goo blog サービス終了のお知らせ 

カクレマショウ

やっぴBLOG

「墨攻」─その1 墨家思想の盛衰

2007-02-12 | └歴史映画
歴史の中でもっとも面白いのは、ある国家が安定した政権を保っている時よりも、むしろ分裂、群雄割拠の時代だとよく言われます。日本史で言えば戦国時代、ヨーロッパ史では近代前半、中国史では、春秋戦国時代・三国時代…。そんな「激動の時代」が面白いのは、いろいろなタイプの「人間」が覇を競っていたからにほかなりません。

中国の春秋戦国時代とは、紀元前770年から紀元前221年までの約550年間の動乱の時代を指します。歴史上、紀元前403年を区切りとして、「春秋の五覇」が対立した春秋時代と「戦国の七雄」が覇権を競った戦国時代とに分けています。中国史上最も長いこの分裂時代に終止符を打ち、最初の統一国家を樹立したのが秦の始皇帝でした。

この時代は、思想面で中国史の中でも華やかな時代でした。「儒家・道家・陰陽家・法家・名家・墨家・縦横家・雑家・農家・小説家」の九流十家をはじめとする「諸子百家」が活躍した時代。世界史ではこれらが「わかりやすい」ように一覧表かなんかになって示されるわけですが、はい、儒家は孔子、孟子、荀子、道家思想の老子、荘子、法家の商鞅(しょうおう)、韓非子…みたいに機械的に覚えても、試験には役立つかも知れませんが、それではあんまり意味がない。

彼らそれぞれの思想や主張は、どれもその時代の政治や社会を反映しています。それを知ることの方がもっと大切です。550年間という長い年月ですから、当然、生きた時代もずいぶん異なります。たとえば、「儒家」の創始者・孔子(孔丘=こうきゅう)(前552~前479)が生きたのは、春秋末期の小国・魯(ろ)という国。彼は各国の文献を集め、これを整理して「易・書・詩・礼・春秋」(五経)にまとめ、それを教科書として私塾を開きました。彼の私塾には貧富や階級のいかんを問わず、誰でも入れたと言います。それまで貴族階級のものだった「学問」とか「文化」を広く庶民にまで広めたのです。彼の言行をまとめた「論語」が今でも読み継がれているのは、「仁」つまり人間が本来持っている真心や愛の実践とか目上の人を敬う礼の教えとか、彼の思想の「わかりやすさ」にあることは言うまでもありません。孔子はそのたぐいまれな博識が見込まれて、魯の司法長官にまで任じられています。彼は思想家であり、政治家でもあったわけですね。

孔子が亡くなった頃に生まれたと言われるのが墨てき(=「てき」は「曜」の日へんのない字)です。のちに墨子と呼ばれるようになる、墨家の始祖です。彼もはじめは孔子の教えすなわち儒家を学びますが、しだいに疑問を抱くようになります。儒家の説く「仁」なんて結局は家族や親類縁者への「差別的な愛」でしかない。また「礼」というが、もったいぶって形ばかりのもので、そんなの民衆には受け入れられない、と彼は考えました。

こうして墨子は、無差別平等の愛つまり「兼愛」を主張し、それに基づいて社会の底辺にいる民衆を救うことこそ大切であると説くようになります。そして、当時、覇を競って戦争や殺し合いを続ける国々に対して、民衆の平和を守るために国家間での戦争をやめようと説くのです。これが「非攻」です。墨子は言います。

「一人の人間を殺した者は、不正義を犯したとして必ず死刑に処せられる。ところが、今、他国を攻撃するという大きな不正をはたらく者については、それを非難するどころか、かえってほめたたえて正義であると言っている。」

墨子のすごいところは、こうした非戦論を唱えただけでなく、自ら実践したことです。彼は自分の学説を信ずる人たちで「平和維持部隊」を作ります。部隊には、徹底した城の防衛法をたたき込みました。城の攻撃法は一切教えません。ひたすら、どうやって城を守り抜くか、つまり「墨守」(今でも使われる言葉ですね)の戦法でした。で、実際にそういう戦法を携えて、当時、宋の国を攻撃しようとしていた楚国に赴き、王に攻撃をやめるよう口説きました。墨子の死後は、後継者たち(鉅子=きょしと呼ぶ)が同じように諸国を渡り歩いては、城の防衛法を伝えていきました。

映画「墨攻」は、そんな墨者たちを象徴的に描いた作品です。部隊となる梁(りょう)の国や主人公の革離(かくり)という人物はフィクションですが、当時の墨家がどんな形で民衆に受け入れられていたのか、権力者は彼らをどうのように遇したのか、そしてどんな意表をつく戦法を「売り」にしていたのか、といったことを知ることができるのです。

意外に思われるかもしれませんが、戦国時代、諸国が相争う中で、諸子百家のうち最も勢力を誇っていたのは墨家でした。特に、常に戦乱の世にあって常に犠牲を強いられる民衆には、墨家の教えは大人気でした。しかし、それは一方では、武力を頼みとする権力者にとっては到底受け入れられるものではありませんでした。この映画でも、「梁王」は、家臣の進言があったとはいえ、墨者・革離に対しては終始懐疑的です。彼がいかに優れた作戦で城を守ってくれたとしても、武力による侵略と併合を否定する「非攻」の教えをまるごと受け入れるわけにはいきません。そのあたりに墨家の悲劇がありました。

墨家は、200年ほど勢力を保ちましたが、前221年、秦の始皇帝が初めて中国を統一して以降、ぱったりと姿を消してしまいます。秦は中央集権体制構築の原理として「法」を重んじる法家思想を取り入れ、続く漢代になると、戦国時代に墨家と勢力を分け合った儒家が国教として定められていきます。

たぶん、墨家思想の根本にあった、人間は国家や民族という枠組みを超えて皆平等である、という考え方が、当時はあまりにも突飛すぎたと言えるのではないでしょうか。こうした考えに私たちがようやく気づき、認めるようになるのは2千数百年後の20世紀になってからなのですから。もちろん、墨家の教えの中にも、「明鬼」=鬼神に従って犯罪者を処罰せよとか、「非楽」=音楽に溺れず勤労と節約に励めといったように、現代では受容できないような内容も含まれていますが、「兼愛」と「非攻」については、今でも立派に通用する思想と言えます。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