“THE KING'S SPEECH”
2010年/英・オーストラリア/118分
【監督】トム・フーパー
【脚本】デヴィッド・サイドラー
【出演】コリン・ファース/ジョージ6世 ジェフリー・ラッシュ/ライオネル・ローグ ヘレナ・ボナム=カーター/エリザベス ガイ・ピアース/エドワード8世 マイケル・ガンボン/ジョージ5世
(C)2010See-SawFilms.Allrightsreserved.
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こういう映画を見るたびに、同じ立憲君主制とはいえ、英国と日本の王室・皇室に対する扱い方がこうも違うものかと思う。こういう映画は日本では絶対に作れないだろう。
これまで、英国の王が「神」であったことは一度もありません。あくまでも、”King”は現世の支配者でしかない。翻って、日本の天皇は、かつて「神」でした。皇室に対して私たちの見せる「敬虔さ」と「尊敬」は、日本の天皇がかつて「現人神」だったことをいまだに引きずっているからなのかもしれません。大震災の避難所に天皇が訪れたときに、ひざまづいて被災者に語りかける姿を見てなんだかほわーっとした気持ちになるのも、彼に、何かしら自分たちとの「違い」を感じるからだろうと思う。
「神」にはスキャンダルなどあり得ないし、今の日本の皇室も、スキャンダルを超越したところに存在しています。英国の王室の歴史がスキャンダルだらけなのとは大ちがいです。この映画で描かれる「吃音の国王」というのも、一種のスキャンダルなのかもしれない。
そして、もう一つ、重要な違いがあります。それは、「神」なる天皇は、決して下々の者に直接語りかけないということです。昭和20年8月15日、昭和天皇は、ラジオを使って初めて国民に直接語りかけました。いわゆる「玉音放送」。国民は、「神様」の声を初めて聞いたのです。逆に言えば、あの放送は、天皇が「神」でなく、「人間」になった瞬間でもありました。
一方、英国王(に限らずヨーロッパの君主)は、しょっちゅう国民に語りかけます。戦争が始まるとき、終わる時はもちろん、国家にとって重要な節目には、必ず「スピーチ」をする。特に、20世紀に入って無線やラジオが一般的になると、国王のスピーチは、極めて重要なものになります。ヒトラーの例を引き合いに出すまでもなく、君主の演説の巧拙は、国家の安泰を左右したといっても過言ではありません。
この映画の主人公ジョージ6世/愛称バーティ(コリン・ファース)は、現在の英国王エリザベス2世の父に当たります。この映画を見たエリザベス女王が涙を流した、という話もあります。彼女にとっては、自分の父親が主人公ですからね。小さい頃のエリザベス(とその妹)も登場してきますが、父親としても本当に良き家庭人だったことがうかがわれます。
彼は、先代のジョージ5世の次男(ヨーク公)で、もともと国王になるはずじゃなかったのに、兄エドワード6世(ガイ・ピアーズ)が戴冠式をする前に退位してしまったものだから、王冠が転がり込んできた。なぜ兄は王位を捨ててしまったのか? それは、彼が米国人女性ウォレス・シンプソンとの結婚を望み、離婚歴のある女性との結婚を認めない英国国教会や政府の意を汲んだからです。あのダイアナ妃の離婚&事故死以前には、英国王室最大のスキャンダルと言われた「王冠か恋か」事件。英国王室、まったく、いろいろありますね。
それはともかく、こうして運命の巡り合わせで英国王になってしまったジョージ6世ですが、彼には一つ、大きな問題がありました。吃音癖です。国王となった以上、吃音癖は、単なるコンプレックスでは片づけられないものとなります。演説もまともにできない国王に、国民がついてきてくれるでしょうか? 国王である以上、吃音をなんとしてでも矯正しなくてはならない…。
