暘州通信

日本の山車

●518 日本の山車 飛騨の催馬楽

2006年02月13日 | 日本の山車
飛騨の催馬楽
催馬楽は、上代のひとびとの民謡や戯歌であったものが、しだいに京の宮廷で音曲にのせて行われるようになり、平安時代に盛行した。紫式部の源氏物語にも多数引用がある。
現在61首が知られる。茨城県鷲宮町の鷲宮催馬楽神楽は国の重要文化財の指定を受けているが、日本で始まったものである。
 江戸時代、飛騨から各地に出向いて藝能を行っているが、なかでも「ひたのおどり」は有名で、歌舞伎でも「ひたのおとりはおもしろや」と、とりあげられている。
「ひたのおとり」とは、「牛深はいや」のながれをくむ「おわら」の系統に属し、高山で完成しむかしは盆踊の主要歌で、よく唄われた。加賀方面からはいったといわれ、白峰おわらに似ていた。金森氏転封のあと、お城を預かった加賀のひとたちが唄っていたものだと聞いたことがある。越中方面からはいり、越中に移ったかもしれない。
 かって高山の代官所がある「陣屋前広場」で、代官(郡代)以下役人のまえで披露されたもので、明治を迎えても受け継がれていた。
 高山祭の屋臺は、祭になると、代官所に曳かれて上覧に供した。いまの中橋はいわゆる札の辻で、高札が立ったが、橋が架けられてからはこの橋の上にならんで順番を待つことだった。地域外にある八幡祭の屋臺もかってはここまで曳いてきた。いまは存在しない八幡祭の文政臺が描画された絵がある。
 富山県八尾町のおわらは全国的に有名だが、もとは高山で行われていた、「おわら・ひだのおどり」であった。大正時代のはじめころまではおこなわれたがすっかり途絶えた。 いま八尾で行われている風の盆・越中おわらはさらに洗練されている。八尾でも明治の中期ころまでは飛騨のおわらとおなじ唄であった。

 催馬楽、浅水の橋は、下呂市の羽根の瀬にかかる橋だったとされる。

   朝むづの橋の
   とどろととろと
   降りし雨の
   古りにしわれを
   たれそこの
   仲人たてて
   御許の容姿消息
   訪ひにくるや
   さきむたちや

 江戸時代国学者田中大秀をたずねた浦上玉堂は催馬楽浅水を編曲して、高山市桜山八幡宮の秋祭に曳く屋臺・大八臺の屋臺囃子をつくり飛騨を去った。高山の屋臺囃子は催馬楽をもとにしており、玉堂の大八はのち大きな影響を与え、これを編曲した屋臺囃子はいまも大八崩しに編曲されて演奏されている。
 浅水の橋の場所には異説があり、 福井県福井市の美濃街道の分岐点にある橋を浅水の橋だとしている。
 西行法師の、

  越に来て 富士とやいはん角原の
    文殊がだけの 雪のあけぼの (西行)

 奥の細道の旅でここを通った芭蕉の
  朝六つや 月見の旅の 明けはなれ (芭蕉)

 がよく知られる。浅水の橋は西行の詩がもとだという。