大学入試試験は、今始まったことではない。何処の国でもやっていることだし、何時の時代にも入試試験があって当たり前のこと。その試験方法が、日本では、ころころと良く変わる。試験方法がこれほど変わって、一体何が良くなったのだろうか。試験方法を変えることで、優秀な人間が入ってくるというのか。そんなことはとても考えられない。小生は、どのような試験であっても「一発勝負」という考え方に賛成する。試験を受ける時の状況は様々で、運不運が付きまとう。勉強の仕方が良かったかどうかも試験の結果次第である。
今回「達成度テスト」という名称になったとしても、試験は試験である。もし、そこに面接試験のようなものが入るとしたら、それは決していい結果は生まれない。芸能人の発掘テストとは異なる。一発勝負で挑戦することに意味があるのだ。択一式、論文、面接、というケースがあるが、面接というのは飽く迄も最終的な試験であって、そこで大きく点数を取ることがいい学生を得るという事にはならない。ペーパーテストにはもちろん問題点がないわけではない。しかし、公平な面で言えば、これほど公平なものはない。試験に不正がないとしたら、択一、論文、という試験方法に勝るものはないと信じている。尤も、試験の中には実地試験というものもあるが、これは芸術部門のように必要性があって行うのであって、必要性がないものにはやることはない。
大体、センター試験のどこに問題があったのだろうか。達成度テストの基本的な考え方が、大検と同じであれば、大検に統一してしまえばいいこと。全ての18歳になった人すべての人に大検を受ける権利を与えれば、それで済むことにならないか。何処の大学に入ることが出来るのか、それはその大学で独自の試験をすればいい。今のセンター試験を結果としては同じになってしまう。要は、大学に入るのは容易にして卒業を厳しくすればいいのだ。トコロテン式に学校を追い出される今の方式が果たしていいものなのか。
小生は、大学卒業試験を統一試験にした方が良いのではないか、とさえ思うのだが。統一卒業試験に合格しなかったら大学卒業の資格を与えない、という事にすればいい。何処の大学を卒業した、ではなく、統一卒業試験に合格した、という事だ。そうすれば、何もどこの大学に行く、という事にならない。良い教授がいる大学、良い授業を受けることが出来る大学、何処の大学の授業でも公開授業方式にすることが理想ではないか。文科系、理科系、という区分も難しくなった時代だ。学問を縦割りにするのではなく。、もっと横割りに考えることも必要かもしれない。××学部と云う考え方も、そろそろ見直してもいいはずだ。
「達成度テスト」にする狙いがはっきりしない。文部科学省は、名前を変えることに何を期待しているのか。今のままだと教育現場や学生が混乱するのではないか。目標がはっきりしないから名前だけ変えるような気がする。学力を上げたいのか、知識を広げたいのか、学生が目指すところをはっきりさせないと今までと何ら変わらないものになってしまう。文部科学省のやることには魂が入っていない。委員会の、或は、官僚の自己満足が先行している。