こんな投稿もあってよいだろうと思いついたので、書く。僕が所属する同人誌活動のことだ。ほかの人たちのこういうのも聞きたいという思いをこめている。
今は売れない老プロ作家の文章講座から出発して、彼が主宰で発足した会である。小説や随筆を書き、発表し、合評しあい、学びあう場だ。会員は20名ほどで、女性が多く、平均年齢は60歳ちょっと前という感じ。月例会への出席は平均12名ほどか。年1回の出版のほかに、月1回手作りの小冊子を出している。1頁700字ほど、20ページ弱のこの小冊子はこの1月で194号になるから、12ヶ月で割ると約16年、同人誌の号数とほぼ合致する。つまりほとんど欠刊がないという勤勉さが示されている。僕が知っている近年には、欠刊の記憶は皆無である。こんな勤勉さは、県内にも無数にあるお仲間の中でも極めて珍しいものであろうと自負している。
月例回の内容は、こんなふうだ。同人誌が出た後3回ほどは、その作品一つずつの合評。あとは小冊子作品全ての合評を1回につき1.5冊ほどの割合でやっていく。小冊子には月平均10人ほどの人が書いてくるが、ここへの常連さんは、確かに腕を上げている。モチーフ、着想、構成、表現、いろんな前進が見られる。そんな常連さんの1頁ものの1つを転載して、結びに代えたい。
あの世離婚 S.Y
熟年離婚に成田離婚は聞いていたが、あの世離婚まであるのを知って笑えた。
文字通り、死んでまでも一緒にはいたくない。あの世では他人になりたいということで、要は一緒のお墓に入りたくないということらしい。理由は様々。骨になっても夫やその身内との同居は厭なのだろう。こうなると理屈ではない。骨に魂や感情があるのかと言う問題ではなくなってくる。
笑いごとではない。私も死んだのちは夫のお墓に入らないと宣言している。夫婦関係うんぬんではなくて、ただ夫の元妻がお先に入っているという理由からだ。夫と一緒になってからの二十数年間、ずうっと長男の嫁というだけで法要にお施餓鬼、お墓の管理一切を姑から任されてきた。というより押し付けられてきた。
私は死は「無」であり、歌の文句じゃないが死後は千の風にでもなればいいと思っている。近しい人の胸の内にだけ、つかの間の「有」でいいのだ。死後、いつまでも存在があるような戒名もお位牌も不要、法要なども気恥ずかしい。むしろさっさと忘れ去られたい。
だが生活している現在、夫サイドのお墓に入る予定がなくて、あの世離婚とやらになるのに、夫の身内の供養だけはしている。複雑だ。私は矛盾だらけで生きている。
以下は僕、文科系のこのブログへの補足だが、
こういった作品からは、合評の話し合いがおおいににぎわうというのは、言うまでもないだろう。女性たちからは「潔い死に方だねー」とか、ある男性からは「前妻、後妻、戦後ちょっとなどには後後妻までが入っているお墓もあるよ」との「助言」までが飛び出てきたものだ。この方がその助言に興味を示されなかったところを見ると、はて、「死への姿勢が『潔い』と言うだけの事だろうか」と、こんな行間も僕にはうかがわれたりして、考え込んでいたものだ。こういう「深刻な?」会話が老若男女いろんなメンバーで毎月交わされているというような場所は、大都会ではいまどき確かに珍しいだろうと思うが、どうだろうか。
今は売れない老プロ作家の文章講座から出発して、彼が主宰で発足した会である。小説や随筆を書き、発表し、合評しあい、学びあう場だ。会員は20名ほどで、女性が多く、平均年齢は60歳ちょっと前という感じ。月例会への出席は平均12名ほどか。年1回の出版のほかに、月1回手作りの小冊子を出している。1頁700字ほど、20ページ弱のこの小冊子はこの1月で194号になるから、12ヶ月で割ると約16年、同人誌の号数とほぼ合致する。つまりほとんど欠刊がないという勤勉さが示されている。僕が知っている近年には、欠刊の記憶は皆無である。こんな勤勉さは、県内にも無数にあるお仲間の中でも極めて珍しいものであろうと自負している。
月例回の内容は、こんなふうだ。同人誌が出た後3回ほどは、その作品一つずつの合評。あとは小冊子作品全ての合評を1回につき1.5冊ほどの割合でやっていく。小冊子には月平均10人ほどの人が書いてくるが、ここへの常連さんは、確かに腕を上げている。モチーフ、着想、構成、表現、いろんな前進が見られる。そんな常連さんの1頁ものの1つを転載して、結びに代えたい。
あの世離婚 S.Y
熟年離婚に成田離婚は聞いていたが、あの世離婚まであるのを知って笑えた。
文字通り、死んでまでも一緒にはいたくない。あの世では他人になりたいということで、要は一緒のお墓に入りたくないということらしい。理由は様々。骨になっても夫やその身内との同居は厭なのだろう。こうなると理屈ではない。骨に魂や感情があるのかと言う問題ではなくなってくる。
笑いごとではない。私も死んだのちは夫のお墓に入らないと宣言している。夫婦関係うんぬんではなくて、ただ夫の元妻がお先に入っているという理由からだ。夫と一緒になってからの二十数年間、ずうっと長男の嫁というだけで法要にお施餓鬼、お墓の管理一切を姑から任されてきた。というより押し付けられてきた。
私は死は「無」であり、歌の文句じゃないが死後は千の風にでもなればいいと思っている。近しい人の胸の内にだけ、つかの間の「有」でいいのだ。死後、いつまでも存在があるような戒名もお位牌も不要、法要なども気恥ずかしい。むしろさっさと忘れ去られたい。
だが生活している現在、夫サイドのお墓に入る予定がなくて、あの世離婚とやらになるのに、夫の身内の供養だけはしている。複雑だ。私は矛盾だらけで生きている。
以下は僕、文科系のこのブログへの補足だが、
こういった作品からは、合評の話し合いがおおいににぎわうというのは、言うまでもないだろう。女性たちからは「潔い死に方だねー」とか、ある男性からは「前妻、後妻、戦後ちょっとなどには後後妻までが入っているお墓もあるよ」との「助言」までが飛び出てきたものだ。この方がその助言に興味を示されなかったところを見ると、はて、「死への姿勢が『潔い』と言うだけの事だろうか」と、こんな行間も僕にはうかがわれたりして、考え込んでいたものだ。こういう「深刻な?」会話が老若男女いろんなメンバーで毎月交わされているというような場所は、大都会ではいまどき確かに珍しいだろうと思うが、どうだろうか。