暘州通信

日本の山車

●373 日本の山車 早長八幡宮祭礼

2006年02月02日 | 日本の山車
山口県光市
早長八幡宮祭礼
山口県光市室積宮町
早長八幡宮(はやおさはちまんぐう)
祭神
・応神天皇(オウジンテンノウ)
・神功皇后(ジングウコウゴウ)
・湍津姫命(タギツヒメノミコト)
・市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)
・田心姫命(タコリヒメノミコト)

祭は10月上旬
社記によれば、室町中期の文安元年(1444)に豊前国(大分県)宇佐八幡宮から勧請したとある。寺社由来 風土記注進案には、神霊は毎年12月3日に、豊後の姫島へ渡り、3月3日にお迎えした。神の乗る神船前後には、お供船が多数随行した。先頭の船には、「太平楽」の文字を縫いとった大幟二張をたて、わかものが「木遣り唄」を奉納したことが記述される。山車「臺若(だいは)」にこの太平楽の大幟があるのは海上渡御の名残と考えれれている。祭神は八幡系の神と宗像系の神が併祀されている。山車と踊山10臺を曳く。江戸時代から続く海上安全祈願の祭。7臺が市指定民俗文化財の指定を受ける。

問い合わせ
光市教育委員会
電話 0833-72-1400

[山車文献資料]
・寺社由来 風土記注進案

◆左甚五郎 馬

2006年02月02日 | 日本の山車 左甚五郎
◆左甚五郎 馬
 日も暮れた那須野の雨の夜道を歩いていた一人の男、とある貧しげな一軒の農家に立ち寄り宿を乞うた。女が出てきて困った様子で応対したが、無碍に追い払うこともできず、家にあげて雑炊などをすすめた。男はよろこんでうまそうに食ったが、腹がふくれると、囲炉裏脇でこっくりこっくりと居眠りをはじめた。女はふと見ると裾がめくれて、褌がでていたが、それも薄くなってなにやら妖しげなものが透けてみえる。女は赤くなったが、蒲団を着せて奥に消えた。
 翌日になると、女が出てきて、これは亡くなった主人が使っていたものですがよかったら使ってください。といって袷と六尺褌を渡した。男は恐縮したが、気持ちよく受け取って出て行った。ところが夕方ちかく、一匹の黒い馬を引いて戻ってきた。せめてお礼代わりに受け取ってくれという。
 馬は何年もよく働いたが、ふしぎなことに餌を食おうとはしなかったが、祭のお神酒は喜んで呑んだという。酔って寝ている馬の腹には神符が貼ってあり、飛騨國住人甚五郎作之と書いてあった。おどろいて毟ってみたが何もなかった。
馬はそれ以来二度と立ち上がらなかった。


◆左甚五郎 笹子の鶯

2006年02月02日 | 日本の山車 左甚五郎
◆左甚五郎 笹子の鶯
秋も深まった紅葉の笹子の峠に差しかかったあるお坊さん。おや? と首をかしげた。いまどき鶯の啼くはずがないが? やがてその正体がわかった。
どうみても鶯には見えない鳥が一羽。擂鉢のふちに止まっている。客が茶代を支払うと「ホーホケキョ」と奇妙な声で鳴くのである。
 お坊さんそれを見て噴き出した。店のおかみに事情を聞くと、昔わらじ銭もない客が寄り、茶代の代わりに鳥を一羽彫って去ったという。不出来な彫刻だったので、店の隅に放り込んで、そのまま忘れていたのだが……。店も暇で、いつぞや旅人が彫っていった例の鳥にふと眼がいった。おかみそれを見て愚痴のひとこと、お前はすりばちに首をつっこんで、餌ばかりくっているが、鳥なら「ホーホケキョ」と啼いてみな! すると、鳥は聞き終わらないうちに奇妙な声で「ホーホケキョ」と啼いたから、おかみは仰天した。
 それ以来、客が茶代を払うと「ホーホケキョ」と啼いて、店は大繁盛したというのである。そのお坊さん笑いながら、紙と矢立を取り出し、
 「鶯を真似てみたとてみそさざい」
と書いておかみにわたし、これは、うぐいすなどではないぞ。みそさざいという鳥じゃ。これを彫ったのは飛騨の左甚五郎という名人じゃ。と言い残して店を後にした。そのお坊さんは、駿河の白隠さまだった。
しかし、これからあと、ミソサザイは恥ずかしがって鳴かなくなってしまいいつか飛び立ってしまった。



