棟方が、日本を飛び出し、海外へ渡ったのは彼が56歳の時。
それまでに海外での棟方の作品の評価は受賞のたびに人気を増していた。
49歳の時、スイス・ルガノで開催された第2回国際版画展に
「女人観世音」を主品し、日本人初の優秀賞を受賞。
<女人観世音 仰向きの柵>
丁度その年の10月、欧米講演巡行中の柳宗悦が企画した初の海外個展が
ニューヨークのウイラード・ギャラリーで開催される。
52歳 7月
第3回サンパウロ・ビエンナーレに
「二菩薩釈迦十大弟子」「湧然する女者達々」を出品し、版画部門最高賞
を受賞する。
53歳 6月
第28回ヴェネチア・ビエンナーレに「二菩薩釈迦十大弟子」「柳緑花紅頌」
等を出品し、国際版画大賞を受賞。
「柳緑花紅頌」
こうした実績を持って、彼が初の海外へ旅発ったのが・・・
56歳、1月、 ロックフェラー財団とジャパンソサエティの招待で
渡米・欧米各地で巡回展。そして滞在中の彼の制作。
この旅行中の彼を追いかけてみることにしましょう。
昭和34年(1959) 56歳
1月26日に横浜港を出発し、㋁18日にニューヨークに到着。
少年時代、パナマ運河開通(1914)のニュースは強い印象を残した。
船が山を越える様をいつか見てみたい、という長年の夢を叶えた棟方は
300日に及ぶ欧米滞在中最も感動したのがパナマ運河だったと語っている。
初めてのアメリカ滞在中、彼はニューヨーク、ボストン、クリーブランド
シカゴ、サンフランシスコの大学で日本美術と板画の講義を行った。
ニューヨークを拠点にして制作も貪欲に行い、ウイラード画廊で個展を
開催している。
ニューヨークの朝、書を制作中の棟方。
筆で何枚も何枚も、素早い速さで揮毫した。(1959)
この渡米に大きく関わったのが、アメリカ屈指の財閥
三代目デイヴィッド・ロックフェラー氏とその夫人。
日本には使節団訪日の後、再来日し、その折に柳宗悦を介して日本民藝館
で棟方志功と面会し、夫人は棟方の<鐘渓頌>を購入している。
棟方自身も柳に手紙を出し 「…ロックフェラー様の厚志の程と、先生が
つくしてくださった御恩の程を拝伏してゐます」と述べている。
棟方がロックフェラー夫婦と知遇を得たことは、その後の彼の人生を左右
したともいえるだろう。
この年の3月25日、フィラデルフィア在住の石版画家、
アーサー・フローリーに会い、美術学校の版画工房を見学、彼の自宅に
招かれている。
フローリーは棟方のためにリトグラフ用ババリアン石灰石七個を用意し
食後に制作に取り掛かった
のだが、その夜のうちにすべての作画を終えた棟方の素早さにフローリー
は驚愕した。
フィラデルフィア在住のの石版画家・アーサー・フローリーの
版画工房での制作風景。 石板に作画する棟方。
アーサー・フローリー氏のリトグラフ工房にて
棟方とフローリー
<日月の柵>
フィラデルフィア滞在中に制作したリトグラフ作品
棟方自身が美術館に寄贈した。
フィラデルフィア美術館
なんとこの美術館には棟方志功の自画像が四点収蔵されている。
そのうち二点が1959年の最初の渡米時にニューヨークで制作した木版の
自画像<ハドソン河自画像>がある。
米欧滞在中、棟方は夥しい数のスケッチを残し、風景版画を多作
<摩奈那波門多(マンハッタン)に建立す>の大作も着手
また、かねてより邦訳で愛唱していた
ウオルト・ホイットマンの詩集「草の葉」を求め、英字を彫り込んだ
抜粋板画12点を制作した。
滞米欧中の作品は実際の景色を板画にしたものが大多数を占める。
が、自画像板画が目を引く。それまで彼は油絵の自画像を数点残しているが
板画は、年賀状以来、1点も彫ってない。
初めて海外に出、改めて自分を見つめ直す機会を得たということであろうか。
<ニューヨークの自由の女神の柵>
<ホイットマン生家の柵>
<巴里ノートルダム寺院の柵>
<オーヴェールのゴッホ兄弟の柵>
棟方がゴッホに憧れて画家を志したのは有名だが、ヨーロッパ旅行での目的のひとつが
オーヴェール行きであった。妻(チヤ)の眉墨で拓本を取ったゴッホの墓は、深く長く
棟方の心に留まり、最晩年に自分の墓を設計した時の手本となった。
<オーヴェールの兄弟の墓の柵>は、その時のスケッチをもとに板画にしたもの。
実際のゴッホの墓 棟方夫婦の墓