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一言、云いたいね

社会の状況を見て一言云わせて貰う

大学入試センター試験廃止、新たに「達成度テスト(仮称)」創設

2013-10-25 05:34:12 | 日記

大学入試試験は、今始まったことではない。何処の国でもやっていることだし、何時の時代にも入試試験があって当たり前のこと。その試験方法が、日本では、ころころと良く変わる。試験方法がこれほど変わって、一体何が良くなったのだろうか。試験方法を変えることで、優秀な人間が入ってくるというのか。そんなことはとても考えられない。小生は、どのような試験であっても「一発勝負」という考え方に賛成する。試験を受ける時の状況は様々で、運不運が付きまとう。勉強の仕方が良かったかどうかも試験の結果次第である。

今回「達成度テスト」という名称になったとしても、試験は試験である。もし、そこに面接試験のようなものが入るとしたら、それは決していい結果は生まれない。芸能人の発掘テストとは異なる。一発勝負で挑戦することに意味があるのだ。択一式、論文、面接、というケースがあるが、面接というのは飽く迄も最終的な試験であって、そこで大きく点数を取ることがいい学生を得るという事にはならない。ペーパーテストにはもちろん問題点がないわけではない。しかし、公平な面で言えば、これほど公平なものはない。試験に不正がないとしたら、択一、論文、という試験方法に勝るものはないと信じている。尤も、試験の中には実地試験というものもあるが、これは芸術部門のように必要性があって行うのであって、必要性がないものにはやることはない。

大体、センター試験のどこに問題があったのだろうか。達成度テストの基本的な考え方が、大検と同じであれば、大検に統一してしまえばいいこと。全ての18歳になった人すべての人に大検を受ける権利を与えれば、それで済むことにならないか。何処の大学に入ることが出来るのか、それはその大学で独自の試験をすればいい。今のセンター試験を結果としては同じになってしまう。要は、大学に入るのは容易にして卒業を厳しくすればいいのだ。トコロテン式に学校を追い出される今の方式が果たしていいものなのか。

小生は、大学卒業試験を統一試験にした方が良いのではないか、とさえ思うのだが。統一卒業試験に合格しなかったら大学卒業の資格を与えない、という事にすればいい。何処の大学を卒業した、ではなく、統一卒業試験に合格した、という事だ。そうすれば、何もどこの大学に行く、という事にならない。良い教授がいる大学、良い授業を受けることが出来る大学、何処の大学の授業でも公開授業方式にすることが理想ではないか。文科系、理科系、という区分も難しくなった時代だ。学問を縦割りにするのではなく。、もっと横割りに考えることも必要かもしれない。××学部と云う考え方も、そろそろ見直してもいいはずだ。

「達成度テスト」にする狙いがはっきりしない。文部科学省は、名前を変えることに何を期待しているのか。今のままだと教育現場や学生が混乱するのではないか。目標がはっきりしないから名前だけ変えるような気がする。学力を上げたいのか、知識を広げたいのか、学生が目指すところをはっきりさせないと今までと何ら変わらないものになってしまう。文部科学省のやることには魂が入っていない。委員会の、或は、官僚の自己満足が先行している。

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阪急阪神ホテルズの食品偽装、調理人が知らないわけないだろう

2013-10-24 05:35:36 | 日記

一流ホテルのレストランでの食品偽装、ここで調理を担当している調理人は勿論、料理長も知らないわけないだろう。もし、解らなかったというなら、ここで調理をしている人たちは素人集団と全く同じである。何年も調理を担当している人たちは、自分の名誉のために何かを発信してほしい。もし、何も発信しなければ、調理師を止めるべきである。調理の専門家である調理師たちは、自分の身分と引き換えに偽りの料理をお客様に提供したわけである。お客はホテルのネーミングを信じて高いお金を支払って料理を楽しんだはずだ。ところが、そこに出された料理は、メニューと異なるものを提供していた。

世の中には偽装食品が蔓延している。特に産地が書いてあってもそれを信じていいかどうかわからない。購入者は何を信じたらいいのだろうか。中国製や韓国製であれば、最初から偽装食品だと解って購入するわけだが、しっかりとした製造業者の名前が書いてあった場合、それが偽装かどうか見破るのは並大抵のことではない。国がしっかりとした管理をしてくれれば、それを信じることしか手立てはない。食品衛生法は少なくともクリアーしているはずだが、その他の添加物については見た目では殆ど解らない。

特に、ウナギのような食べ物は、通常、焼いてあるものが殆どであり、味付けもされていて、何処のウナギかはウナギに聞かないと解らないのである。しかし、ウナギは絶対に応えてくれない。当たり前のことだが、食品表示を信じて誰もが購入するのである。魚介類、肉類などは、食品偽装をし易いのである。どのようにしたら食品偽装を無くせるのか。極めて難しい問題である。食べ物の場合、食べてしまった後になって、あれは食品偽装だった、と言われても元に戻しようがない。今の法律では、食品偽装をやっても大した罪に問えない。企業であれば、営業停止になっても、その企業を倒産させてしまえばそれでお仕舞である。

