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東亜日報より  らくせき・愛知自民を落とそう

2016年02月25日 09時30分34秒 | Weblog
中国政府が中朝貿易の半分を停止すると、官営「環球時報」が23日付で報じた。特に同紙は、中朝貿易の42.3%を占める石炭取引を来月から停止すると時期まで明らかにした。環球時報は共産党機関紙「人民日報」の姉妹紙で、発行部数は240万部にのぼる。

環球時報は記事で、中朝国境地域の遼寧省丹東のある貿易業者の話を引用し、「3月1日から北朝鮮との石炭貿易が停止になる」とし、「原因は、北朝鮮の衛星発射に対する金融制裁の可能性がある」と伝えた。また、「商務部や海関総署が命令を下し、遼寧省がすでに通知を受けたと認識している。中国と北朝鮮の貿易の50%が停止になった」とも話した。

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僕の世界観に関わって(6) 人間の文化活動  文科系

2016年02月25日 08時58分21秒 | Weblog
 今回は、内容的に前回の「昭和人論」の続きのようなもの。昭和人の(特に男性の)特徴は、まず働くこと。次いで、出来るだけお金を稼いで、そのお金で車、ブランド物など何か物を所有するのを自己実現と見るようなところがあったこと。そして余暇があてられる文化活動については、テレビなど大衆商業文化の消費者になっている場合が多かったと言えないでしょうか。文化などの鑑賞というのは、人間の文化活動とはちょっと違う気がするという意味です。
 そして、以上のようなことが今の若者に甚大な影響をもたらしていると、僕は考えてきました。人生にそもそも(人間らしい)希望が持てるかというようなことも含めてのことです。

 以下は、08年に書いた拙エントリーの改作・再掲です。


『 人間にとっての文化「活動」とは  2008年08月15日 | 文化一般

 昨日の僕の「サッカー物投稿」へのまもるさんのコメントにお応えした物を一部手直しして、投稿に格上げします。まもるさんの「子どもとスポーツ」の観点を大事な物と捉えたからです。

 まもるさんへ
 子どもとスポーツ。「やるスポーツ」人気の多様化・分散化と、全般的なその人気低下。「やるスポーツ」と「見るスポーツ」と。このような社会問題を網羅してなかなか面白いスポーツ・コメントでした。あとこれに、「やるスポーツ」としての「生涯スポーツ」が入ればもっと面白かったけどな、などと読んでいたものです。

 絵画、音楽、料理と酒など、人間が歴史的に積み上げてきた五感の自然な楽しみに、運動感覚の楽しみというスポーツや文字文化なども加えて、人間の文化活動論議がここで盛んになることを願ってきました。それらを「見、聴き、味わう」だけでなく、それらを「やる」意味をこそ強調してです。

 文化活動を「やる」がない、「見、聴き、味わう」は人間性の大事なところで「本当の主体性」が欠けてしまい、そういう「人格」は今やテレビ、映画、マスコミ、「オタク商売」などの単なる消費者になっているのではないでしょうか。文化、「感覚の好み」について、主体性が非常に乏しいと言えないでしょうか。「無意識のうちの主体性無し」も含めて、ですね。

 体制的文化に抵抗している積もりの人々でも、自分の文化を体現していなければ、体制的文化と感性の所ではあまり変わっていないとも言いたいです。さる日本左翼政党の長老、重鎮のH・T氏が、最も身近なその連れ合いさんが証言したように、テレビ時代劇の猛烈なファンであると最近何かで読んだ覚えがあります。僕はテレビ時代劇ほど馬鹿馬鹿しいものはないとみてきました。身分制社会の人間模様が、「建前・権利としては平等な」今の人間社会と同じ感覚で作れるわけがないじゃありませんか。テレビ時代劇とは、その時代に即したリアリティーがないという意味で、並みのSF物や推理小説以下の単なる「娯楽」ということです。このように解釈しなければ、日本近代文学の最大テーマの一つが「封建的周囲と新しい自我との葛藤」であったという意味さえ分からなくなるはずです。

 以上の文化に関連して政治とは、貧困、困難の除去というだけではなく、それぞれかけがえのない人生を価値あるものとする役割もあると、僕は考えてきました。国家が社会教育を含めて教育に携わるとは、そういうことでしょう。念のために言えば、これは教育の国家統制とは違うこと。現に、日々の義務教育でも芸術文化のカリキュラムが存在するという、そのことに関わることです。

 人生に価値ありと子どもや若者たちに示せないで生活困難の除去のみを説いても、極論するならば人生半分を語っているに過ぎないと思います。そんな大人を見て子どもが、「それらしい人生への期待感」のようなものを育んでいけるわけはないとも考えてきました。「俺自身は楽しみらしい楽しみを持ってはいないけど、俺の生き甲斐とは世の人々の困難を除くことである」などと、良い人生の人が「その程度」では、その子どもらが人生というものへのそれらしい期待感を育めるわけがないと考えてきました。ちなみに、その程度の「大望」では、国家・社会・世界の政治も変えられないと思います。

 日本の中産階級の親たちは右も左も、何もない戦後の貧しさから始めて、働きに働き(働かされに働かされて)、世界で最も多い個人貯蓄や「狭いながらも楽しい我が『家』」を残してきました。その代償が自分の人生に希望を創れないニートやパラサイトを大量に生み出しているという側面はなかったでしょうか。』
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