黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

「棟方を追いかける~」第9話

2024-05-01 | 日記

 今日から㋄ ゴールデン・ウイークというものの朝から雨。

どこに行くというあてもさらさらなし。

ゴールドでなく、事実が「シルバー」の私。

出れば、何かとものいりとなる。

 じっと家で静かにこのブログのキーを叩く。

も、そしても、

みな「金(かね)」が付いてのこと。

ここはゆっくりと過ごすにするか・・・・。

 

さて、こんな日は、 じっと何かを見つめていろいろ考え

自分の過去の読書風景を振り返ってみるのもいいではないか?

好みもあるから、ひとそれぞれ。

 

 この棟方志功も、大忙しの板画制作の中に、小品としての

「装画本」の仕事も多数引き受けているのには驚き。

どこまで奥深いかたなんだろうと~

 今日は無差別、解説なしにご披露いたします。

本を買うとき・・この挿画ってのも、大いに関心ごとではある。

なんと棟方は、現在確認されているだけで書籍が600冊。

雑誌を始めとする刊行物1000冊以上という装画を手掛けているのだ。

  みているだけで楽しいいよ! じゃ、行きますよ・・・

 

        

 

    

 

 

       

 

   

 

    

 

   

 

   

 

   

 

   

  

 

 

              上の一部分を拡大します。

     

 

  最後に  谷崎潤一郎を

 

 

       

 

    

 

   

 

  いかがでしたか 素晴らしい挿絵 作品を十分に理解したうえで制作に向かっている。

  彼の卓越した才能・・・シャッポ脱ぐしかないようです~

 

    ではまた ゴールデンウィーク 皆様なりにお楽しみください! 

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「棟方を追いかけよう~」第8話

2024-04-30 | 日記

 少し戻りまして…

 昭和26年 年末 東京都杉並区荻窪に居を移す。     

 

 

                   (中央 赤い部分が画室)   

 この家は、洋画家鈴木信太郎の家を周旋してもらったもの。

 東側一面が天井までガラス窓になっている20畳ほどの本格的な画室

 家の中心になっている。

     

   石門のポストには郵便屋さんのために

  「有り難く」と書かれていた。手紙が好きで青梅街道角のポストまで

   投函に行くのが日課だった。

    

  数年後増築した「裏の家」に設けられた囲炉裏の間。

  床には大谷石が敷かれ、窓際にはお気に入りの飾り棚があった。

       *後ろにある大きな陶器の皿は…きっと濱田庄司さんの作?

 

 昭和29年  棟方52歳

 すでにアップしていますが、この年の1月、 棟方邸で裏千家の企画で、

実験茶会」を開催しています。

      

 7月には第3回サンパウロ・ビエンナーレに「二菩薩釈迦十大弟子」

 「湧然する女者達々」を、出品し、版画部門最高賞を受賞する。

昭和31年 53歳

 6月 第28回ヴェネチア・ビエンナーレに「二菩薩釈迦十大弟子」

 「柳緑花紅頌」などを出品し、国際版画部門大賞を受賞。

    

 

  昭和31年    <鍵板画柵>

昭和31年 谷崎潤一郎が、雑誌「中央公論」の正月号から書き下ろした小説を

連載するにあたり、挿絵を棟方にと希望した。

         

小説の進行にあわせて板画を制作するのはかなりの緊張を要したようだが

棟方はそれまでの板画技術の粋を駆使し、最大限の印刷効果を上げる工夫うを

こらしてこれに応えた。その結果、小説、挿絵ともに連載当初から評判を呼び、

棟方が装幀単行本も記録的なベストセラーとなった。

      

 

    <鍵板画柵>

              大首(おおくび)の柵

      

 

            <大鏡(おおめがね)の柵>

       

 

              <腹鏡(はらめがね)の柵>

       

 

          <艶杯(えんぱい)の柵>

       

 

「鍵」の連載から谷崎の都合で中断した3ヶ月の間、一度決まった制作意欲

 を維持するべく、棟方は谷崎の歌を板画にしたいと願い出た。

 快諾した谷崎が主に戦後に詠んだ和歌の中から24首を自選。

 これを棟方は1ヶ月ほどで彫り上げた。

 棟方は「刀を使い切ったということでは、「歌々板画柵」が極限のような

 気がする。

  特に三角刀はこの板画24枚で初めて会得したようなものだ」と述べ、

 「わたくしの、板画への大きな道をつけてくれたような」作品であると

 自賛している。

            <花見の柵>

      

 

