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カクレマショウ

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「それでも生きる子供たちへ」─姿勢を低くしてみること

2007-08-22 | ■映画
「7つの国の子どもたちの現実を、7つの国の監督達がドラマチックに描く」というふれこみの、オムニバス映画です。原題は、"ALL THE INVISIBLE CHILDREN"。“目にふれることのない子どもたち”とでも訳すのでしょうか。邦題の「それでも生きる子供たちへ」も、なるほどなと思いますが、「へ」は不要なんじゃないのかなとも思います。

7つの物語のプロフィールは次のとおりです。

 1 「タンザ」 監督:メディ・カレフ 舞台:ルワンダ
 2 「ブルー・ジプシー」 監督:エミール・クストリッツァ 舞台:セルビア・モンテネグロ
 3 「アメリカのイエスの子ら」 監督:スパイク・リー 舞台:米国
 4 「ビルーとジョアン」 監督:カティア・ルンド 舞台:ブラジル
 5 「ジョナサン」 監督:ジョーダン・スコット&リドリー・スコット 舞台:英国
 6 「チロ」 監督:ステファノ・ヴィネルッソ 舞台:イタリア
 7 「桑桑(ソンソン)と小猫(シャオマオ)」 監督:ジョン・ウー 舞台:中国

どの物語にも共通しているのは、大人社会の「犠牲」となっている子どもたちが描かれていること。はじけるような子どもの笑顔が出てくることはあまりないし、登場する大人たちのほとんどは、どうしようもない。「いい大人」として描かれているのは、「桑桑と小猫」の桑桑のおじいさんくらいでしょうか。あとは、ブラジルの貧民街に暮らす明るい兄妹の生活を描いた「ビルーとジョアン」で、荷車がパンクした時に助けてくれた名もなき青年…。

ただ、この映画では、「死んでしまう」子どももまた一人も出てこない。死を予感させる物語はありますが、少なくとも、スクリーン上では一人も死なない。いろいろな境遇の子どもたちが登場してきて、けっこう疲れる映画ですが、子どもたちの死を見せつけられない分、ほっとさせられる面もありました。

「タンザ」では、ルワンダの少年兵が描かれます。時限爆弾を持って忍び込んだのは、タンザ少年が行きたくても行けない「学校」。黒板に書かれた英語の問題に、思わずチョークを手にして答えを書き込むタンザ。机の上に置いた時限爆弾の上に突っ伏して涙を流すタンザ。彼からチョークやノートを奪い、武器を持たせているのはいったい誰なのか…?

学校への憧れといえば、「桑桑と小猫」のシャオマオの物語にも胸を突かれました。地面に落ちているちびた鉛筆をシャオマオのために拾ってあげようとして車に轢かれてしまうおじいさん。お金がたまればシャオマオを学校に通わせられると楽しみにしていたのに。ジョン・ウー監督らしい正統派の(ベタな)悲劇ですが、シャオマオの表情についジワリとさせられます。

子ども=「学校」という図式が必ずしも普通に連想されないところが、世界にはまだたくさんあるということに改めて気づかされます。というより、この7つの物語では、まともに学校に通っている子どもはほとんど出てこない。学校に通っている姿が出てくるのは、「アメリカのイエスの子ら」に登場するブランカぐらいでしょうか。ブランカは、ごく普通に学校に通う、ごく普通のティーンエイジャー。ところが、両親がHIV感染者の上に麻薬常習者。ブランカ自身もHIVに感染している。そのことでクラスメートから「エイズ・ベイビー」といじめられる…。最後のシーンに救われる物語です。

少なくとも、日本の子どもたちは、ほぼ100%が学校に通うことができる、ということだけでも、世界から見ればずいぶん恵まれているのだということに、否応なく気づかされます。ここで描かれる7つの物語の背景には、その何十万倍、何百万倍もの数の子どもたちが同じような境遇に立たされているという事実があります。そのことを、日本の子どもたちがこの映画から知ることは、決して無駄なことではないでしょう。

映画の最後にサン・テグジュペリの有名な言葉が紹介されます。「大人は誰も、昔は子供だった。でも、そのことを忘れずにいる大人はほとんどいない。」(『星の王子様』より)。人間は、大人になるにつれて、どんどん視線が高くなっていく。視線が高くなると、それより低いものが見えなくなってしまうのですね。

この7つの物語が私たち大人に与えてくれる教訓があるとすれば、それは、「視線を低くする」ことの大切さかもしれません。…決して「見下ろす」のではなくて、姿勢を低くすること。姿勢を低くすれば、おのずと視線も低くなるのですから。


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