ある年齢から上の世代にとって、郷愁を感じざるを得ないアニメに「ミュンヘンへの道」があります。
「ミュンヘンへの道」とは、1972年のミュンヘン五輪を目指す男子バレーボール全日本チームの軌跡を描いたアニメです。通称「松平一家」を率いるのは松平康隆監督。彼がチームの士気を盛り上げるために、テレビ局に強力に働きかけて作られたのだとか。確か練習風景なんかは実写、選手個々の生い立ちやエピソードの紹介の部分は劇画風のアニメで描かれていたように思います。
今でこそ、選手たちはテレビのコマーシャルに当たり前のように出ていますが、当時はまだアマチュア規定が厳しかったことを考えると、こんな番組が成り立ったこと自体不思議な気もします。
もっとも当時の僕にはそんなことはどうでもいいことで、ただただ毎週日曜日の7時30分が待ち遠しく、夢中になって見ていたのでした。番組のエンディングテーマが終わると、カチャカチャッと音がして「ミュンヘンまであと○日」と画面に出るのも大好きでした。知らず知らずのうちにオリンピックへのすり込みが行われていたのですね。今思うと、大古、横田、森田の“ビッグ3”、世界のセッター猫田など、すごい選手がたくさんいました。
そんな中で、なぜか僕の印象に残っているのは田中選手。逆立ち歩きができない田中が一所懸命練習して見事できるようになるというエピソードには泣かされました。のちに全日本チームの監督にもなった田中のあのヌーボーとした顔を見るたび、逆立ちするアニメ顔が脳裏によみがえってきたものです。
また体格では劣る日本選手がソ連に勝つために編み出されたのが、一人時間差とか多彩なクイック攻撃でした。番組では、こうした攻撃方法を実写のスローで詳しく解説してくれていました。Aクイック、Bクイック、さらにはCクイックと言われても、幼い私にはさっぱりその違いがわかりませんでしたが、ただ、これソ連の選手が見てたらばれちゃうじゃん!と本気で心配してました。それにしても、「一人時間差」なんて、「大リーグボール○号」に匹敵するすごすぎるネーミングだと思いませんか?
この番組を見てバレーボールにはまり、中学校に入ったら絶対バレー部に入るぞと決心したのはきっと私だけではないはずです。調べてみたら、「ミュンヘンへの道」が放送されていたのは昭和47年4月23日から同年8月20日まで。8月26日には実際のオリンピックが開幕していますから、まさにリアルタイムで選手を追っていたのですね。しかも、本番でも予定通り?金メダルを取ってしまうのですから、なんという番組だったのでしょう。
決勝戦の相手は確か宿敵ソ連ではなく、東ドイツだったことが唯一の誤算だったと言えるのかもしれません。僕としてもここはソ連を破って金メダルを取って欲しかった…。
それはともかく、東京五輪(1964年)で銅、メキシコ五輪(1968年)で銀メダルと順調に階段を昇ってきた男子バレーボールチームは、ミュンヘンでついに世界の頂点に立ったのでした。それは、女子が東京五輪で金メダルを獲得したあと(“東洋の魔女”!)、銀、銅と成績を下げていくのと全く対照的でした。
もっとも、女子はその後モントリオール五輪(1976年)で再び金メダルを獲得していますが、男子はバルセロナ五輪(1992年)以来、オリンピックに出場さえできない低迷が続いています。これも、日本が生み出した技を世界中のチームが取り入れて世界のスタンダードとなり、高さ+速さのバレーボールが主流になったことが原因としてあるように思います。素人考えですが。
同じようなことは体操男子にも言えるかもしれません。ということで次回は体操男子を…。
「ミュンヘンへの道」とは、1972年のミュンヘン五輪を目指す男子バレーボール全日本チームの軌跡を描いたアニメです。通称「松平一家」を率いるのは松平康隆監督。彼がチームの士気を盛り上げるために、テレビ局に強力に働きかけて作られたのだとか。確か練習風景なんかは実写、選手個々の生い立ちやエピソードの紹介の部分は劇画風のアニメで描かれていたように思います。
今でこそ、選手たちはテレビのコマーシャルに当たり前のように出ていますが、当時はまだアマチュア規定が厳しかったことを考えると、こんな番組が成り立ったこと自体不思議な気もします。
