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カクレマショウ

やっぴBLOG

「ダーウィンの悪夢」─ドキュメンタリーが示す「現実」とは

2007-04-02 | ■映画
どうしても見ておかなきゃならないと思った映画、「ダーウィンの悪夢」。青森でも、数ヶ月遅れではありますが、シネマディクトが上映してくれました。

タンザニア、ウガンダ、ケニアの3ヶ国にまたがる、世界第2位の広さを持つヴィクトリア湖が舞台です。50年前に誰かが放流した「バケツ1杯」のナイルパーチという魚が瞬く間に繁殖し、「ダーウィンの箱庭」とまで言われる豊かな生態系を誇った湖の環境に重大な変化をもたらした。いや、変わったのは自然環境だけではありません。ナイルパーチはヴィクトリア湖岸に住む人々の生活をも一変させました。

そのことを、フーベルト・ザウパー監督は、ドキュメンタリーの手法で、手持ちのカメラを使って淡々と描いていきます。テレビのドキュメンタリーと違うのは、ナレーションがないこと、余計な音楽(BGM)がなく現場の音を忠実に拾っていること、といったあたりでしょうか。ノン・フィクションなのに、まるで演出されているかのようなシーンが出てきて、時折ドキッとさせられます。たとえば、冒頭のルワンザ空港。無線もないおよそ前近代的な空港の管制官は、飛んでくるアブにいらだつ。窓に叩きつけられるアブにズームインするカメラ。後半では、毒矢を携えた夜警のラファエルが暗闇の中で、戦争を望んでいると語るシーン。充血した目。静寂の中に彼とカメラマンの話し声だけが響く。へたな演出なんかより、よほどリアリティを醸し出しています。

さて、ナイルパーチの加工工場では、ヨーロッパや日本に輸出される白身の部分だけが箱詰め冷凍される。頭と骨は残骸として捨てられる…と思いきや、トラックに山積みされてどこかに運ばれていく。映像は、その「残骸」が貧しい人々の食用になる、という恐ろしい顛末を匂わせつつ、淡々とその残骸の行方を追う。ナイルパーチのアラを干す作業をする女性。裸足の足下にはウジ虫がわいている。ぎょえー。どうやってこんなものを「食べる」というのか?…

しかし、彼らは少なくとも、自分の食べているモノが「何であるか」を知っている。翻って、私たちはどうでしょう? コンビニ弁当の「白身魚フライ」の「白身魚」がどこでいつ獲れた魚なのかに私たちはほとんど関心を示しません。それがもしかしたら、遠くアフリカのど真ん中にある大きな湖で獲れた魚かもしれないということに。その魚がどんなにか膨大なエネルギーを費やして日本まで運ばれてきているかもしれないということに。最近でこそ、「作った人の顔が見える農作物」が大はやりですが、私たちは自分の食べているモノのルーツに関心を持っていいのではないか…。もし「食育」というなら、そういうことがもしかしたら大切なことではないでしょうか?

実は、タンザニアやアフリカの抱える問題は、ナイルパーチつまり「ダーウィンの悪夢」だけではないことがしだいに解き明かされていくところが、この映画の大きな特徴だろうと思います。

冒頭から、ナイルパーチをヨーロッパに運んでいく飛行機が、飛んでくる時はいったい「何」を運んでくるのかという点に、カメラのこちら側はやけにこだわる。パイロットや乗務員は「からっぽだ」、「知らない」、「興味がない」などと一様に口をそろえてシラを切る。その「不自然さ」はスクリーンを通しても伝わってきます。

「救い」はキリスト教にあるかというと、そうでもなさそうなこともこの映画は語ります。HIVが蔓延する漁師キャンプの牧師は、現状を憂いながらも、婚外性交渉や同性愛を罪とする神の教えに背くので、コンドームの使用を勧めることはできないと言う。…いったい何のための宗教かと思いますね。自分の子どもへの輸血を拒否して死に至らしめた「ものみの塔」の連中と同じではないですか。伝道師たちが見せる映画に、イエスのおかげで漁師ペテロの舟は魚の重みで進むことができないほど大漁となった、という逸話がありましたが、これはナイルパーチを積み過ぎて離陸に失敗し、ヴィクトリア湖に浮かぶ羽目になった輸送機を思い起こさせます。 

グローバリゼーションとは、地球の裏側で起こっている現実を知ることと言われます。確かに、「知っている」ということと「全然知らないこと」の違いは大きい。しかし「現実」っていったい何なのか。たとえば映像というメディアを使って「知る」時に、ドキュメンタリーという手法なら、「現実」を正しく私たちの目の前に見せてくれるのか…。

実はこの映画、途中からなんとなく「胡散臭さ」を感じるようになってしまいました。

確かに「良質のドキュメンタリー」です。でも「ドキュメンタリー」と言えども、「事実」をただつなげたものでは決してなく、そこには制作者の意図が必ず含まれています。ドキュメンタリーも結局は「編集」されているのです。制作者にとって都合のいいセリフだけが使われているのかもしれない。というより、ドキュメンタリーが制作者が「何か」を伝える手段である以上、それは極めて当然のことなのかもしれません。その点、「ドキュメンタリー」であるからこそ、くせ者とも言えるのかもしれない…。と考えていくと、冒頭のシーンも、あれは本当に「事実」だったのか?と思わざるを得なくなってきます。

でも、それはこの映画の価値を損なうものでは決してないと思います。こういう映画を見て、たとえば「アフリカってやっぱり不潔なんだ」とか「アフリカはまだまだ遅れてる」とか、そんなふうにレッテルを張らない、つまり一面的な判断をしないようなリテラシーを持つことが大事なのであって、そういう意味ではメディアリテラシーのいい「教材」とも言えるかもしれない。タンザニアの人たちみんながナイルパーチのアラを食べているわけでもなく、タンザニアの村がすべて飢えに苦しんでいるわけでもなく、タンザニアの子どもたちのすべてがストリートチルドレンであるわけでもない。「それがすべて」のように描くのはドキュメンタリーの常道ですから、そのことをきちんと理解して見ればいいだけです。

というより、この「ドキュメンタリー」を、そんなふうにレッテルを張った見方しか描いていないからダメと決めつけるのはどうかと思います。どこかのレビューに、もし、不法入国者とかホームレスとかキワモノ料理?の映像と日本の悪口インタビューだけで日本という国を紹介するドキュメンタリーが作られたら、海外の人はどう思うだろうか?この映画も同じだ、なんていうのがありましたが、たとえそういうドキュメンタリーが作られたからといって、日本という国がそんなひどい国だと世界のみんなが思うわけではないでしょう。

その国の社会を「すべての局面」から描くことなんか到底不可能です。「ダーウィンの悪夢」は、「ナイルパーチ」を切り口にして、あえて「悪い側面」だけを描き出した映画。そうとらえておきましょう。


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