たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

猿田彦その 32 居多神社と糸魚川の間

2022-01-28 08:05:58 | 歴史
居多神社は、関川。

その西にあるのが、名立川。ここには、江野神社があります。

もとは、鳥ケ首岬の崖上、竹の内という地に鎮座していたそうです。

正確な場所はわかりませんけど、このあたりでしょう



御祭神
建御名方命 事代主命 大己貴命 素佐能男命 稻田比賣命 

そして、屋主忍男武雄心命 影姫命 武内宿禰命。こちらは後から祭られたと思います。


関川と名立川の間の細い川は開発しなかったかもしれません。

そして、その次は 能生川(のうがわ)。ここが、権現岳からの川です。

次が、早川。 奴奈川神社(田伏)があり、五社神社も3か所あります。

さらに、佐多神社もあります。



さすがに、姫川の河口付近にはサタヒコ達の関係する場所はありませんけど、

支流の、小滝川には、小滝 諏訪神社があります。


サタヒコ達は、関川、名立川、能生川、早川 と次々に田んぼを作っていったのではないだろうか?

1年に1か所とすると、4年かかったことになります。

越にはわりと長い間滞在していたかもしれません。

前にも書きましたけど、翡翠の加工する場所が糸魚川から居多(こた)神社のある、関川に

移動したのは、食料つまり「米」が関係するかもしれません。


権現岳からの川である、能生川には、「柵口」(ませぐち)と言う地名があります。

ウィキペディアより引用
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「柵」と言う字は、しがらみと読めば、水流の向きを変えたり水流を抑えるために川の中に設けたものを指す
稲作が伝来し水田耕作が始まると灌漑が広まり、利水目的で河川からの取水用にしがらみが造られるようになった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

たしか、弥生時代の稲作は、陸稲(おかぼ)だったように記憶しています。

サタヒコ達は、陸稲ではなく水稲を栽培していたのでしょうか。

あまり稲の事は詳しくないので深くは検証できません。

















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