            <夕涼の柵>

      

 昭和32年 54歳

 鎌倉市津(鎌倉山)にアトリエ「雑華山房」を持つ。

志功は、四季とりどりの富士山や相模湾を望む鎌倉市鎌倉山に、

別荘 兼アトリエ「雑華山房」を構えました。

 国際展での輝かしい受賞などで一躍時の人、となった棟方は

作品の注文や、来客が絶えず多忙を極めていました。

そうした喧騒から離れ、制作のための時間と落ち着いた環境を

確保できる場所がこの雑華山房でした。

 1970年(67歳)頃には制作だけでなく生活の拠点も東京の自宅

からここに移しました。 

   

 

 

 昭和34年 56歳

  この年の1月、初渡米。欧州各地で巡回展。 11月に帰国。

  この項については、前回にアップしています。

 

         次回は 「挿画本」について

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「棟方を追いかけよう~」第7話

2024-04-29 | 日記

 国際派としての棟方の活躍ぶりはご紹介した通りですが

時代を戻して、戦後以降の活躍ぶりを追いかけます。

 

昭和22~23年 44歳の時、小品の板画を多数制作発表している。

 そのうちのひとつ。 <挿頭花(かざし)板晝柵>

   *平安時代、髪や冠にかざした花や枝、造花を「挿頭花」と呼んだ。

    後の「かんざし」に通じる。小さくて可愛いという気持ちでつけたという。 

       

       

 

     

 

 戦後、疎開先、富山県福光町で家を建て住んでいる近くに棟方が愛した

 小川があった。この川には河童が棲むという。志功が描く河童の絵を

 見ながら、村人たちが真顔で敬意を示し棟方は、河童の棲む小川を

 「瞞着川」(だましがわ)と名付け、白昼夢のような物語を記して板画絵巻とした。

 数多くの詩歌や物語を板画にしている棟方だが、自作の随筆を作品にした

 のはこの作品ひとつである。

  現地の名付けられた川

  

       

  

           <瞞着川板晝柵> 全39点のうちの作品

   

 

 昭和24年 46歳 

 岡本かの子作「女人観世音」12枚を発表   

    

            <女人観世>

       

      <表の柵>             <名の柵>

 

 >             

            <仰向妃の柵>

 

  

             <牡丹の柵>

 

   <無碍(むげ)の柵>        <優色(ゆうしき)の柵>

 

岡本かの子著(観音経)に掲載された「女人ぼさつ」の詩に

「ふるいつくほど憑かれた」棟方が、11年の歳月を経て仕上げた作品。

 女性を礼賛してやまない棟方にとって、詩の中の「女人われこそ観世音ぼさつ」

というリフレインが、どれほど画魂に響いたことだろうか。

「文字によって板画が生まれ、文字がこの板画の良さを決定したところまで、

 上がってきているように思います」と述べている。

 

    昭和27年 第2回ルガノ国際版画展で優秀賞を獲得

      「世界のMunakata」への第一歩となった。

 

 昭和28年 50歳

 4月、国画会展に吉井勇の歌31首を版画にした「流離抄板画柵」を出品する。

  吉井勇の最新歌集「流離抄」に題を取る

          

  吉井自ら代表的歌集10冊から年代順に選んだ31首を棟方に託したもので

  棟方は正味1ヶ月で仕上げている。

  日頃仕事の早い棟方としてもこの作品にかけた日数は異例に短く、それに

  反比例して完成度は非常に高い。いかに、吉井の歌に棟方が惹かれたかが

  うかがい知れよう。

   作品は評判を呼び、棟方の名前は全国的に知れ渡るようになった。

               吉井勇の歌

          

   <角屋の柵>            <獅子窟の柵>

    

 

   <孤狼(ころう)の柵>           <屏風の柵>

    

 

  <広鮱(ひろはた)の柵>             <天狗の柵>

    

 

  同じ年に 「雄然する女者達々」を発表

 一切経の主要6経典を6人の女体で表現したもの。当初は女体を横にした

 組み合わせで「大蔵経板画柵」と題して発表したが、昭和30年

 サンパウロ・ビエンナーレには縦にして出品。 現代に改めた。

  湧き上がる女体となだれこむように没する女体とを、丸刀一本で彫り上げ

 非常に力強く、躍動感あふれる構成をなしている。

 棟方は多くの女体像のなかでもとりわけてこの作品を好み、「女者(じょもの)

 という感じを、いっぱいにつもったもの」と述べている。

         <湧然(わくぜん)の柵> 

         <没然(ぼつぜん)の柵>

 

