日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

スミマセン、私ですが・・・。

2007-12-25 17:59:12 | Weblog
高校の時の昔の私の写真です。今と全然違いますが・・・。

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年賀状・・・

2007-12-24 18:05:57 | Weblog
 年賀状を今まではワンタッチで作成していたが、事情でそれが今回出来なくなり、全て手書きとなっている。で、120枚以上を表も裏も書いている(以前は、300枚近く出していたが・・・)。まあ、こんなこと、ホントに久し振りだ。
 名簿には、今まで書いていた人の名前が載っている。そう、1000人以上いる。で、亡くなった人、来なくなった人といろいろで、その内の10分の1程を出していることになる。
 今までもらった年賀状、どうしているかと言うと、面白いのは捨てがたくて保存している。で、同じ人間が同じパターンでいつも書いていることに気が付く。しかし、いつも形式的って感じに思える年賀状も多くなっている感じがする。
 今年は、筆を使って久し振りに書いたが、まだ、忙しくて書き終えていない(間に合うかなあ)。
 今日は、退院を2人させて、入院が、「細気管支炎(RSウイルス検出する)」「ケトン血性低血糖症(以前もあり)」「(下痢に伴う)けいれん」「低出生体重児」と4人も受け持ってしまった。
 外来も多くて、点滴を何人もしている。で、当然、年賀状は、未完のまま。明日の自分の午前の外来は多いだろうなあ。それに、夕方からは、病院の大忘年会(で、氷川きよしの曲を前もってもらっていて、それで太鼓を打つ練習を一応はしているのだが)。
 たかが年賀状、されど年賀状かな。

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為になるかも知れない本(その240)

2007-12-24 09:22:40 | Weblog
○昭和60年7月9日(火)雨。
 体がだらしい。母親が運転する車が交通事故で、前に座っていた2歳の子どもが頭蓋内出血で、大変だった。母親も、手術。ほぼ駄目だと思うが、何もしない訳にはいかない。駄目と分かっても、医師として最善を尽くさないといけない。泊まり込んだ
○昭和60年7月10日(水)晴。
 (毎水曜日に)いつもの様に、(大分医大の)大学から小児科の宿直の先生が午後から来たので、病院に泊まれなかった(病室の隣の小児科部長室にいつも宿泊)。気になって0:00過ぎに来た。何かあれば連絡を自分にするとのことだったが、気になって仕方なかった。途中で医大の先生が診てもよく分からないと思う。(開業医の)○○先生も、様子を見に来た。
○昭和60年7月11日(木)晴。
 今、二人挿管している。交通事故の子ども、血圧も良くなり、脈もしっかりしてきている。肺の音も良くなっている。しかし、頭の方は、サッパリ駄目だ。ベビー、内臓奇形がありそうだ、多分駄目だろうなあ、解剖するべきかなあ。泊まり込んだ。
○昭和60年7月15日(月)晴。
 99人来た。ヘルパンギーナも手足口病もなくなり、髄膜炎らしきものもない。PAPと溶連菌が時々ある位だ。本当に少ないって感じだ。夕方救急車が来て、南海病院に行ってもらった(腎臓損傷で手術?)。無理をしてはいけない。長続きしないとけいない。体あっての仕事なのだ。カゼが少し良くなった感じだ。カゼを引いていると、ホントに苦しいなあ。明日は、もう少し元気になっているかなあ。
○昭和60年7月17日(水)晴。
 (私の母校の)佐伯小学校でツ反があって、170人位いて、120人以上した。も一人の○○先生が遅れて来たのだ。懐かしき我が母校。何故か、鶴谷中学校や鶴城高校よりも、佐伯小学校の方に愛着心があるなあ。帰りに、(養護教員の)神田先生(父と一緒に仕事をしていたことあり)に、本と聴診器をあげたら、とても喜んでいた。脳外科の子ども、どうなるのかなあ。
○昭和60年7月19日(金)晴。
 朝4:30に起こされた。帝王切開で。体重1400g、30週、生直後息をしてなく、アンビューで蘇生した。RDS(呼吸窮迫症候群)だ。泊まり込んだ。
○昭和60年7月21日(日)晴。
 臼杵からクループの子が来た。頭部打撲後嘔吐の子が入院している。交通事故の子は亡くなった。RDSの子は、調子いい。MAS(胎便吸引症候群)が一人生まれた。いろんな病名の人がいるが、一人一人、トラブルにならない様に一生懸命にしていくしかない。

