徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

ー日本語(言葉)あれこれー

2007-10-24 17:20:00 | 寸評

もう、大分昔(?)のことになりますが、「うざい」「きもい」などと言う言葉を、女子学生が喋っているのを聴いて、大体の察しはついても、初めは意味がよく分かりませんでした。
こういう言葉が、国語として新たに認められることになったようです。

新聞の記事によりますと、国語辞典の「広辞苑」が、来年一月発売のものから、大きく改訂になり、若者の言葉を含めて一万語が追加され、そのうち四割はカタカナだと言うことです。
「広辞苑、めっちゃ変身」と言う、大見出しが踊っていました。
それも、何と一万語の追加ですって

それは、そうですね。
次から次へと、新しい言葉が生まれてくるのですから・・・。
一体、誰が、どんな時に、どのようにして、こうした言葉をつくってしまうのでしょうか。
特に、若者言葉は、中高年には分かりずらいものです。
表現、表情から、それでもおおよそどんなことを言っているのか想像はつきますけれども・・・。
まあ、私たちは、まず「うざいねえ」「うざいなあ」なんて言葉は使うことはありません。

国語辞典の今回の改訂は、岩波書店では十年ぶりのことで、新たな一万語を加えて、収録語数は総数24万語となって、これは過去最大だそうです。
このたびの編集方針の一つは、やはり「若者言葉がどうもわからない」という、高齢者の要望にも応えたことです。
とはいえ、元からある分厚い冊子版は、国語辞典の王様で、多くの人に愛用されてきましたが、今のIT時代に好調な電子辞書と比べると、かなりの苦戦を強いられているようです。
まだ使ったことはありませんが、確かに、電子辞書も便利は便利でしょうね。
でもねえ・・・。

電車やバスの中の会話で、「うざい~」「めっちゃ~」「きもい」など、よく耳にする言葉です。
・・・新「広辞苑」になると、例えばこうなります。
「うざい~」は、「うっとうしい。気持ちが悪い」に(「うざったい」を略した俗語)と説明がつくし、「めっちゃ」の用例は、「めっちゃ腹立つ」となるのです。
「きもい」は、見た目に明らかに気持ちが悪い場合に使われる例が多く、この「きもい」と言う言葉は、1970年代に既に存在した言葉で、若者を中心に会話の中で使う頻度が増したのは、1990年代後期に入ってからだと言われます。
今ではもう一般的になった、「おしん」「メタボリック」「ブログ」「顔文字」「ニート」「いけめん」「クレーマー」「デパ地下」「さくっと」「逆切れ」と言った言葉などは勿論ですが、「きときと」「めんそおれ」といった各地の方言も、改訂版には追加されるようです。
こうなってくると、どうも、何事も、日頃から<勉強>が大切(?)なようで・・・。
いやあ、知らないでいると、笑われてしまいます。

このところの、ITの目覚しい普及で、書籍の市場は厳しく、それに少子化で、辞書は書店に積み残されている状態です。
日本語の文字の意味も当然ですけれど、読み方、書き方だって大切ですよね。
何たって、日本人なのですから・・・。
特に、国語の先生には頑張って頂きましょう。
時代の移り変わりとともに、新しく生まれる言葉も、それぞれが確かな<意味>を持って生まれてくるわけですから、「そんなものは・・・」などと言って、無視できない環境にあることも事実です。
新しい国語辞典に収録される項目の解説は、大いに参考になります。

・・・ところで、話は異なりますが・・・。
新しく生まれてくる、雑駁ないわゆる俗語は、ことほど左様に砂の数ほどありますけれど、古来日本語は実に美しい言葉で、語彙が豊富で、音韻も繊細で、確かな意味を持ち、一語一語にそれなりに深いニュアンスがあります。
こんな言い方をしたからと言って、決して我田引水とは思っていません。

古くからある日本語をちょっとだけ紐解いて見ますと・・・。
例えば、『自然』の言葉を拾って見れば、「
かわたれどき」「朝惑い」「うそうそ時」「灯点しごろ」「小夜すがら」「月の雫」、『秋』の言葉では、「秋渇き」「秋の扇」「秋の声」「末枯れる」「夕紫」「夕眺め」「松の声」「色なき風」、『冬』になると「雪暮れ」「天花」「忘れ雪」、他にも「緑の雨」「身を知る雨」とか、美しい日本語は沢山あるんですね。
こうした言葉の持つ意味、言葉通りもあれば、少し解釈に頭をひねるものもありませんか。
全部、分かりますか。えっ、分かる・・・って、それはすごい
・・・個人的には、例えば『別離(別れ)』とは言ってもいろいろありますが、昔からの「きぬぎぬの別れ」なんて、何とも言えないいい言葉です・・・。

余談ですが・・・、こうした世界に例を見ない、微妙で繊細な日本語の外国語訳って、難しいでしょうね。
川端康成さんの名作「雪国」を、原語と英訳とを並べて読み比べたことがありました。
サイデンステッカーさんは、日本語の持つ深い味わいをよく理解されているようで、さすがに名訳だと思いました。
ノーベル文学賞の川端康成さんは、日本語の表現の美しさで右に並ぶ人のいない至高の方ですが、彼の晩年の著作に「美しい日本の私」と言うのがあります。
この作品の表題は、はじめ「美しい日本私」でした。
それを、熟慮に熟慮の末に、「美しい日本私」を、あとで「美しい日本私」と一字だけ訂正したいきさつがあります。一字ですが、文豪川端康成にして、そこまでこだわったのですね。
しかし、この一字を変えるだけで、意味はがらりと違ってきます。
このことに気づかず、サイデンステッカーさんは「美しい日本私」と英訳してしまったのでした。
そこまで言葉(日本語)と言うものを大切に考え、推敲する、作家の偉大さを感じたものでした。