彼がそれを克服するためには、一人の男の力が必要でした。そう、この映画のもう一人の主人公、ライオネル・ローグ(ジェフリー・ラッシュ)です。ライオネル・ローグが脚光を浴びたのは、この映画がほとんど初めてらしい。映画では、夫の吃音を矯正するために、妃が新聞の広告欄で見つけたという設定になっています。王室の人間であるバーティにとっては、いくつかの点で、ローグは治療医としてはふさわしい人物ではなかった。
・「平民」である。
・植民地であるオーストラリア出身である。
・医師の免許も資格も持っていない。
3つ目については、「治療」が始まってしばらくしてから国王の知るところとなるのですが、「詐欺だ」と怒る国王に対して、ローグは資格はないが、「経験」がそれをカバーしていると反論します。結局のところ、国王もローグの「経験」に頼るしかなくなるのですが。というより、ローグの裏表のない性格に、人間として惹かれた、と言っていいでしょう。おそらく、王室の周辺には権謀術数や策略、裏切り、足引っ張りが渦巻いていて、明らかにそれらの「外側」にいるローグに、国王が「医者と患者」として以上の友情を感じていたのではないでしょうか。
ジェフリー・ラッシュがローグを好演。少し崩れた英国紳士といった雰囲気で、見ていてすっかり安心させられるたたずまいを醸し出しています。それから、全然目立たないけれど、彼の奥さん(ジェニファー・イーリー)がなんかとてもいい感じ。自分の夫のクライアントが国王だなんて露とも知らずにいて、突然国王夫妻が自宅にやってきた時のあわてぶりなど、何ともほほえましい。儀礼上食事を勧めるものの、丁重に断られて、ほっとする感じとかね。
クライマックスの「英国王のスピーチ」にはもちろん感動させられますが、単なる「コンプレックスを乗り越えた男の物語」ではない、深みのある映画。底辺を流れるのは、英国流のユーモア感覚なのだと思いますが、それは、中世以来の王室の伝統と、その王室から様々な「権利」を勝ち取ってきた英国の民衆、両者の織りなす歴史の中で培われてきたものです。そんな英国の歴史があってこその映画。素晴らしいですね。
2010年/英・オーストラリア/118分
【監督】トム・フーパー
【脚本】デヴィッド・サイドラー
【出演】コリン・ファース/ジョージ6世 ジェフリー・ラッシュ/ライオネル・ローグ ヘレナ・ボナム=カーター/エリザベス ガイ・ピアース/エドワード8世 マイケル・ガンボン/ジョージ5世
(C)2010See-SawFilms.Allrightsreserved.
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こういう映画を見るたびに、同じ立憲君主制とはいえ、英国と日本の王室・皇室に対する扱い方がこうも違うものかと思う。こういう映画は日本では絶対に作れないだろう。
これまで、英国の王が「神」であったことは一度もありません。あくまでも、”King”は現世の支配者でしかない。翻って、日本の天皇は、かつて「神」でした。皇室に対して私たちの見せる「敬虔さ」と「尊敬」は、日本の天皇がかつて「現人神」だったことをいまだに引きずっているからなのかもしれません。大震災の避難所に天皇が訪れたときに、ひざまづいて被災者に語りかける姿を見てなんだかほわーっとした気持ちになるのも、彼に、何かしら自分たちとの「違い」を感じるからだろうと思う。
「神」にはスキャンダルなどあり得ないし、今の日本の皇室も、スキャンダルを超越したところに存在しています。英国の王室の歴史がスキャンダルだらけなのとは大ちがいです。この映画で描かれる「吃音の国王」というのも、一種のスキャンダルなのかもしれない。
そして、もう一つ、重要な違いがあります。それは、「神」なる天皇は、決して下々の者に直接語りかけないということです。昭和20年8月15日、昭和天皇は、ラジオを使って初めて国民に直接語りかけました。いわゆる「玉音放送」。国民は、「神様」の声を初めて聞いたのです。逆に言えば、あの放送は、天皇が「神」でなく、「人間」になった瞬間でもありました。