●369 日本の山車 金刀比羅神社祭

2006年02月02日 | 日本の山車
26481 京丹後市(旧峰山町)
金刀比羅神社祭
京丹後市上
金刀比羅神社
祭礼10一〇月(隔年)
屋臺4臺
・春日山 上
・八幡山 室
・天神山 呉服
・釜掘山 浪花
二十四孝に題をとる。昭和7年建造。棟梁、谷口弥太郎。塗師、井藤栄吉。
金刀比羅神社境内の絵馬殿に古い額が上がっている。これにかって町内で曳かれていた山車が極彩色で描かれている。これらの山車はいま見られるものと相違がある。

●364 日本の山車 豊国神社臨時祭

2006年02月02日 | 日本の山車
26105 京都府京都市東山区
豊国神社臨時祭

この祭を描いた屏風図が伝わる。
祭礼には、のちに高山を拝領した金森長近が関わっているが、この祭具の一部がのちに高山に伝わり、山王祭に使われることとなった。山王祭で神楽臺のまえで行われる獅子舞の頭、油単は豊国神社臨時祭で用いられたものとの伝承がある。


●363 日本の山車 日野祭

2006年02月02日 | 日本の山車
●25383 滋賀県日野町
日野祭
滋賀県蒲生郡日野町村井


日野祭の山車は俗に「重箱型」と表現される。
屋根がない露座型で、上部を飾山という。
正面に階段を設ける。
町内の記録によれば、最初に山車が曳かれたのは弘治三年で、「練物」、「飾をつけた舁山」のようなものではなかったか? と推定されている。
享保期にはこの練物や舁山に二輪、あるいは四輪の車輪をつけたものが曳かれるようになった。
享保十九年の「近江輿地志略」によると、
「山鉾二基ほかねり物」の記述があり、 享和二年の「和田日記」には、 宝暦年中「山車十二基」とあるから、このころにはほぼ現在に近い臺数の山車が曳かれるようになったと推定される。
文化三年の越川町山車は、飾山囃場山車で車輪は四輪
正面に階段をつける。
文化四年新町飾山囃場山車はやはり四輪車で階段と向拝が付く山車だったようである。
文政期、岡本町の山車は飾山四輪の囃場山車。階段と二階が付いたものだったという。
天保四年西大路越川町の山車は、飾山囃場山車葉車輪八輪とあるのが珍しい。階段があり軒唐破風をつけたものだったようである。
新町山車は天保五年の作といわれ、階段部まで船木とよぶ部材が伸びている。
このあとに建造された岡本町山車は二層式で今見られる形がほぼ整ったとみてよいだろう。清水町の山車は向拝をつけるもので新しい形式である。
西大路山車は屋根を葺き、さらにその屋根には軒唐破風をつける。
しかも規模が大型化してきた。
大窪町の山車は塗装をしない素木のままの山車である
南大久保は蔓股彫刻に中国の仙人である、費長房を載せる。
日野町の山車は、更新のさい、旧臺を譲渡した例があり。鈴鹿関町の文化センターには
その面影の残る山車の部材と一部装飾品が展示されている。


●362 日本の山車 水口祭

2006年02月02日 | 日本の山車
●25363 水口町
水口祭
滋賀県甲賀郡水口町

次の町内に山車がある。
・田町・片町
・松原町
・作坂町
・旅籠町
・東町
・湯屋町
・大池町
・池田町
・柳町
・大原町
・呉服町
・平町
・米屋町
・天王町
・河内町
・天神町

 水口町の沿革は、天和二年(一六八二)、石見国(鳥取県)より、加藤明友が入り水口藩の知行となったのにはじまる。明友は賤が嶽七本槍で知られる加藤嘉明の孫で、本城の別名「碧水城」は明友の命名である。
第二代の明英は幕府若年寄となって下野国(栃木県)壬生へ転封、能登国(石川県)より鳥居氏が移った。しかし一代のみで、加藤氏が再入、以後明治維新までつづいた。
水口藩は甲賀・蒲生両郡を中心に石高二万五千石で、水口町、日野町を治めた。
また、水口は古くから伊勢に通じる街道の要所としてひらけ、室町時代にはすでに宿場町が形成された。
 天正一三年(一五八五)には羽柴秀吉の命により水口・岡山城が築かれると、甲賀の中心都市として基礎が築かれた。関ヶ原合戦後、徳川氏の直轄地となり、東海道の宿駅に指定された。三代将軍家光は、寛永一一年(一六三四)水口に新たに宿館を築かせた。これが水口城(水口御茶屋)である。築城は幕府直営であったが、実務は作事奉行として小堀遠江守政一(遠州)があたった。

