岐阜県瑞穂市居倉 字中屋敷
天神神社がその場所です
神獣文鏡6面や硬玉製を始めとする30個余りの勾玉が出土しているとのこと。
倭姫が、坂田神明宮よりこの地に移り、4年(現在の2年)滞在。
倭姫命は生津から2艘の木船で川を下り、尾張国神戸(現一宮市)にたどり着き、中島宮に滞在。
このように言伝えられています。
右下に 豊受神社 がありますけど、そこが 「生津」です。
でも、ここから船で一宮に行けるのか?どうしてもそこが引っかかります。
当時の長良川と木曽川の流れが分かりませんが、普通に考えると無理があるように思います。
濱神明社(一宮市)倭姫の船がつながれた場所と言う伝説があるそうです。
他にも、一宮市にはいろいろ倭姫のまつわる話があるようです。
今回はその話ではなく、伊久良河宮の近くに、「宗慶大塚古墳」と言う古墳があります。
そこのレイラインを見ると
東谷山の尾張戸神社古墳にピタリと照準が当たります。(冬至の日の出)
宗慶大塚古墳の埋葬者は、神大根王(かんおおねのみこ)と言われています。
おいらもそうだと思います。
もう一つレイラインがあります。
冬至の日の入りが、昼飯大塚古墳を通ります。真ん中じゃないですね。
両方の古墳の築造時期は、4世紀後半と考えられるそうです。
親子ならば年齢差は20年ぐらいなので昼飯大塚古墳の埋葬者は、神大根王の息子と考えていいのでしょう。
でも、一つ気になることがあるのです。
神大根王は、彦坐王の子と言われています。朝廷別王より年上のはずです。
すると、亡くなった年代は4世紀前半になります。
神大根王の母親は、息長水依比売。でも、息長氏の姿は彦坐王の時代には見当たりません。
分かりやすいように、彦坐王の妻とされている人とその代表的な子の名前を書いてみます
妻 子 子の生まれた推定年
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山代之荏名津比売 大俣王 248
沙本之大闇見戸売 沙本毘古王(サホヒコ) 250 =大国主=伊勢津彦
息長水依比売 神大根王 255 (この年代が疑問)
(父親が天之御影神)
袁祁都比売命 山代之大筒木真若王
丹波之河上之摩須郎女 朝廷別王 265 =サタヒコ=猿田彦=スクナヒコナ
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息長水依比売の父親はと言うと、天之御影神(あめのみかげのかみ)です。
御上神社の祭神ですね。御上神社からのレイラインが衆良神社(すらじんじゃ)を通るということから、御上神社を建てたのは、朝廷別王=サタヒコ=猿田彦
と考えます。
そうすると、天之御影神=朝廷別王=サタヒコ=猿田彦になります。
さらに、息長水依比売は天之御影神の子ではなく妻で、その子が神大根王かも。
時代を合わせるための操作のようです。
そうすると、事実が当てはまるようになるのではないかな(少し強引すぎる?)
つまり
猿田彦=朝廷別王=山代之大筒木真若王=天之御影神
アメノウズメ=丹波能阿治佐波毘売=息長水依比売
神功皇后までの親子関係は次のようになります
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山代之大筒木真若王 (やましろのおおつつきまわかのみこ)=朝廷別王
↓
迦邇米雷王 (かにめいかずちのみこ)
↓
息長宿禰王 (おきながのすくねのみこ)
↓
神功皇后
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神大根王=迦邇米雷王とすると、昼飯大塚古墳の埋葬者は息長宿禰王となります。
神功皇后の父親ですね。
年代を検証してみましょうか。
倭姫が坂田神明宮に来た年が、296年ぐらい、12歳ぐらいの年齢です。
その時、朝廷別王は30歳ぐらいです。その頃に、迦邇米雷王 (かにめいかずちのみこ)が生まれたとしましょう。
そして、その20年後に子である、息長宿禰王 (おきながのすくねのみこ)が生まれたとすると
316年頃の生まれになります。
神功皇后はその子なので、さらに20年をプラスすると336年頃の生まれです。
神功皇后についての説はいろいろあります。
どれが正しいのかは分かりませんけど、いつも参考にさせて頂く水石の美を求めてを見せてもらうと、以下の説明があります。
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神功皇后の没年は書紀紀年では269年であり実年代では干支二運(120年)を繰り下げた389年
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どうでしょう?ピタリですよね。
宗慶大塚古墳の築造時期は、4世紀後半と言うことも納得が出来ると思います。
ということは、彦坐王は、伊久良河宮付近に住んでいなかったことになります。
そして、息長水依比売と、袁祁都比売命は妻ではないことになります。
そうなると、伊吹山付近での製鉄を始めたのは彦坐王ではなく、その子の朝廷別王と言うことになります。
しかも、彼が佐田彦(サタヒコ)もしくは、少彦名(スクナヒコナ)として出雲で活躍していた後
の時代と思います。
何処かで製鉄の知識を習得していたので、大垣にある金生山付近の「鉄」に気が付いたのが始まりかもしれない。
彦坐王が、そのことに気が付いていたならば、その地を通り過ぎて行くはずがありません。
今回も意外な展開になりました。通説からするとかなり驚く内容ですけど、
アメノウズメが日本海側の何処かの生まれで、倭姫の時代に猿田彦(朝廷別王)と近江にやって来た。
その子が、神大根王で伊吹山付近で製鉄を始めた。
その鉄製品が、大垣の港から熱田神宮経由で伊勢や、三河、そして関東に流通したと考えられないだろうか。
その大きな財力の結果が昼飯大塚古墳なのでしょう。
今までのこのブログの流れで、朝廷別王は伊勢津彦と三河で出会い、その後諏訪に行き
さらに、越にたどり着きます。その後、いったん尾張に帰りますけど、そこからどのような
過程で出雲に行ったのかは全く分かりません。
伊勢津彦についても同様で越からの足どりと年代が分かりません。
おそらく、越から船で出雲に行ったのでしょう。
これらは、今後の課題です。
しかし、朝廷別王(サタヒコ、猿田彦、スクナヒコナ)は、倭姫との関係で出雲より近江そして、大垣に来ています。
アメノウズメを連れて来たのもその時代でしょう。
晩年は猿投で暮らし、その墓は、猿投神社西の宮にある「大碓命墓」で、その後
青塚古墳に移されたと思われます。
朝廷別王と言う名前は、朝廷にはなれない王と言う意味のようですけど、最初のころなんでそんな意味なのか不思議でした。
しかし、いろいろ調べていくと、この当時ものすごい権力と財力を備えた人物と言うことがわかります。
青塚古墳はその象徴なのだと思います。
当然ですけど、この「朝廷別王」(みかどわけのみこと)と言う呼び名は後から誰かがつけた名前でしょう。
サタヒコ、スクナヒコナそれと、子供のころからの名前はどうなのか分かりませんけど、
それくらいが本人が使っていた名前かと。
彼の名前の多さは、彼の存在を隠そうとするために後からつけられたような気がします。
次回からは、日本海側での朝廷別王の足跡を調べてみたいと思います。