一言、云いたいね

社会の状況を見て一言云わせて貰う

死刑廃止論者はオウム真理教の死刑囚をそんなに救済したいのか

2018-07-07 05:00:57 | 日記

日弁連は公式サイトで死刑廃止を提言している。松本サリン事件、地下鉄サリン事件、という極めて大きなテロ行為が行われているにも拘らず、日弁連は死刑廃止論を引っ込めようとしない。理想ばかり追求していると現実が見えなくなってしまうのか。極悪犯罪が多く発生している中、若しも死刑を廃止したら犯罪者はとても喜ぶことだろう。何しろ国が極悪犯罪者の命と生活の保障をしてくれるのだから。

極悪犯罪を犯しておきながら「自分の命は助けてくれ」というのは如何にももっともらしい。自分本位で物事を考えるとこのような考え方になってしまうのだろう。犯罪者に殺された人及びその家族の人権はどうなってしまうのか。犯罪者の人権は守るが殺された人及び家族の人権は守らなくてもいい、という事か。余りにも自分勝手すぎるのだ。極悪犯罪者に死刑判決を下し、死刑を執行することが重要なのだ。

よく言われるのが教育刑という考え方だ。極悪犯罪をした人間に何をどのように教育をするのか。教育をして立ち直らせて、一体誰が喜ぶだろうか。喜ぶのは犯罪者本人だけではないか。そもそも殺人を犯したという罪の重さを認識していないから犯罪に走ったのではないか。まさかその場の雰囲気で人を殺してしまった、と言い訳をするつもりなのか。自ら重大犯罪を犯した人間にはそれなりの責任を取ってもらわなければならない。

死刑制度は犯罪抑止があるかないかを議論しているが、例え抑止力が少なくとも必要な刑である。抑止力がゼロではない。倫理上どうのこうの言う人間がいるが、人を殺したことは倫理上問題ないのか。死刑廃止論者は自ら被害者になっていないから適当に云えるが、当事者になったら本当に云えるだろうか。自分の家族が複数人殺されたら、その犯罪者を死刑にしないでほしい、と言えるだろうか。

犯罪を犯した人間は、自分が責任を以って自らの命を捧げなければならない。それでも失った命は再び蘇ることはない。命を返せ、と言っても返ってこない。従って犯罪者には自らの命を捧げる必要があるのだ。人を殺す、という意味をよく考えれば自分の命と交換する、という事が道理なのである。犯罪被害者には何もできないが、犯罪者が死刑になることで心の中を整理することが出来るのではないか。

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