画家フランツ・ヴィンターハルターノが描いた類まれな美貌のエリザベート王妃の有名な肖像画、「星のドレス」と呼ばれる舞踏会衣装に身を包み、体を横にし、顔のみ正面に向けているあの肖像画である。
そのエリザベート王妃の孫娘にあたるエリザベート皇女が、この投稿のヒロインである。身長185センチの細身で、祖母ゆずりの美貌(写真を見ると、あの肖像画そっくりの)を持つ女性である。
このハプスブルグ家最後の皇女が社会民主主義者と結婚して、社民党に入党し、その集会にもしばしば参加し、彼女の屋敷が社民党首脳の会議にも利用されていた。それどころか、ナチスドイツのオーストリア占領に抵抗する運動にもかかわったのだ。この歴史事実は日本では知られていない。私も知らなかったのだ。
塚本哲也著「エリザベート 上・下」(文春文庫)を読むことを薦める。そのまま、オーストリア現代史の、さなかに投げ込まれたかのように読後感を抱くことになるだろう。
祖父フランツ・ヨーゼフ皇帝のとき、オーストリア・ハンガリー帝国は、一気に衰退の道を進むことになった。19世紀後半から20世紀初頭に、ハプスブルグ家は死神に取り付かれたかのように、一族の変死事件が続く。1867年 ナポレオン三世によって担ぎ出された、ヨーゼフ皇帝の弟であるメキシコ皇帝マキシミリアンは革命派に捉えられ処刑された。1889年 皇太子である父ルドルフの心中死に続き、1898年には祖母エリザベート王妃がスイスで無政府主義者に刺し殺された。1914年には、ルドルフの後を受けて皇太子になっていたフェルディナントがサラエボで狙撃され死亡した。
エリザベート皇女の父アドルフは自由主義の影響を受け、領内の民族主義に理解を示し、各民族の自治を認めた連邦政府を構想していた。1871年に統一を果たしたドイツの拡張主義・軍国主義的傾向に強い警戒感を持ち、親フランス的傾向を持っていた。親ドイツ路線をとる父である皇帝フランツ・ヨーゼフと鋭く対立し、皇帝から厳しく抑えられて、うつ病的状況におちいったなかでの心中死であったようだ。
このとき5歳であったエリザベート皇女は、成長してから父の死にまつわる事情を知ってからは、父ルドルフに対する尊敬の念を強めたようだ。父親のこうした気質をそのまま受け継いで、社会問題や政治に対する関心が強く、王政批判の急先鋒の社民党の機関紙「労働者新聞」を密かに購読するようになっていた。
オットー・ヴィンディシュ・グレーツ中尉(侯爵)の男性的魅力に惹かれ、18歳で結婚したが失敗であった。あまりにも知的レベルが違いすぎたのだ。それに、経済的に無知なエリザベートにつけこんで、彼女の財産を浪費したのだ。
エリザベートはわずか5歳で父ルドルフの全財産を相続していたし、祖母エリザベートの遺産の5分の1をさらに相続したので、15歳でエリザベートは、途方もない財産を所有していたのだ。
第一次世界大戦のさなか、1916年、祖父ヨーゼフ皇帝は病死し、エリザベートの従兄妹の子カールが即位した。ドイツ・オーストリア側の敗戦のなか、バルカン半島の諸民族、それにチェコとハンガリーが独立し、オーストリアは人口わずか650万人の小国に転落した。革命騒ぎのなかのドイツ皇帝の国外逃亡を受けて、カール皇帝は退位を宣言し、スイスへ亡命することになった。ハプスブルグ王朝はここに終わりを告げた。
オットーとの離婚裁判と子供の親権問題も、第一次世界大戦後に政権を握った社民党政権の援助もあって無事解決した。この離婚問題をきっかけに、接触した社民党の活動家レオポルト・べネックと愛し合うようになり、結婚したのだ。貧しい農民の子として生まれたレオポルトは、早く両親を失い孤児院で育ったのだ。優秀な学業成績を見込まれ大学を卒業したあと、小学校の教師を務めたあと社民党の活動家になった。社民党右派穏健路線の指導者として保守派からも尊敬されていたようだ。かけ離れた家柄・育ちのこの二人の結婚がうまくいったのが、不思議である。
