さて、前回書いた、「公開版」と「監督版」の大きな違いは次の3つでした。
(1) 公開版では、デッガード(ハリソン・フォード)によるナレーション(専門的にはヴォイス・オーバーと言うそうです)が数カ所入っているが、監督版ではすべて消されている。
(2) 監督版では、公開版になかった、デッガードの見る「ユニコーンの夢」のシーンが新たに付け加えられた。
(3) エンディングの違い。公開版ではハッピーエンドだが、監督版ではどうとでもとれるような結末としている。
それぞれに、ファンの間でも賛否両論あって面白い。2バージョンあるからこその楽しさですね。というより、2バージョンくらいあって当然の、それだけ奥深い映画だということでしょうか。
(1)の「ヴォイス・オーバー」を入れるか入れないか。これもまた議論の分かれるところです。
たとえば、初めてデッガードが登場するシーン。2019年のロサンゼルスのアジアン・タウン。ゴミゴミした街角の片隅で所在なさげに座り込んで新聞を広げるデッガードの顔がアップになる。公開版では、そこに彼自身のナレーションが入る。自分が元・ブレードランナーであること、妻や子が去っていったこと…。
この「独白」めいた自己紹介があるのとないのとでは、この映画への「入り方」が大きく違ってきます。「なくてもいい」と考える人(監督自身も含めて)は、そういうデッガードをめぐる「事実」については、観る人が想像すればいい、もしくは、映画を観ているうちに分かってくる、と考えるのでしょうか。あるいは、既にこの映画を観たことのある人にとっては、確かに「邪魔」と言えば邪魔かもしれない。
呼び出されて元・上司であるブライアンのもとを訪れる時のシーンもそうです。公開版では、ここでブライアンについて、「レプリカントに対して人種差別的な偏見を持っている」といったコメントがかぶせられるのですが、それも監督版では削除されています。
「レプリカント」とは、人間とほぼ見分けのつかない人造人間。「ブレードランナー」は、感情を持つようになって人間に反抗するようになったレプリカントを「処刑」するために結成された専任の捜査官のことです。
この映画の底流をなすのがレプリカントの葛藤です。限りなく人間に近い外見を持ちながら、決して人間として扱われない。宇宙のはるかかなたで、およそ人間がしないような苛酷な労働に従事するために「製造」された奴隷。しかし、彼らには次第に「精神」が芽生えてくる。こうした「ロボット」や「アンドロイド」の精神的な「成長」とそれに伴う葛藤は、『プルートゥ』に通じるものがありますね。『プルートゥ』のロボット刑事ゲジヒトがまさにその典型だし、ウランちゃんでさえ、幼いながらに自分がロボットであることを受け入れられないでいる。
この映画では、4人のレプリカントが登場します。スペースシャトルを乗っ取って地球に密航してきた6人のうちの生き残りの男女2人ずつという設定です。彼らの目的は、自分たちの「寿命」を知ること、そして、人間と同じように「長生き」すること。実は、人間に反抗的になったレプリカントに対して、人間は、新たにレプリカントを製造する際に、4年間という寿命を設定することにしていたのです。
彼らは、まず中国人の眼球製造職人を脅し、自分たちの「製造年月日」を聞き出そうとする。それから、レプリカントの製造元であるタイレル社で働く遺伝子工学者セバスチャンを経て、ついにタイレル社長のもとを訪れる。ところが、4人のリーダー、ロイは、タイレルにも自分たちの寿命を延ばすことはできないことを知るのです。
ロイ以外の3人は、いずれも、デッガードによって抹殺されてしまう。ロイは、絶望の中でデッガードと対峙します。すると、それまでデッガード中心に進んできた物語が、最後の最後にロイに主役を奪われるのです。「ブレードランナー」としてきっちり仕事をこなしてきたデッガードが、ロイの前では全く歯が立たない。それは、力の差だけではありません。人間になりたいという願いが叶えられないことを知ったロイの放つ「オーラ」の前に、デッガードはなすすべを持たない。
『「ブレードランナー」論序説』にもありましたが、このシーンは、それまで主人公はデッガードだとばかり思っていたのが、いきなり、そうではなかったことに気づかされる画期的な場面です。ロイ(ルトガー・ハウアー)こそ、この映画の主役だったのです。
ルトガー・ハウアーのこのシーンの演技は、本当に息を呑むような迫力があります。死が近い兆候である手の麻痺。手のひらに釘を突き刺して、何とか感覚を取り戻そうとするロイ。「わたしは、おまえたち人間が信じられないようなものを見てきた」とデッガードに語るロイ。そして、静かに動かなくなるロイ。
デッガードは、それを呆然と見ているしかない。「監督版」では、ここでもカットされていますが、最初の公開版では、「わたしにできることはただ彼が死ぬのを見守ることだけだった」というナレーションが入っていました。言わずもがな。見ての通りです。ここまで来ると、デッガードにとっての「ハッピーエンド」なんて、もう期待しなくなっている。
だから、公開版のような「ハッピーエンド」はなくてもいいよなあと思うのです。「監督版」の終わり方が正解、と思いますね。
映画って、主人公に最後まで引っ張られて、感情移入して見るのが普通だと思いますが、「ブレードランナー」は見事にその常識を打ち破ってくれるのです。
(1) 公開版では、デッガード(ハリソン・フォード)によるナレーション(専門的にはヴォイス・オーバーと言うそうです)が数カ所入っているが、監督版ではすべて消されている。
(2) 監督版では、公開版になかった、デッガードの見る「ユニコーンの夢」のシーンが新たに付け加えられた。
(3) エンディングの違い。公開版ではハッピーエンドだが、監督版ではどうとでもとれるような結末としている。
