁殖の時期だけはまともな餌を与えられたが、普段はろくに食べさせても貰えずに、狭い劣悪な環境に閉じ込められていたという。名前の代わりに番号が付けてあったと、トラックの運転手は言っていた。
うちに来て三日目、やはり食べないので夫と動物病院へ連れて行くことにした。ぶるぶると脅える犬に「大丈夫だよ、大丈夫」と車の中で背中を撫で続ける。ほんとは抱きしめてやりたいのだが、抱こうとすると猛烈に暴れるのだ。抱かれることに異常なほどの恐怖心を持っている。
評判のいい病院を選んだ。男の人を怖がるので担当は女医さんになった。「この爪では歩けないよね」やはり血管が伸びきっていたので、医師は止血しながら爪を切り、足裏の毛をバリカンで刈った。肉球が出てきたが、後ろ足指を骨折していた。耳掃除だけで一時間、炎症を起こしている。歯槽膿漏で歯もボロボロ、食べられないはずだ。歯石除去と抜歯をしなければならない。入院になるそうだが、予約が二カ月先までとれないので、ドッグフードは柔らかいものや缶詰にすることにした。
「ペットショップがあるのは日本だけですよ。生き物を商品のように店頭販売するなんてねえ」。治療をしながら医師が言う。だから悪質なブリーダーが商売にしてしまう。店頭で高額で売られている犬は当然売れ残る。値下げして売る場合もあるが、大半は殺処分される。それも子犬はほとんどが餓死させられるそうだ。命の扱いが間違っている。この国は法治国家で文明も進んでいるのに、なぜこんなに野蛮なのだ。他国のように、需要があってから注文に応じて繁殖させるという法を早急に作らねばならない。
私は怒り心頭だ。
「ところで名前は付けましたか?」医師はカルテを作らねばならない。
「あっ、『すず』にします」
すずは、ほんの少しずつ私たちに慣れて来た。うちに来るまで閉じ込められていたので、外の世界を知らない。名前を呼ばれたこともない。尾は根元から切断されていたのでしっぽを振ることもなかった。何もかもが初めてで震えてばかりだったが、一カ月もすると、夫と散歩ができるようになった。どうやら散歩は気に入ったようだが、帰ってくると自分のケージにまっしぐらで、相変わらずケージに入ったまま出てこない。
ある時、すずがケージに向かいながらテーブルの下で立ち止まった。同時にたまたま夫が何か喋りながらテーブルに近付いてきた。と、すずがヒィーというようなかん高い声を上げると海老のように背を丸めて走り出し、ソファや椅子にぶつかりながらケージに飛び込んだ。そのままワナワナと震えている。唖然として私と夫は顔を見合わせた。言葉が出てこない。今の今まで夫と散歩に行っていたのに、なぜ急に夫に驚いたのか? おそらくテーブルの下からは夫の腰から下しか見えず、太い男の声がしたので驚いたのだろう。恐怖のトラウマがあるのだ。
いったい何があったのだ? 犬が悲鳴をあげるなんて、私ははじめて聞いた。すずは今までどんな怖い思いをしてきたのか? 胸を突かれた。
守ってやろう。なんとしてもこれから先は守ってやろう。
すずと暮らし始めて二カ月になるが、あの時の悲鳴以外、声を開いたことがない。一度も吠えない。長年の恐怖生活で声も失ったのだろうか。
(もう一回続く)