YS Journal アメリカからの雑感

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水神森

2010-05-25 08:29:55 | 非常に個人的な昔話
生まれた家の直ぐそばに、肱川が流れていた。山の間を縫って流れるので流れが速かった。今思えば、水量はそれほどでもなかったと思うが、台風や大雨の後は増水する事もあり、私が小さい頃にはまだ木製であった橋は、崩壊して流れてしまった事があった。

野村ダムが出来るまでは、河川工事などはされてなく、山間の河岸段丘の真ん中をくねくねと流れていた。平野部の一番幅広い(といっても500メーター位?)所の真ん中に、出島の様な小高い所があり森になっていた。川はそこに当たって左に蛇行していた。この森が水神森、川が当たる正面は淵になっており、「でんがブチ」と呼ばれていた。(と思う)

水神森の裏側と、川の行かなかった右側の平野(といっても猫の額くらい)に、うちの田んぼと家があり、足踏み脱穀機で骨折したのもここの田んぼであった。

でんがブチは、流れが緩やかなので魚が多く、近所の人々には絶好の釣り場になっていた。かなりの大きさの鯉、フナ、ハヤドンコなどが釣れた。昔は、うなぎも上って来ていたようで、明間に唯一あったタバコ屋は、「あけまや」(明間屋?村の名前を訓読みにしただけ?)といううなぎ割烹もやっていた。うなぎは、野村ダムよりもっと下流の鹿野川ダムがで来た時点(1958年)で、うちの方までは上って来れなくなったとおもうが、「じんど」と呼ばれる漁具で、遠い親戚のおじさん(とおるおっちゃん)が鰻をとっていた記憶がある。(鹿野川ダムが出来ても、雪隠詰めの鰻が繁殖していたのだろうか?)

野村ダムの建設に伴い河川工事が行われ、蛇行していた川は真直ぐにされ、水神森もでんがブチもなくなった。うちも田んぼの大部分を失ったため、町内の離れた所に田んぼを買い、引越をした。

野村ダムの水は、みかん栽培の灌漑に使われたりしているので、因縁深いものがある。ダムの貯水池は、朝霧湖と命名され、現在はバス釣りの名所となっているらしい。という事は、鯉もフナもハヤもいなくなっているのだろう。

本当に小さな森で、昼間はなんて事のなかったが、今でも、横溝正史や京極夏彦のおどろおどろしい小説を読むだびに、うちのうらから見た夜の水神森を思い出す。

追記
ちょっと季節外れだが、宇和町の桜の名所になっているらしい。昔も明間神社から明間小学校にかけての対岸に桜があった様な。因に、水神森とでんがブチは、明間小学校の前に架かる橋から下流方向の正面にあった。

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2 コメント

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こんばんは (ninoko)
2010-05-26 01:18:33
ysjounalさん こんばんは
なんと! アメリカにお住まいなのですね!
日本に帰省された時に 
子どもの頃の思い出の場所が無くて 
お辛かったことでしょう・・

ysjounalさんの文章を読ませていただいていると
その時の光景が目に浮かぶようです

昔は近所の川で遊ぶのが 日常でしたよね
今では 護岸はセメントで覆いつくされ
子どもたちは川遊びを知りません・・

近くにある 『観音水』 には 
遊びに行かれていましたか?
日本の名水百選に選ばれており
岩場の奥から流れ出る水の美しさは 昔のままです。。
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観音水 (ysjournal)
2010-05-26 02:00:30
ninokoさん、早速お立ち寄りありがとうございます。

どうも出身地が近そうですね。

さて、例の記念碑が建っているそばにも淵があり、大きな岩があって、飛び込んだりして遊んだものでした。

小学一年の時(昭和42年)に明間小学校にもプールが出来、川の汚染も進んで来たので、その後、川での遊泳は禁止されました。その後も川で泳いで、プールでの遊泳禁止をくらったことがありました。

観音水は、遊びに行くという感じではありませんでしたが、毎夏(8月10日の様ですが)、近所の人々が集まって、お祭り(皆で集まって、食って飲んでという非常に田舎的な集まり)がありました。子供にとっては、余興のちびっ子相撲大会ぐらいが思い出です。

今では、一日に五百人も訪問するそうで、にわかに信じられません。

観音水の思い出は、また別の機会に書こうと思っています。
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