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「棟方を追いかけよう~」第6話

2024-04-28 | 日記

棟方が、日本を飛び出し、海外へ渡ったのは彼が56歳の時

それまでに海外での棟方の作品の評価は受賞のたびに人気を増していた。

 49歳の時、スイス・ルガノで開催された第2回国際版画展に

「女人観世音」を主品し、日本人初の優秀賞を受賞。

     <女人観世音 仰向きの柵>  

   

丁度その年の10月、欧米講演巡行中の柳宗悦が企画した初の海外個展が

ニューヨークのウイラード・ギャラリーで開催される。

52歳 7月

第3回サンパウロ・ビエンナーレに

「二菩薩釈迦十大弟子」「湧然する女者達々」を出品し、版画部門最高賞

を受賞する。

  

 

 53歳 6月

第28回ヴェネチア・ビエンナーレに「二菩薩釈迦十大弟子」「柳緑花紅頌」

等を出品し、国際版画大賞を受賞。

          「柳緑花紅頌」

 

 

こうした実績を持って、彼が初の海外へ旅発ったのが・・・

 56歳、1月、 ロックフェラー財団とジャパンソサエティの招待で

渡米・欧米各地で巡回展。そして滞在中の彼の制作。

    この旅行中の彼を追いかけてみることにしましょう。

昭和34年(1959) 56歳

1月26日に横浜港を出発し、㋁18日にニューヨークに到着。

少年時代、パナマ運河開通(1914)のニュースは強い印象を残した。

船が山を越える様をいつか見てみたい、という長年の夢を叶えた棟方は

300日に及ぶ欧米滞在中最も感動したのがパナマ運河だったと語っている。

 

初めてのアメリカ滞在中、彼はニューヨーク、ボストン、クリーブランド

シカゴ、サンフランシスコの大学で日本美術と板画の講義を行った。

 ニューヨークを拠点にして制作も貪欲に行い、ウイラード画廊で個展を

開催している。

  ニューヨークの朝、書を制作中の棟方。

        筆で何枚も何枚も、素早い速さで揮毫した。(1959)

   

 この渡米に大きく関わったのが、アメリカ屈指の財閥

三代目デイヴィッド・ロックフェラー氏とその夫人。

  

日本には使節団訪日の後、再来日し、その折に柳宗悦を介して日本民藝館

で棟方志功と面会し、夫人は棟方の<鐘渓頌>を購入している。

棟方自身も柳に手紙を出し 「…ロックフェラー様の厚志の程と、先生が

つくしてくださった御恩の程を拝伏してゐます」と述べている。

 棟方がロックフェラー夫婦と知遇を得たことは、その後の彼の人生を左右

したともいえるだろう。

 

 この年の3月25日、フィラデルフィア在住の石版画家、

 アーサー・フローリーに会い、美術学校の版画工房を見学、彼の自宅に

 招かれている。

 フローリーは棟方のためにリトグラフ用ババリアン石灰石七個を用意し

 食後に制作に取り掛かった

 のだが、その夜のうちにすべての作画を終えた棟方の素早さにフローリー

 は驚愕した。

    フィラデルフィア在住のの石版画家・アーサー・フローリーの

   版画工房での制作風景。 石板に作画する棟方。

  

    アーサー・フローリー氏のリトグラフ工房にて

           棟方とフローリー

   

      

      <日月の柵>

    フィラデルフィア滞在中に制作したリトグラフ作品

         棟方自身が美術館に寄贈した。

    

          

           

            フィラデルフィア美術館

 なんとこの美術館には棟方志功の自画像が四点収蔵されている。

 そのうち二点が1959年の最初の渡米時にニューヨークで制作した木版の

 自画像<ハドソン河自画像>がある。

         

 

  米欧滞在中、棟方は夥しい数のスケッチを残し、風景版画を多作

  <摩奈那波門多(マンハッタン)に建立す>の大作も着手

 

 また、かねてより邦訳で愛唱していた

 ウオルト・ホイットマンの詩集「草の葉」を求め、英字を彫り込んだ

 抜粋板画12点を制作した。

      

  

 滞米欧中の作品は実際の景色を板画にしたものが大多数を占める。

 が、自画像板画が目を引く。それまで彼は油絵の自画像を数点残しているが

 板画は、年賀状以来、1点も彫ってない。

 初めて海外に出、改めて自分を見つめ直す機会を得たということであろうか。

 <ニューヨークの自由の女神の柵>

      