近年歴史民俗資料館が開館したが、書家で有名な巌谷一六・小波を記念し
「巌谷一六・小波記念室」があり、水口曳山祭の二層露天式人形飾屋臺・実物が展示されている。
京都に近いが、お囃子は関東系である。格調高い優雅な演奏をおこなう。近年全国の祭囃子の演奏会がもたれるようになっている。
千葉県佐原祭は、梃子舞とともにすばらしい囃子を演奏することで知られるが、水口に出囃子にくる数奇者がいるそうである。水口の囃子がそれだけすばらしいことが知れているのである。
山車の形態は、日野町と共通する。

取材に当たって、水口囃子演奏家、和仁氏よりいろいろ教示を得た。謝意を表する。





●361 日本の山車 草津伊佐々神社祭

2006年02月02日 | 日本の山車
●25206 草津市
草津伊佐々神社祭
草津市渋川二丁目

現在山車は解体され、長らく曳かれていない。伊佐佐(イササ)の名称。篠山市の笹婆神社の(ササバ)も関連性があるだろう。はおそらく大陸起源と推定するがまだ未確認である。東海道名物姥が餅の本舗も近いので、出かける前に一服もいいだろう。
取材にあたり草津市観光課の職員さんにいろいろご教示いただいた。謝意を表する。


●360 日本の山車 曳山とイ草の館

2006年02月02日 | 日本の山車
25204 滋賀県近江八幡市浅小井

曳山とイ草の館
近江八幡市の西北はいわゆる水郷で、琵琶湖内湖ではかって畳表にするイ草が栽培された。
浅小井祭で曳かれる山車が展示される。すべて屋根のない、日野町、水口町などでみられる露臺様式の山車である。老朽化から、鉄枠で作った臺車にそっくり乗せて曳く。


●359 日本の山車 大津祭

2006年02月02日 | 日本の山車
25201 滋賀県大津市
大津祭
大津市京町三丁目(旧、四宮町)
天孫神社
祭は10月上旬。

・猩々山
能楽の「猩々」より名付けられた中国の金山の麓に高風という正直で孝行な若者が住んでいたある日高風は夢で楊子の里で酒を売れば豊になるという夢にしたがいい楊子の市で酒売りをしたところ海に住む猩々がやってきて酒を飲み、舞に興じたあと、高風の正直な心をほめ酌めどもつきぬ酒壷を与える
からくり
曵山正面の奥には左手に大盃、右手に扇を持った猩々の人形があり、その手前に左手に長柄の杓を持つ高風の人形が立ちその前に大甕がおかれている。
所望になると、高風が大甕から酒を酌み猩々が持っている盃に酒をつぐ猩々は酒を飲み干し手に持つ扇で自分の顔を隠すその扇を下におろすと酒の回った真っ赤な顔が現れる。扇で顔を隠している間に顔がくるりと回転しているのである。この仕掛けは、殺生石山の玉藻の前にもみられる。
切妻の屋根の内部は水平ではなく化粧屋根裏で裏板は軒とともに金箔おきとなっている
見送りや胴幕は中国製の綴れ織りの一種である「刻子織」
見送りは唐子遊びの図で、
獅子舞
鬼ごっこ
独楽回し
舟遊び
凧上げ
など子供の遊びをあつめ、八十余人唐子によって演出させた「唐子遊技図」である
欄間の木彫りの龍の丸彫り金の麒麟の彫刻が目を惹く

・郭巨山
別名「釜掘山」
中国の故事二十四孝の一人郭巨の物語に因む。
天井は格天井
その格間には、椿、あじさい、牡丹、桃、梅、水仙、八重桜、菊など二十八種類の草花を金箔置き、精巧な彫刻を彫るこのような格天井に彫刻を施した山車は例が少ない。
丸透彫の欄間彫刻にはにずが滝のように流れ波上を騎馬で走る中国の人物(不明という)。この彫刻には焼印があって、京都の彫刻師の手になることが知られている。見送りは、一説に空海、また顔真卿の書を刺繍したという。
からくり
郭巨の物語をからくりで演出する。曵山正面右手に郭巨の妻が童子を両手で抱いて立つ。左手に鍬を持った郭巨が立つ。所望になると郭巨の妻が童子をあやすように動き、郭巨は鍬を動かすと、郭巨の前にある岩に鍬をふりおろすと岩の一部が回転し黄金の釜が現れる。
びっくりして目を丸くする郭巨の表情と妻の慈愛の表情がみもの。

