日本の心・さいき

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為になるかも知れない本(その198)

2007-09-03 07:22:31 | Weblog
○昭和55年3月22日(土)晴。(宮崎を発つ日)
 朝、大学に最後の挨拶に行く時、大学の入り口の門で自分を待っていた(心筋症で入院した後に、奇跡的に元気になった)○○ちゃんの親子(父と子)がいて、「先生、大変お世話になりました。こんなに元気になり、先生のお陰です」と言われた。(誰から聞きつけたのか、自分がここを通ることを予想し、ずっと朝から門で待っていたこの親子に対して、驚くと同時に、言葉にならない程、大変ありがたく思った)
 教授、助教授、婦長さんなど、15人もの人が盛大に(我々親子3人を)宮崎駅で見送ってくれた。乗り込み直前に、教授が、「田原君、困ったら、又、遠慮なく大学に帰って来なさい。どこにいても君は宮崎医科大学小児科の医局員だから」と言われた。(その時、佐伯でどんなことがあっても、弱音を吐くことなく頑張り通そう、まかり間違っても、帰ってくる様なぶざまなことは絶対にしまいと思っていた)
○昭和55年3月24日(月)晴。
 もう、大学に行かなくてもいいかと思うと嬉しい。大学は窮屈だった。ここでは、一応部長だから、一国の主って感じだ。この30歳の若さでは、まだ、未知数って感じに周囲からは受け取られるだろう。仕方ない(その後、威厳を付ける為に、髭をはやした)。4月1日から、頑張るぞ!
*やる気満々の状態であった。実際は、3月24日の月曜日から診療した。外来は少なかったが、(小児科経験者のナ一スが全くいなくて、ナ一ス教育などの)準備と新生児・未熟児医療で、初めからそれなりに忙しかった。初めの3カ月は、殆ど自分が昼夜を問わずに翼状針で点滴をした。無茶なことに、小児の時間外は、小児科医が全て診ることにし、他の科の先生に診させることは、その病院では、それ以後まる10年間なかった。又、夜の時間外を20:00~21:00に集めて365日診ることにした(佐伯でそれを19年半余続けた)。それ以外の時間帯は、けいれん重積や喘息発作の様な一刻を争う様な時だけにした。しかし、新生児・未熟児は待てないので、いつでも断らずに診ることにした。
○昭和55年3月25日(火)晴。
 まだ、小児科をオ一プンしていないのに、夕方、急性胃腸炎の子が入院した。4月1日から、本当に、沢山来るのかなあ?
○昭和55年3月26日(水)晴。
 13:00から、病院の関係者にスライドを使って講義をした。
○昭和55年3月27日(木)晴。
 10人来た。
○昭和55年3月28日(金)曇。
 16人来た。31日に、ちらしで公に知らせるとのこと。

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