 <ホイットマン生家の柵>

  

 <巴里ノートルダム寺院の柵>

  

 <オーヴェールのゴッホ兄弟の柵>

          ゴッホ兄弟の柵.jpg

 棟方がゴッホに憧れて画家を志したのは有名だが、ヨーロッパ旅行での目的のひとつが

 オーヴェール行きであった。妻(チヤ)の眉墨で拓本を取ったゴッホの墓は、深く長く

 棟方の心に留まり、最晩年に自分の墓を設計した時の手本となった。

   <オーヴェールの兄弟の墓の柵>は、その時のスケッチをもとに板画にしたもの。

   実際のゴッホの墓              棟方夫婦の墓

            

 

  

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棟方を追いかけよう~第5話

2024-04-23 | 日記

棟方の周りには、まさに綺羅星のような友人がいた。

そのジャンルは広く、その影響が彼の生涯に多大なる財産となっている。

 彼、「草野心平」もその一人。

 詩人。棟方と同じ東北人、明治36年㋄(福島県、現在のいわき市)出身。

 棟方が明治36年9月の青森県生まれ。

 「わだばゴッホになる」草野の詩から広まる。

 

    

 昭和49年 

  草野は棟方の生涯を讃えた「わだばゴッホになる」という詩を書いた。  

   表題のことばは、正確には棟方自身の言葉ではない…という。

   東北弁の一人称の「我(ワ)」に「だば」という

   「強調を表す青森弁の助詞」を付けたことで、草野は棟方志功という

    人間を一瞬にして浮かび上がらせた。見事な言葉の魔法である。

    詩人の力に敬服するばかりである。】    

                       別冊太陽 製作スタッフ言より引用

    

 

 同い年、東北の出身です。 とても仲良し・・・。

 こんなエピソードが

 一緒にインドに旅した際、右眼失明の草野と、左眼失明の棟方と

 「二人合わせしても一人分だな」と笑い合ったという。

      

 二人の付き合いは長い。

 棟方は宮沢賢治と親交があり、その宮沢の作品の紹介に尽力したのを

 きっかけに知り合ったのではないか…。と。

     

  *棟方は、宮沢賢治の詩「雨にも負けず…」にを手掛けている。

    

  しかし、草野の詩を棟方が作品にするまでには、その後、長い年月

 が経過する。

  はっきり二人の接点が残っているのは、草野の詩集「亜細亜幻想」

見返し画の依頼を受けた。が、この時はかなわなかった。             

 昭和31年に

 草野の連作の詩「富士山」の中から制作。       

 草野はこの作品に対して「棟方が勝手に作った」という。

 詩は一言一句、句読点一つで印象が変わってしまう言葉と文字の

 芸術だ。だから 自分の詩を「板」にすることに一抹の不安が

 あったのではなかろうか…と、草野は語る。

 しかし、棟方は、最大限の配慮を見せて見事に作品と一体化させた。

 

 これを機に、草野の詩をもとに「富獄頌」を制作。     

 翌年、詩画集【富士山】が岩崎芸術社から刊行された。

     

  「富獄頌」

      <表題の柵>

     

 

   <赤富士の柵>

   

 

  <三百の龍よの柵>

 

 

   <門扉の柵>

        

   <大天竜の柵>

 

   <青銅の富士の柵>

 

   <満天に海の柵>

 

   <黒むらさきの柵>

 

   <春の柵>

     

   <黒いさんてんの柵>

  

 

   第4話の中で~

   棟方が、茶席でベートーベンの第九。 を流す ♪♪♪ 

   追加でご紹介します!

   こんな板画もありました。昭和38年 木版 彩色

      <歓喜自板像 ・第九としてもの柵>

夢を喰うといわれる猿の木像を枕に、河井寛次郎、濱田庄司らの壺や茶碗、鎌倉の庭にある

朝鮮型の石灯籠や竜舌蘭、自分の分身ともいうべき板刀、大好きな撫子、桔梗、朝顔、ライラック

の花々などの中に、陶然として横たわったている

      

   

    分厚い眼鏡、板に鼻をこすりつけるような姿勢・・・

       ものすごい勢いで筆を走らせ・・・

          彫刻刀を動かす姿・・・

      時々、意味不明な 大きな声で 吠える? 

           そんな仕事ぶりが 目に浮かびませんか?

   

    こんな 写真もありました。

  

 

   志功さん!  どこから  あなた そんな エネルギーが出てくるの? 

          圧倒! 驚嘆!   敬意を表します・・・

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続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。