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不良老人・・・

2007-12-23 11:54:55 | Weblog
 昨今、日本では格差が確かに目に見える広がっています。しかし、外国と比べると、まだまだ、日本はいい方だと思っています。選ばなければ、仕事はそれなりにあるし、最低賃金が高いし、それなりに恵まれていると思います。それに、まず、物乞いがいません。病気で働けなくなった場合も、生活保護の制度もありますし。
 バングラデシュのダッカでは、貧乏な人が5割、(自家用車を持っている人の)金持ちが1割、中程が4割います。ダッカにも、糖尿病センターがあり、治療を受けているお金持ちの人が確かにいます。フィリピンでは、1割が9割の富を持ち、9割の人が1割の富を分配しているとも言われています。
 昔は、不良少年って言葉がよく言われていた。育ちが悪いとそうなることが多いって感じで、教育者がよく言っていた感じだが、今や、人生80年の時代、どんなものだろうか?
 昔のガキ大将が今会社の社長ってこと、多い。多くの部下を統率できる能力、これは、とても素晴らしいこと。ちょっと矛先を変えれば、人を立派に統率できるだけに、かなり大きな事が出来ると期待されます。
 昔、受験勉強に追われて、過保護状態で勉強ばかりして、いい大学を出て、エリートコースを歩んで行くかに見えた人が、突如、汚職で逮捕なんてニュースが時々ありますね。周りがそうした感じにも思えますが、やはり、立派な大人になっている以上、他人のせいにするべきではないと思いますが・・・。
 生活が苦しくて、時々、お年寄りのスーパーでの万引きなどが報道されていますが、歳を取っても悪いことをしないといけない環境を同情しますが、やはり、大人に成り切っていないと考えるべきでしょう。
 歳を取れば、考え方も柔軟さがなくなります。オウム真理教が早めに解決出来た理由に、それを暴露した医師が男性の高齢であった(年齢が高い男性に新しい宗教を入れ込むのは、かなり難しいらしい。信じてしまうと、どうしようもなくなる例もあるが・・・)せいもあるらしい。学歴が、軍備が、お金が、とそれぞれにそれなりの高い価値観を持ち続けて高齢になっている人の価値観を変えること、それは、至難の業だと思います。
 でも、悪いことはやはり悪いことで、大人でも、善悪の判断が出来ない感じになっていて、又、悪いと分かっていても、ずるずると自分でコントロール出来ない状態になっている人も多くなっている様な気がしていますが。

