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オリンピックの話◆第9話 アベベとエチオピア

2004-08-22 | └オリンピックの話
第17回ローマ大会のマラソンコースは、古代ローマ時代に造られたアッピア街道を走り、コンスタンティヌス帝の凱旋門をゴールとする42.195kmでした。

1960年9月10日、日はすっかり暮れ、たいまつの灯りのみが頼りとなったそのマラソンコースで2人のランナーがデッドヒートを演じていました。残り1.6km過ぎからスパートした選手がそのままトップでゴールしました。記録は2時間15分16秒2。当時としては驚異的な世界記録でした。世界が驚いたのはその記録だけではありません。その選手はシューズを履いておらず、裸足で石畳のアッピア街道を走り抜けてきたのでした。

彼の名はアベベ・ビキラ。大会前には全く無名のエチオピアの選手でした。彼はエチオピアに初めての金メダルをもたらしたのです。エチオピアにとって、イタリアで開催されたオリンピックで金メダルを取ったことは、歴史的に大変意味があることでした。

エチオピアは、古代から王朝が栄え、4世紀頃からはキリスト教が普及しました。19世紀後半の「アフリカ分割」では、周囲を列強に取り囲まれ、北からはイタリアが侵入しますが、1896年の条約で独立を維持することに成功しました。イタリアは、ムッソリーニ率いるファシスト政権が、1935年再びエチオピアを侵略します。1930年に即位したハイレ・セラシエ皇帝はロンドンに逃亡しますが、国民はゲリラ戦による抵抗を続け、イギリス軍の支援もあって、1942年に独立を回復します。

このように、近代以降エチオピアが2回にわたる侵略を受けたのがイタリアという国だったのです。イタリアの勝利を意味するコンスタンティヌス凱旋門にアベベがトップでゴールし、高々とローマに掲げた国旗は、エチオピア国民にとって、苦い歴史を払拭してくれるものでもありました。

さて、戻ってきたハイレ・セラシエ皇帝は、1955年に憲法を制定しますが、三権を皇帝に集中させ、独裁政治を行います。貧しい農家出身のアベベは、19歳の時にハイレ・セラシエ皇帝の親衛隊に入隊しました。そこで出会ったスウェーデン陸軍のニスカネン少佐の指導のもとでマラソンを始め、その才能を開花させていきます。エチオピアは国土のほとんどを標高2000m以上のアビシニア高原が占めているため、日々の練習はそのまま「高地トレーニング」になったのです。

機械のような正確なピッチ、そしてたくましい心肺機能は、このような環境のもとで培われたといっていいでしょう。

ローマでは「合う靴がなかった」という理由で裸足で走ったアベベでしたが、次の第18回東京大会では日本のシューズメーカーが作った靴を履いて走り、圧倒的な強さで優勝、オリンピック2連覇を達成します(記録は2時間12分11秒2=世界最高記録)。次の第19回メキシコ大会にも出場しましたが、16km付近で棄権しています。この時の優勝は同僚のマモ選手で、エチオピアはオリンピックでマラソン3連覇を果たしました。

ハイレ・セラシエ皇帝は、大会後、マモとともに、アベベにも昇進の栄誉を与え、その功績を讃えています。

アベベの名がいまだに語り継がれるのは、「裸足の走者」の衝撃ももちろんあるでしょうが、もう一つのニックネーム「走る哲学者」に表されるような無表情で飄々とした走りぶり、そしてゴール後もほとんどその表情を変えずに黙々と柔軟体操をするといった様子に、何か超人的なものを感じさせることにあるのではないでしょうか。その点、現代ではイチローにも相通じるものがあるような気がします。

アベベは、1969年、交通事故で半身不随となり、車椅子生活を余儀なくされます。アーチェリーでパラリンピックに出場したりもしていますが、1973年10月、その後遺症で亡くなっています。享年41歳でした。

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