ヒットラーはオーストリア併合を目指し、1938年にドイツ軍がオーストリアに侵入した。その前夜、オーストリア首相が武力抵抗を中止するよう訴えたこともあり、ドイツ軍は無抵抗のなか、ウィーンに入城した。その前に、ゲシュタポ(秘密警察)やヒトラー親衛隊が飛行機でウィーンに入りし、反ナチス勢力やユダヤ人の有力者を逮捕していた。ナチスの占領下、オーストリア併合法にオーストリア首相が署名し、オーストリアは消滅したのだ。オーストリア軍もドイツ軍の一部にとりこまれたのだ。
第一次世界大戦後、農業地域のハンガリーと工業地帯のチェコを失って、経済は衰退し、失業者のあふれていたオーストリアにとって、ナチスの指導のもとに驚異的な経済復興を果たしつつあるドイツに対して、オーストリア市民は漠然とした期待を抱いていた。そのため、オーストリア市民のなかでは、ドイツ軍の進攻を歓迎する気運が当初強かった。
しかし、ドイツ併合に反対した政治家の逮捕、ユダヤ人の逮捕、強制収容所の建設など、ナチスの強圧的な政治に接し、ドイツにたいする期待は急速にしぼんでいくこととなった。
エリザベートはドイツ軍進攻の日以降、喪服を着て過ごすようになった。ハプスブルグ王朝の滅亡よりも、オーストリア国家の消滅のほうが、彼女にとっては、耐えられなかったのだ。彼女は、何時ドイツに逮捕されてもおかしくない状況におかれていた。
チェコ侵攻のドイツの動きがめだつようになったころ、エリザベートの屋敷には、密かに訪れる人々が増えていった。逮捕を免れてひそかに隠れていた社民党の残党である。彼女は英・仏・伊語のみならず、チェコ語やハンガリー語にも堪能で、各国のラジオ放送を聞いているので、オーストリア随一の国際情報の通であったのだ。その彼女から密かに情報を仕入れるために訪れていたのだ。ウィーン市民のチェコのプラハの運命に寄せる同情は深く、それだけに絶望感も大きかった。
ナチスの横暴さに心の底から怒っていた彼女ではあったが、表だったレジスタンスはできなかった。しかし、ナチスに追われ苦しんでいる社民党の同志やレジスタンスの参加者に対して、裏面でその支援に力をつくしていた。
亡命費用の援助だけでも莫大なものであつたそうだ。深い森を持つ館は、ナチスの追求から免れるための絶好の隠れ場所となっていた。ナチスに抵抗することもなく、ただ沈黙を守って崩壊した社民党に不満を抱いていた彼女は、レジスタンスの組織がいくつか生まれていることを知り、それに加わる決意を夫のヴネックに打ち明けたが、「あなたが加わると目立ちすぎるので、逆に組織に被害を与えることになる」と指摘され、あきらめ精神的援助と物質的援助に徹することにしたのだ。
1945年のヤルタ会談の前年に、夫のヴネックもついに逮捕された。その状況のなか、ウィーンではオーストリア国民委員会が著名な学者・知識人で密かに組織され、ひそかに連合国軍と連絡を取り、そのもとで武装グループが放棄する準備が進められていた。こうした動きについても、彼女には連絡されていたのだ。
ウィーン解放後の連合国による分割統治、その後の米ソ対立のなかでのオーストラリアの状況については、ここでは触れない。彼女の広大な館は、最初はソ連軍に、そのあとフランス軍に接収され、エリザベートは、最初は修道院の一室で、後には小さな家で仮住まいするのだ。オーストラリアが永世中立国として再出発する1956年に、彼女はあの館にやっと戻ることができた。そして、1963年、その館で静かな死を迎えたのだ。この広大な館と膨大な美術品をウィーン市へ譲渡する手続きを終えたあとに。