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薬物中毒

2007-12-22 09:12:36 | Weblog
 タバコに関しては、私は吸ったことがない。当然、ニコチン中毒になった感じで、それから脱却するのに如何に大変かの経験をしていない。しかし、周りには、それでとても苦労している人を沢山見てきている。医師も看護師も教師も、その他沢山の人が、試みていたが、諦めた人も確かにいる。私の父も若い時には吸っていて、家内の父親も吸っていたが、晩年は禁煙していた。
 私の息子も吸っていて、何度も禁煙を試みていた様であるが、幸いに、今は無事に禁煙に成功している。おいしいと思っている限り、止められない。周りが吸っているとなかなか止められない。今は、美味しいと思えないので(何でこんな変なモノを吸っていたのかって感じになっているので)、もう吸うことはないとの息子の言。
 先進国がどんどん禁煙運動をしているのに、東南アジア、とりわけ日本の場合、若い人の喫煙率の高さが近年目立っている。ある私立高校の男子寮では、吸っていない方が少ないとのこと。
 若い時から、タバコの怖さに付いて啓蒙しておく必要があると思うが、親が吸っていたり、学校の先生が吸っていたり、医療従事者が吸っていたり、周りの社会人が吸っていると、その怖さがどうしても実感できないだろう。
 覚醒剤は、ニコチン中毒以上に深刻だ。体が依存してしまって、精神的に治療できるものではなく、医療機関の助けを必要とする。説得して、それから脱却できる様な生やさしいものではない。
 メタンフェタミンに代表される覚醒剤からの脱却は、尚更、困難を要する。
 メタンフェタミンでは、今まで想像できなかった様な恍惚感に襲われる。それが、半日近く続くのである。ドーパミンが多量に分泌され、美味しい食事やセックス以上のものなのである。
 その為に、その世界に一度入ると、地獄となる。怖いのは、次第に体が蝕まれていくことである。プロの目だと、一目で中毒者の判別が出来るとのこと。(皮膚のつやがなく、顔の傷があちこちあり、歯もボロボロ)
 以下は、それに関するサイト(顔をクリックすると、中毒の顔になる)

http://www.facesofmeth.us/main.htm

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為になるかも知れない本(その239-7)

2007-12-21 08:31:58 | Weblog
病院一階の理事長執務室の部屋に”夢”と題する額が飾ってある。その中に、「・・・若き時からの夢は、かなづちの音でさめては、又さめての日々でありました。その間、良きドクター、良き従業員、良き友に恵まれて幸に感謝しております。又と来ない貴重な一生も僅かとなりましたが、それなりに生きて行きたいと思います・・・」とある。

 佐伯文化会館で葬儀があり、1.300名もの参列者があったが、その場にいた多くの人が、何も言わなくてもその雰囲気から、理事長先生が如何に多くの人から慕われ、尊敬され、一日でも長く生きていて欲しいと思われていたかを、又、すごい業績を残した偉大な医者であったかを自然な形で知ったに違いない。
 皆から愛され、’85日中友好ソフトボール国際大会と入った帽子を胸の上に抱いて、精一杯真面目に最後までエネルギーを出し切って仕事をされ、多くの人の涙を誘って亡くなられた理事長先生のご冥福をお祈りすると共に、この生き方を多くの人が学んで行かなければいけないと思う。

(おわり)

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為になるかも知れない本(その239-7)

2007-12-21 08:28:18 | Weblog
その10、夢を持つ
 理事長先生は、常に夢を抱いていた様に思える。高い目標を持っていた様に思える。理事長先生の生前中に成人病棟の改築を済ませたかったと思われる。孫の成長をもっと先まで見届けたかったと思われる。先生の趣味は、スポーツと陶芸であるが、女子ソフトボールにかける夢は年々大きくなって行った様で、世界第2位の中国チームと対戦しても堂々と闘えるまでに成長した西田病院女子ソフトボールチームのことをとても嬉しく思っていた様である。灘のグランドの整備の費用も自分のお金で出し、遠征費用もポケットマネーを使われていた。花束を北京チームからもらった時の理事長先生の笑顔を(私のビデオカメラでも撮り)今でもありありと私は思い浮かべることが出来る。

 今年(昭和60年)の西田病院月報の念頭所感で、院長先生は次の様に述べられている。
 この50年間の病院経営には、慈恵の魂がこもっていたからこそ出来たと言えばそれまでかも知れませんが、患者さん確保の為、自ら自転車に乗って情報収集に走り回り、さまざまな角度から”愛される病院”にと努力し、我慢し、睡眠も充分に取らず、遊びもせず、只ひたすらに患者さんの為にと奉仕を忘れずに頑張ってきた永い年月が横たわっているのです。又、その他の波乱万丈の姿は、父理事長の随筆集「かなづち病院長」の二巻に余す所なく書かれています。そこには、あの戦争中の苦難の時代を経て今日に至るまでの姿が克明に綴られています。今日のこの病院の隆盛と反映の基礎を築いた神算元祖とも言うべき理事長に対して、心から感謝の念と尊敬の心を失ってはならないし、又、母宮子理事と共にその健康と尚一層の長寿を祈念するものです。
(*理事長先生も院長先生(長男)も副院長先生(次男)も、慈恵医大出身。)