我々庶民には高級品など余り関心がない。普通の味がして、適当な値段であれば、それで満足するのである。国内産、と表示をしながら実は中国産だった、というのはとても気分を損なう。愛爾は大して変わらないが、中国産には、どのような薬品が使われているか、生産過程でどのようなものが使われたのか解らないから敬遠をするのである。造られている現場、即ち土壌もはっきりしないものを口の中に入れることが恐ろしいのである。

話を元に戻そう。ホテルやレストランの調理人たちは、自分たちが造ろうとしているものがメニューでどのように書かれているのか絶対に知っているはずだ。それなのに、食品偽装がなされた、という事は調理人の責任も重い。調理人が手間をかけ、自信を以て作ったものならば、どのような材料を使っているかは知っているはずだ。それも解らずに調理をすることは有り得ない。ウソの材料を使って本物だ、という事は絶対に許されないことくらい調理人は知っているはず。それが何年も見過ごされたこと自体重大なことなのである。調理人は小生の云うことが解るだろうか。

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ロシア、中国とインドに航空母艦を売却

2013-10-23 05:36:58 | 日記

ロシアの上手な商売が垣間見えてきた。中国には既に空母を売却済みであり、今回インドへも空母の売却が決まったのだ。インドと中国は国境問題で争いが起きており、中国はインド洋へも進出しようと躍起になっている。中近東から石油を輸送するには、インド洋も中国が抑えたいという事。中国が西太平洋を手中に収めたいための布石として、南シナ海、東シナ海で領海紛争を巻き起こしている。中国の台頭がアジア諸国の紛争の種の基なのである。今回インドがロシアから航空母艦を購入したことで、インドにおける海域は中国にとって益々難しい状況になってくる。

インドは、購入した航空母艦に最新鋭戦闘機を配備するはずで、この海域ではインドが主導権を握るのではないか。これに対して中国は、戦艦を数席配置するはずだが、この他にも原子力潜水艦の配置もあり得る。インド洋は、現在紛争に発展する材料は多く見られない。中国がこの地域に力を入れ、戦艦や潜水艦を配置すれば、少なからずインドとの摩擦は起きるのではないか。中国は、世界制覇、という夢を追って太平洋、インド洋、という大海を治めようという考えなのだろう。中国の経済成長が、軍事力の強化を一段と進めたのは間違いないところだ。アメリカとロシアの中に割り込む形で中国が力をつけてきた。特に軍事力と宇宙開発で中国の力が強くなってきたことは否めない。

ロシアの商売がうまく軌道に乗れば、インドと中国への航空母艦の更なる販売が期待できる。航空母艦に限らず、戦闘機でもロシアはインドへ働きかけを強めるのではないか。中国へは最新鋭戦闘機を数十機売却している。軍事ビジネスは、何処にどのような武器を売っても儲かるもの。ロシアが強大な軍事ビジネスを展開している背景には、自国に刃向かわない国に対しては、様々な武器を販売している。世界中に出回っている武器のうち、ロシア製は数においてベスト3に入るのではないか。この商売、絶対に損はしないようにできている。武器を売れば消耗品である弾薬は必ず売れることになっているからだ。

今回、インドへの航空母艦売却の陰には、その他の武器や戦闘機も当然考えられているはず。商売をするには、儲かることが第一。昔から「死の商人」と言われてきた武器や弾薬、戦闘機などは、使ってくれればもっと有難いと思っているはずだ。世界各地に戦闘が行われていることを見れば、死の商人たちは、ボロ儲けている。ビジネスとしては最高であろう。自国で消耗するのではなく、他の場所で消耗してくれるのだからこれほどうまいビジネスはない。世界に戦争や戦闘行為がなくなれば、死の商人たちの活躍の場所はなくなり、飯の食い上げとなる。戦争反対、という言葉は言葉だけが先走りしていて、実際には死の商人たちが死に物狂いで武器を販売しているのである。

ロシアが展開している商売も、結局は戦争に関係したものなのである。そこへいくと日本は平和な国である。死の商人にとってはビジネスとしては活躍できない国なのだ。

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「大卒内定3年連続プラス」というが中身はどうなの?

