黄金週間、誰が命名したのだろうか?
黄金を発掘するために荒野を走り抜け~
なんて昔の物語ではないだろうし、「休日」が連続し
何かを「見つける」チャンス
それはそれぞれの心に秘めた時間の使い方にあるのであろう。
私にとっての前半GWは 今年はこの柳広司の「風神雷神」の
風の章、雷の章の2冊が黄金になった。
この数年、ちょうど美術展の企画展などで絵師を狙って
足を運んでいたのでその興味と勉強の為に選んで読破してきた。
「若冲」(澤田瞳子)「狩野永徳伝」(神部眞理子)長谷川等伯」(安部龍太郎)
「松林図屏風」(萩耿介)墨龍賦{海北友松}(葉室麟)
そして「俵屋宗達」(柳広司)と続き~
その絵師に関わる周辺の人物「利休」「織部」にも目を凝らし読破
まだ まだ 追いかけるのだが。
それぞれ 時間を忘れさせる筆力の持ち主の展開は
この年寄りでも興奮が止まない …
この風神雷神に登場する人物は 宗達本人(俵屋伊年)と
宗達を取り巻く重要な役回りが 紙屋宗二 角倉(与一)素庵
そして「本阿弥光悦」公家「烏丸光広」
さらには狂言回し?の出雲阿国までも 顔を出し
ストーリーを面白くさせる。
まず「絵」には「紙」が必須条件
その紙について深く勉強ができた。特に加工にあたっての技法
これは 絵師や書家にとっては作品の成果にも大きく影響するから。
まずは、宗達 最初の出会いは「光悦」
本阿弥光悦と言えば、時代を代表する能書家、家業の刀剣ばかりではなく
工芸美術品にも精通し、万能の文化人…
宗達が光悦の和歌色紙を見た瞬間から 始まった。
「こんな文字はみたことがなかった」
文中より…文字ひとつひとつが色紙の中で息づき、跳びはね、駆け出し
足をとめ、羽根を伸ばし、また 跳びあがる。
あるいは文字同士が互いに声を交わしているかのようだ・・・・
時を経て~「嵯峨本」へと。
*「嵯峨本」は、木製の活字を使って印行された書物で、近世後期
(18世紀から19世紀後半)に刊行された、いわゆる「古活字本」
に分類されている。
このキーパーソンは、角倉素庵、本阿弥光悦、俵屋宗達である。
この「嵯峨本」の人気が高まるにつれて光悦のもとに
さまざまな依頼が舞い込む。
つまり「光悦の書」「宗二の料紙」「宗達の下絵」の組み合合わせ
が始まる~ 「書」が先、「絵」が先 どちらともあり。
書に合わせて、絵を。 書の空間に合った絵であり。
絵の空間に合わせた書であったり~
そして 双方の筆使いや、外題に合わせての「料紙」が求められ
三人の関係性がその力量を上げていくことに…。
宗達下絵 光悦の書 「鶴下絵和歌巻」 一部分
絵と書によるセッションである。
すべての絵は…立つ鶴二九羽 飛ぶ鶴百十羽。 金銀泥のみを用いて、連続する鶴の姿
なのだ。
彼は 京の町から 田舎 鷹峯に居を移す~一族郎党・知人・工人・職人らを呼び寄せ
みなが自由に仕事ができる環境を整えたいと…隠棲した。 処世術のひとつであろう。
*本当のところは、時の天下はいまや並ぶものなしの権力者徳川家康。
天下統一後、手を緩めることなく、秩序を乱すものの駆逐をすすめていく。
その標的に「文化人」も。
「織部好み」と呼ばれる独自の意匠をを流行させた「古田織部」
”織部の美的センスはカブキに通じる” のち切腹に。
光悦も、 同じ道をたどっていた可能性は極めて高い…
実は 「宗達」も当初は一緒に鷹峯に…の思いはあったのですが~光悦から話が合ったその時
何故か断っている…そして 本業の俵屋の「扇」に。
そのころ天下人 秀吉がなくなり 大きく時代のうねりが始まる
そして 稀代のペテン師? 公家の「烏丸光広」との出会いで 大きく変わっていく。
相国寺「蔦の細道図屏風」 六曲一双の屏風絵 宗達。
あら不思議 左右どちらに並べてもつながる
次に手掛けた大作 「西行法師行状絵詞」
平安時代の歌人、西行法師の行脚と詠吟の生涯を描いた伝記的絵巻物だ。
古くから絵巻物表現の最高峰のひとつと謳われてきた。
その模写を自分のものにしたい…。詞書は烏丸光広が。 下段は第1巻のもの。
現在 東京出光美術館蔵 宗達の模写 絵には宗達の印はないが
光弘詞書(下段)に署名花押アリ
まだ、まだ 続きますが また明日に。