暘州通信

日本の山車

玉依姫 様 (三九八)

2013年06月26日 | 日本の山車
玉依姫 様 (三九八)
 >神道(中臣氏・物部氏)対仏教(聖徳太子・蘇我氏)の宗教戦争であると共に政権を廻る争いですね……
 ……、仰言るとおりだと思います。日本を佛教國にするという理念は当初は、聖徳太子も、蘇我氏も同じだったはずです。この当初のもくろみは見事に成功しましたが、蘇我氏の考えていた事情とははなはだ異なる方向へと進み始めました。
① このころの蘇我氏は大和朝廷をはるかに凌駕しており、聖徳太子はおろか皇室さえも膝下に置く権勢を誇っていたのですが、聖徳太子を擁する大和朝廷が、佛教導入以後めきめきと力をつけその上下関係が脅かされることになったのがひとつの理由でしょう。
② 蘇我氏と、聖徳太子一族の確執とは、つまり、日本を蘇我氏の旗印のもとに韓半島(朝鮮半島)では滅亡した【高句麗を日本に再建する野心】があったと考えられることです。

玉依姫 様 (三九六)

2013年06月26日 | 日本の山車
玉依姫 様 (三九六)
 これは仮説です。
 【蘇我入鹿】は【山背大兄王】を殺害し、その地位を不動のものとしたかに見えましたが、その実権はわずか、やがて、【中大兄皇子】と、【中臣鎌足(のちの藤原鎌足)】による【大化の改新】において、こんどは蘇我入鹿が殺害されました。
 神道は藤原氏が権力の座について復権することになりました。

玉依姫 様 (三九五)

2013年06月26日 | 日本の山車
玉依姫 様 (三九五)
 これは仮説です。
 【廐戸皇子(聖徳太子)】と、【蘇我馬子】は、佛教導入の時代には相携えて【物部氏】を討ちましたが、やがて、蘇我馬子の孫である、蘇我入鹿の時代になると聖徳太子の一族と対立するようになり、聖徳太子の子である【山背大兄王】を殺害します。山背大兄王は、死ぬとき「この一身を入鹿に賜う」と述べられたそうで、法隆寺の五重塔に収められている「泣きほとけ」は、涅槃に入られた釈迦を悼むものですが、「悲運の山背大兄王の死去を嘆いている」というおはなしすらあります。

玉依姫 様 (三九四)

2013年06月26日 | 日本の山車
玉依姫 様 (三九四)
 これは仮説です。【丁未ノ乱】により、物部氏は衰退し、【聖徳太子】と【蘇我氏】は佛教導入に向けて踏み出します。大阪四天王寺、奈良の法隆寺は、聖徳太子の建立。一方、飛鳥寺は蘇我氏のと伝わります。
 蘇我氏は、蘇我稲目-蘇我馬子-蘇我蝦夷-蘇我入鹿と四代にわたって栄えました。しかし、その出自は不明といってよく、近年は、百濟系氏族との説があります。蘇我氏の祖先には、満智、韓子、高麗、稲目などの名が見え、また、飛鳥寺建立当時の伽藍位置が、高句麗にある、【清岩里寺(廃寺)】に酷似していることなどを考慮すると、高句麗系の氏族で、渡来人だったかもしれません。

玉依姫 様 (三九三)

2013年06月26日 | 日本の山車
玉依姫 様 (三九三)
 これは仮説です。
 外国の佛教を國教として導入する急進派の【聖徳太子】と【蘇我氏】の連合勢力は、従来の神道を譲らない【中臣氏】と、【物部氏】は、反対の立場で、神道と、佛教は激しく対立しました。聖徳太子と、蘇我氏はついに武力に訴える手段を取り、【蘇我馬子】は【泊瀬部皇子】、【竹田皇子】、【廐戸皇子(聖徳太子)】などとともに、河内國渋川郡(旧、大阪府布施市 現、東大阪市衣摺(きずり)))にあった。【迹見赤檮】が弓矢を取って物部守屋を射殺しました。
【丁未ノ乱】といわれます。