三浦で思い浮かぶのは、三浦半島ですね。三崎港は海洋系高校の実習船の基地でもあり、マグロの肉まん(とろまん)は絶品でしたね。実は三浦家は、相模の豪族三浦一族がルーツです。戦で転々として、男鹿まで来て、安東氏の元で浦城を任されます。浦城陥落で色々あって、黒川村に落ち着きました。
寛文年間から代々、村の肝いりとなり、大正初期に所有する山から原油が大噴出。日産1万2千石、当時の日本記録でした。そのため新潟始め各地から技術者等が住み着いて賑わいを見せ、ついには家の中に郵便局まで作ってしまいます。
郵便局内部です。ガラス窓が、二度と交換できない「景色の揺れ動くガラス窓」です。
黒川の知人を思い出すと、皆プライドの高い人間でした。今、流れを知ってなるほどなと納得しています。
はんてんの記号が「山に十一」ですが、「やまといち」とも読めます。日本一という自負が読み取れます。
節のある所やキズを隠すための「埋め木」が方々にあります。どれも凝っていて、これは「扇子」でしょうね。しかも凹凸を作って立体感も出しています。見事な仕事です。
最後に、お茶を御馳走になります。保存協力費として700円出しましたが、
家紋入りの酒饅頭を頂き、優雅な時間を過ごして、むしろ得した気分です。
帰りに坂を下ると、上から糸と共に毛虫が落ちてきて、胸に止まりました。慌てず騒がずピッと払いましたが、なるほどこれは管理が大変だなあと、保存会の仕事量の多さを実感しました。
1980年代に住む人が居なくなり、小学校入学前まで過ごした中富たつ子さんは、先代の保存会理事長として2000年から4年かけて修復し、05年から公開を始めました。その意を組み、快くバックアップしてくれたのが、久光製薬の社長さん。つまりたつ子さんは社長夫人なのです。はやくに亡くなりましたが、そういう出会いがあったから、今があるのですね。
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