2013-10-22 06:10:48 | 日記

景気回復が少しづつではあるが形のあるものになってきている。今回の報道機関の調査で、「大卒内定3年連続プラス」という記事が出ていた。この記事は、毎年発表されているもので、特に新しいものではない。問題は中身である。新卒者が入社して3年以内にその会社を辞める人たちが極めて多い、という事だ。何故3年しかいられないのだろうか。そこには大きな罠が仕掛けられている。新卒者を品物と考えている経営者が非常に多いという事だ。人材として社員を採用するのではなく、使い捨て、という形で採用するのである。

多くの経営者が、このような考え方で、若者を使い捨てにすることが、日本の未来にいい影響を及ぼすか。決して良くはならない。少なくとも人は物ではない。人材なのである。そのことを全く理解していない経営者には、未来の日本は描けないであろう。その日暮らしの路上生活者と考え方が全く同じなのである。企業を将来に渡って繁栄させようとする経営者なら、人を使い捨てにするようなことは絶対にしない。その場限りの自転車操業をしている経営者でしかない。人材を育成して、企業を継続し反映させるのが経営者なのである。例え個人商店でも、未来の姿を頭の中に描きながら店を経営していくのである。

内定率が例えプラスになっても、小生はそれだけでいいとは決して思わない。最低でも、大卒者が入社して3年間くらいは続けていられるような企業に成長してほしい。「石の上にも3年」という諺がある。企業にとって、同じ企業で3年間働けば、ある程度の業界の知識が得られるはずだ。その知識が将来の会しゃけうえうにとって宝物になるように、さらに成長させるのが経営者の手腕ではないか。社員は経験と社内教育で大きく成長する。社員が成長すれば、売り上げが上がり、利益も確保できる。経営者にとって社員を成長させることで企業業績が上がることが最も望ましい形ではないか。株主も、社員と同じように恩恵を被ることが出来るのである。

社員を教育して一人前に育て、企業経営に貢献させる。それが出来なければ、企業は衰退し、消え去ることになる。競争を勝ち抜くためには、社員教育を徹底的に充実させることが必要である。今、一流企業と言われている企業経営者の多くが、社員教育を充実させているはずだ。形だけ一流企業でも、中身が出鱈目であれば、何時かは化けの皮が剥げてしまい、経営困難に陥る。現在だけしか考えない企業経営者が未来を描いていないとしたら、社員にとって極めて悲しい事であり、株主にとっても投資を控えるようになるだろう。

最後に、入社1年で30%の人が退職する事態に、企業経営者の資質が問われる。使い捨てをしている経営者に日本の未来は任せられない。小生はこのような経営者には企業経営者を辞めてほしいと思っている。日本のためにならない経営者だからだ。日本社会を良くしよう、発展させよう、若者に明るい未来や希望を与えよう、と云う経営者になってほしい。新入社員を使い捨てにする経営者は出て行ってほしいのだ。

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何故残せない、震災遺構

2013-10-21 05:38:31 | 日記

東北大震災は近来稀に見る大きな震災であった。過去にも津波の被害があったが、今回ほどの大きさではなかった。その被害の大きさを何らかの形で未来に残すことが出来ないものか。震災遺構という形で残すことに、多くの被災者が心を痛め残したくない、目にしたくない、という人たちが多くいた。また、残すことで、その維持費用が掛かることも問題になった。残すか、残さないか、極めて難しい問題になっていたが、多くの震災に見舞われた傷跡は、その殆どが取り壊されることになってしまった。

遺族にとって悲しみに耐えない震災の傷跡は、どのような形で、何を、未来に伝えていくか。形のあるもの、形では表せないもの、など様々である。震災遺構として、民間人が残そうとしているものもある。お金には代えられない、という事だ。街が整然と出来上がり、従来と同じような活気のある街に変身していく。観光客が街に戻ってくれば、街も豊かになっていく。過去に悲しい出来事が全くなかったかのような街になることも必要かもしれないが、この街の過去に震災にあったことを示す震災遺構が一つや二つあってもおかしくはないはずだ。それが、どのような形のものであっても、あの恐ろしい津波があった証が何もない、というのも何か物足りない。

震災遺構を、どのような形で残すのか。その目的をしっかりと見つめなければならない。単に残すのではなく、津波の恐ろしさ、を未来に伝えることも必要だろう。日本は地震国である。海に囲まれている。海底で地震が起きれば即座に津波に繋がる。それは太平洋、日本海共にいえることだ。特に太平洋岸では、大きな都市が存在し、太平洋ベルト地帯に大津波が押し寄せれば、日本の国全体に大きな影響を及ぼす。

東北地方の太平洋岸には、過去に何回も大津波が押し寄せている。今回の津波は有史以来で最大のものかもしれない。今後、今回のような津波を想定する何かが残っていないとしたら、どのように伝えていくのか。過去に起きた津波については、石碑を見ることがある。石碑は、腐敗する事も無く、雨や風にも強い。人間が機械を使って動かさない限り建てたところにそのまま存在し続ける。新しい土地に生まれ変わるときに、過去を見つめる何かが必要ではないか。多くの悲しみ、苦しみを乗り越えて新しい未来を建設するための震災以降を考えてもいいような気がするのだが、それは第三者的な考えなのだろうか。当事者である、大震災被害者の方々が望む形で何かを残すことが出来ればいい。

この問題は、飽く迄も被災者が中心となって考えるもの。どのような震災遺構ができるかは、被災者がよく考えて作ってほしい。

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