松美の言絵(いえ)

私は誤解されるのが好きだ。言い訳する手間が省けるから。

重文「三浦館(やかた)」その2

2015-05-25 19:41:25 | 日記・エッセイ・コラム

 三浦で思い浮かぶのは、三浦半島ですね。三崎港は海洋系高校の実習船の基地でもあり、マグロの肉まん(とろまん)は絶品でしたね。実は三浦家は、相模の豪族三浦一族がルーツです。戦で転々として、男鹿まで来て、安東氏の元で浦城を任されます。浦城陥落で色々あって、黒川村に落ち着きました。

 寛文年間から代々、村の肝いりとなり、大正初期に所有する山から原油が大噴出。日産1万2千石、当時の日本記録でした。そのため新潟始め各地から技術者等が住み着いて賑わいを見せ、ついには家の中に郵便局まで作ってしまいます。

 郵便局内部です。ガラス窓が、二度と交換できない「景色の揺れ動くガラス窓」です。

黒川の知人を思い出すと、皆プライドの高い人間でした。今、流れを知ってなるほどなと納得しています。

 はんてんの記号が「山に十一」ですが、「やまといち」とも読めます。日本一という自負が読み取れます。

 節のある所やキズを隠すための「埋め木」が方々にあります。どれも凝っていて、これは「扇子」でしょうね。しかも凹凸を作って立体感も出しています。見事な仕事です。

 最後に、お茶を御馳走になります。保存協力費として700円出しましたが、

 家紋入りの酒饅頭を頂き、優雅な時間を過ごして、むしろ得した気分です。

 帰りに坂を下ると、上から糸と共に毛虫が落ちてきて、胸に止まりました。慌てず騒がずピッと払いましたが、なるほどこれは管理が大変だなあと、保存会の仕事量の多さを実感しました。

 1980年代に住む人が居なくなり、小学校入学前まで過ごした中富たつ子さんは、先代の保存会理事長として2000年から4年かけて修復し、05年から公開を始めました。その意を組み、快くバックアップしてくれたのが、久光製薬の社長さん。つまりたつ子さんは社長夫人なのです。はやくに亡くなりましたが、そういう出会いがあったから、今があるのですね。

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東北最大級の三浦館(やかた)に潜入、その1。

2015-05-25 08:02:27 | 日記・エッセイ・コラム

 金足黒川の三浦館は、一段高い山すべてが敷地だ。その上、20m以上の林に囲まれているので、全貌は空からでないと撮れない。私は15才の少年をけしかける程愚かではない。ついでで思い出したが、相撲やってたんですね。見る人いるのかな。相撲はモンゴルで開催したらいいのに。あんな外人たちに日本人の名前だけ付けて、やることははしたない限り。すでに横綱は囲い込みを始めているように見える。ま、どうでもいいけど。

 いきなり真夏日になることもなく、静かに気温を上げていく秋田沿岸は、こういう場所を散策するには最高のシチュエーションでございました。

 ところが私は三浦館の公開を知らずに、たまたま通ったのです。黒川に至る道は、五城目への広域農道が整備されてから、人の通るような処ではなくなりなした。あえてこの日、山道から豊川へ抜けようとしたところ、ばったり案内人の田中さんが下の駐車場まで下りてきていたのです。もう一組が見えないので、様子を見に来た所、変なやつに捕まってしまったのです。そいつは失礼にも車の窓から顔を出して、「飛び入り参加は、なしですか?」と聞いたらしい。この日は40人の枠に20人ほどであったので、いいですよ、となったわけだ。

 時間ぎりぎりに入って、ちゃっかり紛れ込みました。年に2回しか公開していないので、まったく偶然とはいえ、私の臭覚には、本人も驚いています。何しろ同じ金足に住んで、自由に見学できないなんて、と半ば憤慨していたのですから。そのわけは、説明を聞くほどに納得していきました。

 鎮守社まで造って、神様を招き入れた敷地にある米蔵には、5千俵の米が入っていたそうです。その1では、村の肝いり(村長)をしていた、とだけ申し上げておきましょう。

 八角形の大黒柱について、田中さんが説明しています。この土間だけで、六間四方(10m×10m)あります。総量130トンの茅葺を支えています。

 「おえ」と呼ばれる「板の間」のある部屋。ここで邦楽のリサイタルを開いたりしているらしいです。舞台としても、最高に足元が落ち着きます。次回は、なぜ秋田市の郊外である金足の、そのまた最奥の地が、こんなに栄えたか、というお話をしましょう。三浦家のルーツと共に。

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