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為になるかも知れない本(その239-5)

2007-12-20 08:39:10 | Weblog
その8、仕事に徹する
 かなづち病院長の本の中の朝礼訓話のある1カ所に、「某市で、日曜日の休診日に、喘息発作の患者さんが4軒の医療機関を訪れ、診察治療を受けようとしたが、いずれも断られてついに死亡したと言うニュースが伝えられている。救急病院の西田病院では、年中無休の体制をとり、休日はもちろん、夜間においても、救急や重症に備えて常に、内科と外科の当直医が配置されている。どちらの当直医師にも(忙しくて)都合が付かない場合でも、一応外来患者さんがあれば、他科であっても、待機の医師にお願いするのは当然のことである。どうしても都合の付かない時には、院長まで連絡をする様に。その為に、院長の私は院内の5階に起居しているのである。そのことを忘れないで欲しい。」とある。これが80歳直の人の言った言葉なのである。理事長先生の毎日住んでいる自宅が病院の一番上にあり、救急車の音がすると、「今のは何の患者か?」と深夜でも上の理事長先生から電話が下の詰め所によく掛かってきていたのは、多くの人の知る所である。心臓病の持病を持っても、体の許す限り、いや体の限界を超えて実によく働かれた医者であった。

その9、救急医療に徹する
 理事長先生の医療に対する至誠の中で、私が最も尊敬しているのは、救急医療に対しての異常なまでの意欲であった。80歳になるまで、時間外に来た患者さんのカルテを全て毎朝サインしていた。あれ程までに救急医療を熱心にしてきていたのに、「生死の瀬戸際しか診療せぬ許せない救急病院」とまで小児の患者さんのことで○○合同新聞に掲載され、その為に(理事長先生の長男でやはり産婦人科医の)院長先生は丸刈りになり、理事長先生はそれ以上に悲しんでおられた様子で、私にとっては非常に胸の痛い思いである。県南地域に於いて今までにどれ程多くの患者さんが救急医療をすることによって救われてきただろうか。365日24時間受け付ける体制で、1カ年に1万人以上の救急患者さんを扱い、1日に平均1台以上の救急車が来院している病院は、少ないと思われる。その評価が生前に公にされることなく、しかも、近年になっても二次の救急指定病院になれなかったことは、誠に残念なことと思われる。

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為になるかも知れない本(その239-4)

2007-12-20 08:34:17 | Weblog
その5、他人の意見に耳を傾ける
 理事長先生は、部下の意見を尊重する人であり、小児科のことは私に任せてくれた。現在でも、使いたい薬を自由に使っているし、私と馬の合わないナースがいたら、遠慮せずに言ってきて欲しいとまで言われいた。私が高い医療機器を次から次へと頼んでも、全てOKしてくれて、しばらく頼みに行かないと(最低限の必要なものは全て買ってしまったが)、ある時、「田原君は最近何々が欲しいと言わなくなったが、何か言っていなかったか」と周りの人に聞いていたそうである。小児科の設計にしても、(理事長先生自身が素晴らしい建築マニアであるのに)必ず私の了解を得ることを気にしていたし、新生児・未熟児センター室設立の時には、何cmまで、私に任せてくれた。

その6、頭が低くて、笑顔を絶やさない
 270名程の職員を抱えるまでに成長し、救急医療を中心にして永いこと多くの人を救って来られたのに、頭は常に低く、話し出すとニコニコされていた。西田病院の3つのモットーの「誠実」「機敏」「笑顔」は、理事長先生のアイデアであるが、正に、理事長そのものであった。医者たるもの、腕があり、患者さんが多くなり、業績が上がると、ともすれば高慢になり、人の意見は聞かずに、優しい笑顔を多くの人に投げかけることをしなくなりがちになるが、理事長先生は、それとは全く反対の崇高な精神の持ち主であった。