一方、英国王(に限らずヨーロッパの君主)は、しょっちゅう国民に語りかけます。戦争が始まるとき、終わる時はもちろん、国家にとって重要な節目には、必ず「スピーチ」をする。特に、20世紀に入って無線やラジオが一般的になると、国王のスピーチは、極めて重要なものになります。ヒトラーの例を引き合いに出すまでもなく、君主の演説の巧拙は、国家の安泰を左右したといっても過言ではありません。
この映画の主人公ジョージ6世/愛称バーティ(コリン・ファース)は、現在の英国王エリザベス2世の父に当たります。この映画を見たエリザベス女王が涙を流した、という話もあります。彼女にとっては、自分の父親が主人公ですからね。小さい頃のエリザベス(とその妹)も登場してきますが、父親としても本当に良き家庭人だったことがうかがわれます。
彼は、先代のジョージ5世の次男(ヨーク公)で、もともと国王になるはずじゃなかったのに、兄エドワード6世(ガイ・ピアーズ)が戴冠式をする前に退位してしまったものだから、王冠が転がり込んできた。なぜ兄は王位を捨ててしまったのか? それは、彼が米国人女性ウォレス・シンプソンとの結婚を望み、離婚歴のある女性との結婚を認めない英国国教会や政府の意を汲んだからです。あのダイアナ妃の離婚&事故死以前には、英国王室最大のスキャンダルと言われた「王冠か恋か」事件。英国王室、まったく、いろいろありますね。
それはともかく、こうして運命の巡り合わせで英国王になってしまったジョージ6世ですが、彼には一つ、大きな問題がありました。吃音癖です。国王となった以上、吃音癖は、単なるコンプレックスでは片づけられないものとなります。演説もまともにできない国王に、国民がついてきてくれるでしょうか? 国王である以上、吃音をなんとしてでも矯正しなくてはならない…。
彼がそれを克服するためには、一人の男の力が必要でした。そう、この映画のもう一人の主人公、ライオネル・ローグ(ジェフリー・ラッシュ)です。ライオネル・ローグが脚光を浴びたのは、この映画がほとんど初めてらしい。映画では、夫の吃音を矯正するために、妃が新聞の広告欄で見つけたという設定になっています。王室の人間であるバーティにとっては、いくつかの点で、ローグは治療医としてはふさわしい人物ではなかった。
・「平民」である。
・植民地であるオーストラリア出身である。
・医師の免許も資格も持っていない。
3つ目については、「治療」が始まってしばらくしてから国王の知るところとなるのですが、「詐欺だ」と怒る国王に対して、ローグは資格はないが、「経験」がそれをカバーしていると反論します。結局のところ、国王もローグの「経験」に頼るしかなくなるのですが。というより、ローグの裏表のない性格に、人間として惹かれた、と言っていいでしょう。おそらく、王室の周辺には権謀術数や策略、裏切り、足引っ張りが渦巻いていて、明らかにそれらの「外側」にいるローグに、国王が「医者と患者」として以上の友情を感じていたのではないでしょうか。
ジェフリー・ラッシュがローグを好演。少し崩れた英国紳士といった雰囲気で、見ていてすっかり安心させられるたたずまいを醸し出しています。それから、全然目立たないけれど、彼の奥さん(ジェニファー・イーリー)がなんかとてもいい感じ。自分の夫のクライアントが国王だなんて露とも知らずにいて、突然国王夫妻が自宅にやってきた時のあわてぶりなど、何ともほほえましい。儀礼上食事を勧めるものの、丁重に断られて、ほっとする感じとかね。
クライマックスの「英国王のスピーチ」にはもちろん感動させられますが、単なる「コンプレックスを乗り越えた男の物語」ではない、深みのある映画。底辺を流れるのは、英国流のユーモア感覚なのだと思いますが、それは、中世以来の王室の伝統と、その王室から様々な「権利」を勝ち取ってきた英国の民衆、両者の織りなす歴史の中で培われてきたものです。そんな英国の歴史があってこその映画。素晴らしいですね。
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