一言、云いたいね

社会の状況を見て一言云わせて貰う

人を罰する条文、どうあるべきか、自動車運転致死傷罪

2018-12-05 05:14:16 | 日記
自動車運転致死傷罪をめぐって、その罪に問えるかどうかが問題になっている。行った犯罪がどの罪に問えるかは法律の条文によって決められる。該当する
条文に基づいて起訴するわけだ。もしも、該当する条文が見つからなければ起訴をすることも罰することもできない。警察署や検察官は、罪を犯したことは
事実として存在していても罰するべき法律が存在しなければ罰することはできない。これが罪刑法定主義の原則である。明治時代になってアメリカや
ヨーロッパから近代法が輸入され、日本は近代法に従って法律を整備してきた。
江戸時代、或は室町時代にも法律は存在したが、近代法ではないために全ての人が平等に取り扱われることになっていなかった。貴族、武士、僧侶、平民
という分類の仕方で罰せられ方が異なっていたのだ。明治になって近代法が取り入れられて、皇族以外の国民はすべて同じ法律で罰せられることになった。
法律に規定されていない罪は罰することが出来ない。しかし、世の中は動いている。法律を制定した時には想定していなかった事態が生じることもある。このような時には裁判所、特に現在では最高裁判所の判決を待って後から法律を制定する、という方法がとられた。所謂判例を重視する方法がとられたわけだ。日本の法律は法定主義が基本になっている。しかし、アメリカでは判例主義が主体になっている。現在、日本では法律に規定がなければ、行った行為について処罰することはできないのだ。今回の犯罪行為と言われているものについても一体何の罪に問うべきなのか、ということが重要になる。
 
要は犯罪構成要件がしっかりとしないと罪に問えないのだ。この件に関しては被告の弁護士がはっきりと言っている。弁護士の言うことも一理ある。しかし、庶民感情からは、この被告を最も軽い刑で終わらせることに怒りを感じている。もしも、検察が起訴している3つの刑に関して、最も重い刑の2つが認められなければ最高刑でも懲役2年くらいにしかならない。人を2人殺して懲役2年ということになれば、法律がいかに矛盾しているかが露呈してしまう。
 
この事件を契機に法律改正を行わなければならないだろう。その昔、電気を盗んだ人間を裁くことになった時、当時の刑法には電気は物と規定していなかった。従って、電気を盗んでも窃盗には当たらない、ということになる。当時の大審院(現在の最高裁)は「電気は物と看做す」という判断をして、電気窃盗を裁いた。今回の事件でも、電気窃盗と同じようなさばきが出るかもしれない。自動車を実際に運転してる状態になくても、運転行為が継続していると看做すということから「運転をしていた」と判断するかどうかである。
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