・月宮殿山
「鶴亀山」の別名がある
能楽の「鶴亀」にちなみ
喜多流では「鶴亀」を「月宮殿」と言うところから、山車の名が喜多流によりつけられている。
中国の皇帝が、春陽の節会の儀式のとき、月宮殿において鶴亀の舞を所望したが
興にのった皇帝もともに舞いにあわせて謡った。
寛政三年(一七九一)までは、鳳凰臺山といったが、その後いまの「月宮殿山」に変わった
からくり
曵山中央奥に玉冠をつけた皇帝が控える
一段低い右手に亀の冠をつけた男子の舞人
左手には鶴の冠をつけた女子の舞人
が向き合って立つ
所望の囃子にかわると、まず鶴亀が正面に向かって静かに両手をあげ
亀は右へ、鶴は左へ廻りながら扇を広げる
その後向き合って両手をおろす
ふたたび両手を上ゲ鶴亀が逆方向に廻って、正面に向き合う
皇帝は不動の姿勢であるが、口唇はあたかも謡うがごとく開かれている
見送り幕は
龍門瀧山と同じように十六世紀ベルギーのブリュッセルで織られた重厚な毛綴で
重要文化財に指定されている
天井は折り上げ格天井
その各格間には三十二の金銅星宿(星座)が配されている
この様式は、京都、祇園祭の長刀鉾にも見られる
唐破風の懸魚は、全体金箔をおいた牡丹彫刻である。
飾り金具は、消鍍金による精緻な地彫、毛彫などの技法が施される

・源氏山
「紫式部山」の別名がある
紫式部が石山寺において「源氏物語」を書いた
曵山が平安朝の王朝風の雰囲気を持つ
曵山内部は石山寺の観月臺を模した和様勾欄
下層廻りは蔀を装う
からくり
紫式部のからくり人形は、全国でも二番目に古い
曵山中央の観月臺には紫式部が右手に持つ筆を動かし
左手に巻紙を開いている
その眼前には岩山があり
その左下にある岩戸が開いて、時代衣装の汐汲みの男女、帆掛け船を漕ぐ船頭、牛の曳く御所車それに続く従者、傘持ちなど七体の人形が廻りながら次々と姿を見せる。
さらに岩山の中央では水車、松並木が出没して風景が変わる
執筆する紫式部、回転しながら趣向の変わった人形、背景の変化、
と三様の演出が平安絵巻を盛り上げる
近江八景とは、
矢橋の帰帆
瀬田の夕照
粟津の晴嵐
三井の晩鐘
唐崎の夜雨
堅田の落雁
比良の暮雪
をいい、題材にした欄間彫刻は注目に値する
天井画は、長谷川玉峰による萩、もみじ、菊など二十七種の「草花図」が描かれている。
両脇柱間の三枚の羽目板には、金地に極彩色で、もみじと菊それに三羽の鳳凰を描く。

・孔明祈水山
見送りは「百福図」
李長吉、唐の皇帝玄宗、張芝、白樂天、瑞英、仇休などの象形文字、各種の篆書、隷書による福の文字を百種あつめ緑、朱、藍、金、白など各種の色糸を用いて織りだす。
欄間には、騎馬で橋を渡る中国人物(不明)をはじめ随所に中国風の趣をあしらっている

・殺生石山
「玄翁山」また「狐山」の別名がある。謡曲の「殺生石」にちなみ名付けられた。
からくり
曳き山の前にほっすを持った玄翁和尚が立ちその奥に殺生石を形作った岩があってその中に玉藻の前がいる所望になると、まず玄翁和尚がほっすを動かすとその法力で奥の岩が割れ、んかから玉藻の前が現れる
手に扇を持った玉藻の前は、その扇で顔を隠すがその扇を下におろすと顔だけが狐に変わる。
狐が顔を扇で隠し、再びおろすとこんどは玉藻の前に変わる。
面が早変わりするからくりのなかでも、構造的に面が立体的に一回転するのはこのからくりが唯一である
化粧屋根裏の豪華な草花は京都四条派の画家で知られる松村景文の筆になり、梅、朝貌、藤などを極彩色で描く
泥よけ下四隅の金具(小口)は波、飛龍を高彫りや銀象嵌をほどこす精巧な工芸品。
見送り幕は地元、大津出身の小倉遊亀による
「霽れゆく」