そのエリザベート王妃の孫娘にあたるエリザベート皇女が、この投稿のヒロインである。身長185センチの細身で、祖母ゆずりの美貌(写真を見ると、あの肖像画そっくりの)を持つ女性である。
このハプスブルグ家最後の皇女が社会民主主義者と結婚して、社民党に入党し、その集会にもしばしば参加し、彼女の屋敷が社民党首脳の会議にも利用されていた。それどころか、ナチスドイツのオーストリア占領に抵抗する運動にもかかわったのだ。この歴史事実は日本では知られていない。私も知らなかったのだ。
塚本哲也著「エリザベート 上・下」(文春文庫)を読むことを薦める。そのまま、オーストリア現代史の、さなかに投げ込まれたかのように読後感を抱くことになるだろう。
祖父フランツ・ヨーゼフ皇帝のとき、オーストリア・ハンガリー帝国は、一気に衰退の道を進むことになった。19世紀後半から20世紀初頭に、ハプスブルグ家は死神に取り付かれたかのように、一族の変死事件が続く。1867年 ナポレオン三世によって担ぎ出された、ヨーゼフ皇帝の弟であるメキシコ皇帝マキシミリアンは革命派に捉えられ処刑された。1889年 皇太子である父ルドルフの心中死に続き、1898年には祖母エリザベート王妃がスイスで無政府主義者に刺し殺された。1914年には、ルドルフの後を受けて皇太子になっていたフェルディナントがサラエボで狙撃され死亡した。
エリザベート皇女の父アドルフは自由主義の影響を受け、領内の民族主義に理解を示し、各民族の自治を認めた連邦政府を構想していた。1871年に統一を果たしたドイツの拡張主義・軍国主義的傾向に強い警戒感を持ち、親フランス的傾向を持っていた。親ドイツ路線をとる父である皇帝フランツ・ヨーゼフと鋭く対立し、皇帝から厳しく抑えられて、うつ病的状況におちいったなかでの心中死であったようだ。
このとき5歳であったエリザベート皇女は、成長してから父の死にまつわる事情を知ってからは、父ルドルフに対する尊敬の念を強めたようだ。父親のこうした気質をそのまま受け継いで、社会問題や政治に対する関心が強く、王政批判の急先鋒の社民党の機関紙「労働者新聞」を密かに購読するようになっていた。
オットー・ヴィンディシュ・グレーツ中尉(侯爵)の男性的魅力に惹かれ、18歳で結婚したが失敗であった。あまりにも知的レベルが違いすぎたのだ。それに、経済的に無知なエリザベートにつけこんで、彼女の財産を浪費したのだ。
エリザベートはわずか5歳で父ルドルフの全財産を相続していたし、祖母エリザベートの遺産の5分の1をさらに相続したので、15歳でエリザベートは、途方もない財産を所有していたのだ。
第一次世界大戦のさなか、1916年、祖父ヨーゼフ皇帝は病死し、エリザベートの従兄妹の子カールが即位した。ドイツ・オーストリア側の敗戦のなか、バルカン半島の諸民族、それにチェコとハンガリーが独立し、オーストリアは人口わずか650万人の小国に転落した。革命騒ぎのなかのドイツ皇帝の国外逃亡を受けて、カール皇帝は退位を宣言し、スイスへ亡命することになった。ハプスブルグ王朝はここに終わりを告げた。
オットーとの離婚裁判と子供の親権問題も、第一次世界大戦後に政権を握った社民党政権の援助もあって無事解決した。この離婚問題をきっかけに、接触した社民党の活動家レオポルト・べネックと愛し合うようになり、結婚したのだ。貧しい農民の子として生まれたレオポルトは、早く両親を失い孤児院で育ったのだ。優秀な学業成績を見込まれ大学を卒業したあと、小学校の教師を務めたあと社民党の活動家になった。社民党右派穏健路線の指導者として保守派からも尊敬されていたようだ。かけ離れた家柄・育ちのこの二人の結婚がうまくいったのが、不思議である。
