1972年のミュンヘン五輪で男子バレーボールと並んで、その強さを見せつけてくれたのが男子体操チームでした。
史上最強ともいわれるメンバー(加藤沢男、中山彰規、監物永三、塚原光男、笠松茂)を擁し、ライバル・ソ連に大差をつけてのオリンピック団体4連覇。まさに王者の貫禄でした。
圧巻は、団体最後の種目鉄棒で塚原選手が見せてくれた「月面宙返り」。9.90という当時見たことのない高得点を挙げ(あのコマネチが10.0を連発するのは次のモントリオール五輪)、観衆のスタンディング・オベーションを受けたシーンは鮮明に記憶しています。「月面宙返り」は、正式?には「後方かかえこみ宙返り2分の1ひねり前方かかえこみ宙返り2分の1ひねり下り」というのだそうですが、もちろん1969年のアポロ11号の月面着陸をイメージして名付けたのだそうです。
ミュンヘン五輪は、団体、個人総合、種目別の平行棒、鉄棒、つり輪の計5個の金メダルを獲得、また、個人総合、平行棒、鉄棒ではメダルを独占するなど、なんと合計16個のメダルを獲得しています。
そして1976年モントリオール五輪。メンバーは、加藤沢男、塚原光男、監物永三、笠松茂のミュンヘン組に梶山広司、藤本 俊、五十嵐久人を加えた7人。このうち補欠の五十嵐を除く6人が大会に出場することになっていました(うち上位5人の得点で競う)。ところが、大会直前にエース笠松が虫垂炎にかかり欠場することになり、5連覇に黄信号が灯ったのです。
案の定、規定演技ではエース・アンドリアノフ率いるソ連に差をつけられ、絶体絶命のピンチ。それを自由演技で見事逆転し、史上初のオリンピック5連覇という偉業を達成するのですが、そこには、本来補欠だった五十嵐選手の活躍がありました。
自由演技3種目目ののつり輪で、藤本選手が右膝半月板を損傷して途中棄権したため、ついに1人のミスも許されない状況になります。ソ連がプレッシャーからかミスを連発する中で、日本はベテラン3人を中心としてノーミスの演技が続きました。
最終種目鉄棒。五十嵐選手がウルトラCを決め9.85の高得点をマーク。そして締めくくりは塚原選手の月面宙返り(この時中継のアナウンサーは「新・月面宙返り」と言いましたが、実際に塚原選手がやったのは「月面」でした。予定では「新」だったのですが、塚原選手が急遽「月面」に切り替えたのです)。
得点が出る前に勝利を確信した選手たちは、腕を突き上げて雄叫びをあげ、泣きながら抱き合っていました。テレビの前の僕たちも、同じ感動に浸ることができた瞬間でした。
五十嵐選手は、実力がありながら怪我に泣かされ続けてきた選手でしたが、最後の最後で見事に花を咲かせました。現在、新潟大学教育学部の助教授として教鞭をとられ、後進の指導にあたっているそうです。
史上最強ともいわれるメンバー(加藤沢男、中山彰規、監物永三、塚原光男、笠松茂)を擁し、ライバル・ソ連に大差をつけてのオリンピック団体4連覇。まさに王者の貫禄でした。
圧巻は、団体最後の種目鉄棒で塚原選手が見せてくれた「月面宙返り」。9.90という当時見たことのない高得点を挙げ(あのコマネチが10.0を連発するのは次のモントリオール五輪)、観衆のスタンディング・オベーションを受けたシーンは鮮明に記憶しています。「月面宙返り」は、正式?には「後方かかえこみ宙返り2分の1ひねり前方かかえこみ宙返り2分の1ひねり下り」というのだそうですが、もちろん1969年のアポロ11号の月面着陸をイメージして名付けたのだそうです。
ミュンヘン五輪は、団体、個人総合、種目別の平行棒、鉄棒、つり輪の計5個の金メダルを獲得、また、個人総合、平行棒、鉄棒ではメダルを独占するなど、なんと合計16個のメダルを獲得しています。
そして1976年モントリオール五輪。メンバーは、加藤沢男、塚原光男、監物永三、笠松茂のミュンヘン組に梶山広司、藤本 俊、五十嵐久人を加えた7人。このうち補欠の五十嵐を除く6人が大会に出場することになっていました(うち上位5人の得点で競う)。ところが、大会直前にエース笠松が虫垂炎にかかり欠場することになり、5連覇に黄信号が灯ったのです。
案の定、規定演技ではエース・アンドリアノフ率いるソ連に差をつけられ、絶体絶命のピンチ。それを自由演技で見事逆転し、史上初のオリンピック5連覇という偉業を達成するのですが、そこには、本来補欠だった五十嵐選手の活躍がありました。
自由演技3種目目ののつり輪で、藤本選手が右膝半月板を損傷して途中棄権したため、ついに1人のミスも許されない状況になります。ソ連がプレッシャーからかミスを連発する中で、日本はベテラン3人を中心としてノーミスの演技が続きました。
最終種目鉄棒。五十嵐選手がウルトラCを決め9.85の高得点をマーク。そして締めくくりは塚原選手の月面宙返り(この時中継のアナウンサーは「新・月面宙返り」と言いましたが、実際に塚原選手がやったのは「月面」でした。予定では「新」だったのですが、塚原選手が急遽「月面」に切り替えたのです)。
得点が出る前に勝利を確信した選手たちは、腕を突き上げて雄叫びをあげ、泣きながら抱き合っていました。テレビの前の僕たちも、同じ感動に浸ることができた瞬間でした。
五十嵐選手は、実力がありながら怪我に泣かされ続けてきた選手でしたが、最後の最後で見事に花を咲かせました。現在、新潟大学教育学部の助教授として教鞭をとられ、後進の指導にあたっているそうです。
私は大学教養体育の講義で、五十嵐先生の「体育実技 ソフトボール」を聴講したことがあります。最後の講義では、オリンピックの思い出話をしていただき、金メダルの実物を見せてもらいましたが、良い思いでです。
あのときと非常に状況が似ていて、
あの感動をまた味わうことができました。
「五十嵐先生」の金メダルを見せていただいたとか、うらやましいですね~!
モントリオール五輪の金メダルも触らせてもらったことがあります☆
上からモノを言いつけることなど決してなく、さらにとても腰が低く、とても頼れる先生です。
自分は出来が悪いので、よくご迷惑をおかけしているのを大変申し訳なく思って過ごしている毎日です(^ー^;)
コメントありがとうございます。
五十嵐先生、本当に素晴らしい方のようですね。そんな先生にご指導いただけるのは幸せですね。しかもオリンピックの金メダリストですから。私は、モントリオールのあの瞬間を共有できたことが幸せだったと今でも思っています。
五十嵐先生によろしくお伝えください。