一言、云いたいね

社会の状況を見て一言云わせて貰う

「日野××氏」、暴力を教育・指導に置き換えるつもりなのか

2017-09-03 05:12:35 | 日記

本人は暴力ではないと否定していた。「頬を平手でたたいた」のは「頬を撫でた」、「髪の毛を引っ張った」「スティックを奪って放り投げた」については何もコメントをしなかった。彼の行為をすべて認めたとしたら、今後スポーツなどでは暴力がすべて教育・指導に置き換わってしまう。音楽という芸術でもこのような暴力があるという事実を初めて知った。いや、このような行為は若しかすると外でも行われているかもしれない。

今まで苦労して全ての面で暴力を追放しようと努力してきたことが全て泡となってしまった。この人は叙勲を受けている。一体、何処の団体で、どのような人たちが推薦したのだろうか。暴力行為をするような人には叙勲は相応しくない。本来なら、返上すべきだろう。こんな人を叙勲するくらいなら、世の中にはもっと素晴らしい仕事をしている人が沢山いる。そのような人を叙勲すべきである。

問題は暴力を素たことについて本人が飽く迄も否定していることだ。小生もテレビでしかあの場面を見ていない。実際にあの場所であの場面を直接見た人は一体どのように感じただろうか。実際に見た人があれを教育・指導に見えただろうか。街頭のインタビューで、あの場面を「教育・指導の一部だ」と発言した人がいたが、そういう人は暴力=教育・指導という見方をしている人ではないか。

暴力はスポーツに限らないことがはっきりした段階で、文部科学省は暴力と教育・指導の違いをどのように説明するつもりなのか。特に教育の場面で教師が生徒に対して暴力を奮うケースが多く見られるが、教師の考え方が何時まで経っても暴力以外に教育・指導をする方法が見当たらないからではないか。少なくとも、暴力はいけないと心に思っていても、何も方法が思いつかなければ暴力になってしまう。

何処の世界にも暴力を奮う人間がいる。学校や芸術だけではない。企業でも少なくとも存在する。「暴力を奮えば素直に従う」という考え方が最初に浮かぶのではないか。強いものが弱いものを抑える方法は人間だけではない。動物の世界も同じ。いや、政治の世界も同じだ。強い国が弱い国を軍事力で脅す、或いは軍事力を使って降伏させる。人間関係で暴力を肯定したら世の中は荒んでしまう。「日野××氏」は、そんな基本的なことが解らないのだろうか。哀れな人だ。気の毒な人だ。

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