ヒットラーはオーストリア併合を目指し、1938年にドイツ軍がオーストリアに侵入した。その前夜、オーストリア首相が武力抵抗を中止するよう訴えたこともあり、ドイツ軍は無抵抗のなか、ウィーンに入城した。その前に、ゲシュタポ(秘密警察)やヒトラー親衛隊が飛行機でウィーンに入りし、反ナチス勢力やユダヤ人の有力者を逮捕していた。ナチスの占領下、オーストリア併合法にオーストリア首相が署名し、オーストリアは消滅したのだ。オーストリア軍もドイツ軍の一部にとりこまれたのだ。
第一次世界大戦後、農業地域のハンガリーと工業地帯のチェコを失って、経済は衰退し、失業者のあふれていたオーストリアにとって、ナチスの指導のもとに驚異的な経済復興を果たしつつあるドイツに対して、オーストリア市民は漠然とした期待を抱いていた。そのため、オーストリア市民のなかでは、ドイツ軍の進攻を歓迎する気運が当初強かった。
しかし、ドイツ併合に反対した政治家の逮捕、ユダヤ人の逮捕、強制収容所の建設など、ナチスの強圧的な政治に接し、ドイツにたいする期待は急速にしぼんでいくこととなった。
エリザベートはドイツ軍進攻の日以降、喪服を着て過ごすようになった。ハプスブルグ王朝の滅亡よりも、オーストリア国家の消滅のほうが、彼女にとっては、耐えられなかったのだ。彼女は、何時ドイツに逮捕されてもおかしくない状況におかれていた。
チェコ侵攻のドイツの動きがめだつようになったころ、エリザベートの屋敷には、密かに訪れる人々が増えていった。逮捕を免れてひそかに隠れていた社民党の残党である。彼女は英・仏・伊語のみならず、チェコ語やハンガリー語にも堪能で、各国のラジオ放送を聞いているので、オーストリア随一の国際情報の通であったのだ。その彼女から密かに情報を仕入れるために訪れていたのだ。ウィーン市民のチェコのプラハの運命に寄せる同情は深く、それだけに絶望感も大きかった。
ナチスの横暴さに心の底から怒っていた彼女ではあったが、表だったレジスタンスはできなかった。しかし、ナチスに追われ苦しんでいる社民党の同志やレジスタンスの参加者に対して、裏面でその支援に力をつくしていた。
亡命費用の援助だけでも莫大なものであつたそうだ。深い森を持つ館は、ナチスの追求から免れるための絶好の隠れ場所となっていた。ナチスに抵抗することもなく、ただ沈黙を守って崩壊した社民党に不満を抱いていた彼女は、レジスタンスの組織がいくつか生まれていることを知り、それに加わる決意を夫のヴネックに打ち明けたが、「あなたが加わると目立ちすぎるので、逆に組織に被害を与えることになる」と指摘され、あきらめ精神的援助と物質的援助に徹することにしたのだ。
1945年のヤルタ会談の前年に、夫のヴネックもついに逮捕された。その状況のなか、ウィーンではオーストリア国民委員会が著名な学者・知識人で密かに組織され、ひそかに連合国軍と連絡を取り、そのもとで武装グループが放棄する準備が進められていた。こうした動きについても、彼女には連絡されていたのだ。
ウィーン解放後の連合国による分割統治、その後の米ソ対立のなかでのオーストラリアの状況については、ここでは触れない。彼女の広大な館は、最初はソ連軍に、そのあとフランス軍に接収され、エリザベートは、最初は修道院の一室で、後には小さな家で仮住まいするのだ。オーストラリアが永世中立国として再出発する1956年に、彼女はあの館にやっと戻ることができた。そして、1963年、その館で静かな死を迎えたのだ。この広大な館と膨大な美術品をウィーン市へ譲渡する手続きを終えたあとに。