・西王母山
「桃山」の別名がある
能楽の西王母にちなみ名付けられたもの。西王母は中国の伝説上の人物で、中国の西方にある
崑崙山に住む仙女。
能では長生不死を望む漢の武帝の前に西王母が舞い降り、三千年に一度咲く桃の花の枝を皇帝にわたす。
その後ふたたび西王母が現れ桃の実を献じ皇帝の長寿と平和を祈る。
からくり
曵山左手柱のそばに東方朔が立つ。中央奧の台に盛装した西王母が右手に団扇、頭に鳳凰冠をつけて控える。下手の柱の内には桃が見事に実っている。
所望の囃子に変わると、この桃が二つに割れて、中から右手に軍配を持った唐子が出てくる。童子は幹を前方に向かって進み、膝を屈伸するや身を翻して後戻りし、もとの桃の中に戻ってかがむと、桃は静かに閉じる。
大津祭山車展示館で複製された人形が同じ所作でからくりを演じる。
他の曵山は総て柿葺風だがこの曵山の屋根は瓦葺き風に仕上げてある。軒先には金箔張りの大きな飛龍の飾り彫刻が取り付ける。
見送り幕は中国製の綴錦、なぜかこれを蝦夷錦と呼ぶ。
中央には正面向きの龍、下部には波間より、これから天に昇ろうとする二匹の小龍
青海波が精巧に織られている。

・石橋山
古くは「靭猿」とよんでいたが、延享五年(一七四八)能楽の「石橋」に因む現在の臺名である「石橋」
になった。「唐獅子山」の別名がある。
天台宗の像である寂昭(大江定基)は修行のため宗の天台山(または西涼山)にいたる。そこに架かる石の橋を渡ろうとしたとき、文珠菩薩の唐獅子が、牡丹の花に戯れているのを見た故実。
正面と背面には牡丹を彫刻した見事な懸魚がある
この大きさは幅がおよそ一、五メートルにもおよぶ大きなものである
天井の格間には菊の彫刻が施されている。
前の柱には牡丹の花や、たくさんの蕾があしらわれ、蝶が舞う。
胴幕は、中島來章の下絵で、正面は雪景色で月に三羽の雁が飛ぶ。
左側は、港の風景で、中国の三人の人物で一人は、遠眼鏡で船を見、
牡丹が描かれる
右側は陸地と海を隔てて城がある。
海には船が浮かび、白馬に乗った貴人がおり
出迎える人がいる。見送幕は、毛綴織で、上部には花束と鳥の模様が織りこまれている。
このような模様は大津祭の龍門瀧山、長浜祭の鳳凰山、京都祇園祭の鶏鉾に類型が見られる。図柄は椅子にかける貴人を真ん中に左には貴婦人がいて、その後方には侍女が控え、右には壺を持った二人の男がいる。後背には、遠く山並みが描かれている。
からくり
曵山奥には大きな岩があり、右手前には寂昭法師が立っている。
所望の囃子が始まると岩の下方が割れて岩戸が開く。
大きな目をした愛らしい唐獅子があらわれて、少し前に進んで跳ね、
後ろ向きになって岩戸の中に入る。
昔は橋樋があって、曵山の前方飾られている牡丹の花に戯れる姿があったといわれる。今は見られない。唐獅子を扱ったからくりは全国でも数が少ない。なお、現在使用されている唐獅子は、昭和五十七年に復元修理された物を使用している。

・龍門瀧山
中国黄河の上流にある龍門山は、魚がさかのぼることの出来ない滝があって、この滝をさかのぼることが出来た鯉は天に昇り龍になるといわれ、ここを越えることが出来れば龍になれるといわれている
龍門瀧山では本祭の日にかけられる見送り幕が目をひく。
十六世紀ベルギーで作られた毛綴織で、画題はギリシャの詩人ホメロスの叙事詩である「イリアッド」
の物語でトロイ落城の情景を織りだしたといわれている。国の重要文化財指定されている。京都鯉山のタペストリーと二分したもの。過去に用いられたからくりの鯉は、初代、林孫之進が宝暦十二年(一七六二)湖南の大工栄蔵の作には、寛政五年(一七九四)の銘がある。製作年代不明の四代目林孫之進の三体が伝わる。これら三体の鯉は宵山から本祭に飾り展示される。
幕押しの彫刻「中国農村風景」は、左甚五郎作と伝える、
からくり
曵山全体が龍門山をかたどり、天井は一面に雲を表した彫刻を施し
て天を表し
中央には大きな瀧がある。
鯉はこの滝を尾や鰭を左右に振り動かして、落ちる水に何度も押し返されながら、幾度も上下を繰り返しつつ徐々に上へと上っていく。金色に塗られた鯉はやがて上部に達するや、やおら翼を左右に大きく広げそのまま、天井の雲の中へと姿を隠す
翼を大きく広げることで、鯉から龍へ変身できたことを表現している。このからくり芸は曵山の下床で、一人で操作されるため、外部からはからくりを操る人の姿は見えない。