もっとも当時の僕にはそんなことはどうでもいいことで、ただただ毎週日曜日の7時30分が待ち遠しく、夢中になって見ていたのでした。番組のエンディングテーマが終わると、カチャカチャッと音がして「ミュンヘンまであと○日」と画面に出るのも大好きでした。知らず知らずのうちにオリンピックへのすり込みが行われていたのですね。今思うと、大古、横田、森田の“ビッグ3”、世界のセッター猫田など、すごい選手がたくさんいました。
そんな中で、なぜか僕の印象に残っているのは田中選手。逆立ち歩きができない田中が一所懸命練習して見事できるようになるというエピソードには泣かされました。のちに全日本チームの監督にもなった田中のあのヌーボーとした顔を見るたび、逆立ちするアニメ顔が脳裏によみがえってきたものです。
また体格では劣る日本選手がソ連に勝つために編み出されたのが、一人時間差とか多彩なクイック攻撃でした。番組では、こうした攻撃方法を実写のスローで詳しく解説してくれていました。Aクイック、Bクイック、さらにはCクイックと言われても、幼い私にはさっぱりその違いがわかりませんでしたが、ただ、これソ連の選手が見てたらばれちゃうじゃん!と本気で心配してました。それにしても、「一人時間差」なんて、「大リーグボール○号」に匹敵するすごすぎるネーミングだと思いませんか?
この番組を見てバレーボールにはまり、中学校に入ったら絶対バレー部に入るぞと決心したのはきっと私だけではないはずです。調べてみたら、「ミュンヘンへの道」が放送されていたのは昭和47年4月23日から同年8月20日まで。8月26日には実際のオリンピックが開幕していますから、まさにリアルタイムで選手を追っていたのですね。しかも、本番でも予定通り?金メダルを取ってしまうのですから、なんという番組だったのでしょう。
決勝戦の相手は確か宿敵ソ連ではなく、東ドイツだったことが唯一の誤算だったと言えるのかもしれません。僕としてもここはソ連を破って金メダルを取って欲しかった…。
それはともかく、東京五輪(1964年)で銅、メキシコ五輪(1968年)で銀メダルと順調に階段を昇ってきた男子バレーボールチームは、ミュンヘンでついに世界の頂点に立ったのでした。それは、女子が東京五輪で金メダルを獲得したあと(“東洋の魔女”!)、銀、銅と成績を下げていくのと全く対照的でした。
もっとも、女子はその後モントリオール五輪(1976年)で再び金メダルを獲得していますが、男子はバルセロナ五輪(1992年)以来、オリンピックに出場さえできない低迷が続いています。これも、日本が生み出した技を世界中のチームが取り入れて世界のスタンダードとなり、高さ+速さのバレーボールが主流になったことが原因としてあるように思います。素人考えですが。
同じようなことは体操男子にも言えるかもしれません。ということで次回は体操男子を…。
田中選手とはおそらく元全日本の田中幹保選手のことをさしているんだと思いますが、その頃はまだ高校生、ミュンヘンの翌年18歳で全日本入りしたはずです。
てっきり田中幹保選手だとばかり思いこんでいました。ということは、田中選手は「ミュンヘンへの道」に登場さえしていなかったのですね。お恥ずかしい。
佐藤哲夫選手ですか。そういえば、逆立ちのできない選手が「キュウリ」というあだ名で呼ばれていたことを今更ながらに思い出しました。
間違いをご指摘いただき、大変ありがとうございました。
大学、実業団で実績のある選手の集まりであった全日本チームにあって、過去に実績が無く自信が持てなかったのが大古選手でした。
他の全ての選手が出来て、大古選手だけが出来なかったのが9mの逆立ち歩行でした。
大古選手は、これを克服することにより全日本メンバーとしての自信を持つことが出来、大エースへと成長しました。
いろいろ調べてみたら、やっぱり大古のようですね。
記憶がいかに曖昧なものか、思い知りました。
ありがとうございました。
1 ナンションこと南
2 ネコこと猫田(専売広島)
3 中村
4 西本
5 木村
6 深尾
7 野口
8 モンタこと森田(日本鋼管)
9 ヨタこと横田(松下)
10 大古(確か日本鋼管、のちサントリー)
11 キュウリこと佐藤(富士フィルム)
12 嶋岡(日本鋼管)
当時、日本鋼管は強かったなぁ。