それぞれに、ファンの間でも賛否両論あって面白い。2バージョンあるからこその楽しさですね。というより、2バージョンくらいあって当然の、それだけ奥深い映画だということでしょうか。
(1)の「ヴォイス・オーバー」を入れるか入れないか。これもまた議論の分かれるところです。
たとえば、初めてデッガードが登場するシーン。2019年のロサンゼルスのアジアン・タウン。ゴミゴミした街角の片隅で所在なさげに座り込んで新聞を広げるデッガードの顔がアップになる。公開版では、そこに彼自身のナレーションが入る。自分が元・ブレードランナーであること、妻や子が去っていったこと…。
この「独白」めいた自己紹介があるのとないのとでは、この映画への「入り方」が大きく違ってきます。「なくてもいい」と考える人(監督自身も含めて)は、そういうデッガードをめぐる「事実」については、観る人が想像すればいい、もしくは、映画を観ているうちに分かってくる、と考えるのでしょうか。あるいは、既にこの映画を観たことのある人にとっては、確かに「邪魔」と言えば邪魔かもしれない。
呼び出されて元・上司であるブライアンのもとを訪れる時のシーンもそうです。公開版では、ここでブライアンについて、「レプリカントに対して人種差別的な偏見を持っている」といったコメントがかぶせられるのですが、それも監督版では削除されています。
「レプリカント」とは、人間とほぼ見分けのつかない人造人間。「ブレードランナー」は、感情を持つようになって人間に反抗するようになったレプリカントを「処刑」するために結成された専任の捜査官のことです。
この映画の底流をなすのがレプリカントの葛藤です。限りなく人間に近い外見を持ちながら、決して人間として扱われない。宇宙のはるかかなたで、およそ人間がしないような苛酷な労働に従事するために「製造」された奴隷。しかし、彼らには次第に「精神」が芽生えてくる。こうした「ロボット」や「アンドロイド」の精神的な「成長」とそれに伴う葛藤は、『プルートゥ』に通じるものがありますね。『プルートゥ』のロボット刑事ゲジヒトがまさにその典型だし、ウランちゃんでさえ、幼いながらに自分がロボットであることを受け入れられないでいる。
この映画では、4人のレプリカントが登場します。スペースシャトルを乗っ取って地球に密航してきた6人のうちの生き残りの男女2人ずつという設定です。彼らの目的は、自分たちの「寿命」を知ること、そして、人間と同じように「長生き」すること。実は、人間に反抗的になったレプリカントに対して、人間は、新たにレプリカントを製造する際に、4年間という寿命を設定することにしていたのです。
彼らは、まず中国人の眼球製造職人を脅し、自分たちの「製造年月日」を聞き出そうとする。それから、レプリカントの製造元であるタイレル社で働く遺伝子工学者セバスチャンを経て、ついにタイレル社長のもとを訪れる。ところが、4人のリーダー、ロイは、タイレルにも自分たちの寿命を延ばすことはできないことを知るのです。
ロイ以外の3人は、いずれも、デッガードによって抹殺されてしまう。ロイは、絶望の中でデッガードと対峙します。すると、それまでデッガード中心に進んできた物語が、最後の最後にロイに主役を奪われるのです。「ブレードランナー」としてきっちり仕事をこなしてきたデッガードが、ロイの前では全く歯が立たない。それは、力の差だけではありません。人間になりたいという願いが叶えられないことを知ったロイの放つ「オーラ」の前に、デッガードはなすすべを持たない。
『「ブレードランナー」論序説』にもありましたが、このシーンは、それまで主人公はデッガードだとばかり思っていたのが、いきなり、そうではなかったことに気づかされる画期的な場面です。ロイ(ルトガー・ハウアー)こそ、この映画の主役だったのです。
ルトガー・ハウアーのこのシーンの演技は、本当に息を呑むような迫力があります。死が近い兆候である手の麻痺。手のひらに釘を突き刺して、何とか感覚を取り戻そうとするロイ。「わたしは、おまえたち人間が信じられないようなものを見てきた」とデッガードに語るロイ。そして、静かに動かなくなるロイ。
デッガードは、それを呆然と見ているしかない。「監督版」では、ここでもカットされていますが、最初の公開版では、「わたしにできることはただ彼が死ぬのを見守ることだけだった」というナレーションが入っていました。言わずもがな。見ての通りです。ここまで来ると、デッガードにとっての「ハッピーエンド」なんて、もう期待しなくなっている。
だから、公開版のような「ハッピーエンド」はなくてもいいよなあと思うのです。「監督版」の終わり方が正解、と思いますね。
映画って、主人公に最後まで引っ張られて、感情移入して見るのが普通だと思いますが、「ブレードランナー」は見事にその常識を打ち破ってくれるのです。
たまたま「Making of ブレードランナー」という本を読んでいたので、大好きだったブレードランナーをもう一度見たいと思ったら、いろいろ出ていたので調べていて、このブログにたどりつきました。
とっても解り易く、解説していただいて本当に参考になりました。
有り難うございます!
コメントいただき、こちらこそありがとうございます。
「Making of ブレードランナー」って、読むといろんな「謎」が解けるらしいですね。私も読みたいと思ってました。ほんとうに奥の深い映画ですね。
私はてっきり、この本も読まれた上での文章かと思ってました。
鋭い観察力には心から感服です!
おかげさまで、あのあとアマゾンで「ブレードランナー クロニクル」という3編入ったDVDを900円(新品)でゲットいたしました。じっくり見比べるのが楽しみです。有り難うございました。
再度のコメントありがとうございます。
900円でそんな貴重なモノをゲットできるなんて、いい時代ですねー。
ぜひ見比べてみて、また感想などお聞かせください。おかげで、私もまた見たくなってきました…。