その7、記録を執る。
 理事長先生が毎朝、患者統計を執っていたのは周知の如くであるが、その統計を執ること自体が、生き甲斐にもなっていた様である。82歳になっても、よくメモを取る人であった。記録を取ることにより経営者としての力をいかんなく発揮することが出来、又、手を使い頭を使うことによって最後まで冴えた頭で病院の業務に就けていたのかも知れない。忙しい中にも、立派な著書、「かなづち病院長」「続・かなづち病院長」を出版して、それを後世に残したのである。


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為になるかも知れない本(その239-3)

2007-12-19 09:09:18 | Weblog
 私が理事長先生から学んだことは多く、それを10程記載してみた。
その1、モノを大切にする心
 理事長先生は、非常にモノを大切にする人であった。西田家では、ご飯を一粒でも残さずに食べることが義務付けられていた様で、一階の理事長先生の机の前に置かれた紙の束を見て気付いた人も多いと思われるが、病院の業務に使ってしまった紙の裏側を束ねてメモ用紙として使われていた。私が保育器の新しいのを入れる様に頼んだ時、長年使ってきた保育器を名残惜しそうに理事長先生も院長先生(理事長先生は、初めは院長も兼用しておられたが、しばらくして、長男の方に院長を譲られた)も見ておられたのを思い出す。理事長先生自身がこの様に紙一枚にしても大切にしていたことを我々世代は見習うべきだと思う。

その2、思いやりの心
 この病院がこれ程までに大きくなった最大の理由は、理事長先生の思いやりの心にあると思う。慈恵医大で栄養失調の為に1カ年間休学、海運業をしている理事長先生のお父さんの船「宝重丸」沈没、佐伯地区医療防衛報告隊長、更には西田病院での臨床医としての苦労、経営者としての苦労、それに自分自身が晩年心臓病で苦しんでいたことからの産物であろうか、理事長先生は、相手がどの様に思っているかをいつも気にされていた。この理事長先生の思いやりの心を多くの人が学ぶべきだと思う。

その3、恩を忘れない心・感謝の心
 理事長先生は、義理と人情に実に厚い人であった。いろんな事情でいろんな人が病院を退く時、最後の別れを理事長先生の前で言う時、その多くの人は涙していた。理事長先生が、一人一人の職員の恩を忘れないで感謝していることを退く人はよく知っていたからである。

その4、企業は人なり
 著書「かなづち病院長」の本の中の「経営者の心得」の中で、理事長先生は、次の様に書かれている。
・・・私は、院長として又経営者としてこうあらねばならないと思う信念を次の八項目に分類してみた。
1、経営方針を立てる。
2、計画を立てる。
3、組織を作る。
4、意見を調整する。
5、働く意欲を盛り上げる。
6、業績を測定する。
7、人物を評価する。
8、人の訓練をする。
これらは、正確で綿密で且つ公平でなければならない。・・・
 つまり、理事長先生は、企業は人なりということを充分認識しておられた。私に、「先生の手助けとなる小児科の先生がもう一人いた方がいいが、出来たら大学からの派遣でなくちゃんと永くここに就職してもらえる人の方がいいが、こでだけは誰でもいいという訳にはいかんからなあ、田原先生と合わんことには」と言われていた。
 瀬古利彦選手が故中村清先生と初めて会った時、故中村先生は、「君は世界一のマラソン選手になれるかも知れない!」と言ったが、その時若き瀬古は、「このおじさん、少し頭がおかしいのではないだろうか」と思ったというエピソードがある。故中村清監督は、瀬古の才能を初めから見抜いていたのである。
 私の医療に対する情熱を初めから最もよく理解してくれていたのは、他ならぬこの理事長先生であった。



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