さぶりんブログ

音楽が大好きなさぶりんが、自作イラストや怪しい楽器、本や映画の感想、花と電車の追っかけ記録などをランダムに載せています。

高良大社(筑後国一の宮)

2020-04-19 21:03:29 | 諸国一の宮巡り
これは去年の7月26日の話だ。JAOフェス久留米大会の練習が始まる初日の午前中、私は何とかして、高良大社と久留米城を回りたいと思っており、西鉄久留米駅近くのホテルからタクシーで、まず高良大社に行ったのであった。


この日は本当に良い天気で、回廊の朱色が青空に映え、そしてその中にある古式ゆかしき社殿に心惹かれた。


社殿は国の重要文化財であり、藩主有馬頼利による1660年の造営によるもので、総こけら葺素木造で、和様・唐様・天竺様の混じった権現造である。


まずは目下のJAOフェス久留米大会の成功を祈る。


社殿からまた回廊の門をくぐり、


眼下を見渡すと、素晴らし景色である。

ここの歴史は古い。高良大社のホームページ上の略年表を見ると、西暦400年ごろの履中天皇の御世、高良山に社殿を創建し、玉垂宮(たまたれぐう)と称した(鏡山系譜)ことに歴史は始まるらしく、以来1600以上の歴史がある。実はそれ以前に仲哀天皇の御世、異国の兵が攻めてきて西に下った神功皇后が追い返し、高良玉垂命という神が住吉の神とともに出現されたという伝説を持ち、当大社は高良玉垂命を祀っている。

前日の7月25日には筑前一宮の住吉神社や筥崎宮を見てきた。住吉神社も神功皇后ゆかりの神社であるし、筥崎宮には「敵國降伏」といういかめしい扁額が掲げられていた。それを考えるとこの筑前筑後の地が、古来より日本の防衛線となっていたことを考えざるを得ない。神功皇后自体は実在性が薄いものの、倭の五王以前に異国との戦があったことを象徴しているとも考えられるし、白村江、蒙古襲来と、この地は危険にさらされていたんだな・・ということを感じざるを得ない。

またこの地は、6世紀に筑紫国造磐井が立てこもった場所として知られる。実は、この高良山自体も朝鮮式山城なのだという。私は現地に行った時、時間に追われてそこまで頭が及ばず、すぐに帰ってきてしまったのであるが、参道の脇あたりから「神籠石(こうごいし)」と呼ばれる列石があり、1500メートル以上も続いているそうな。発見された当初は「霊地として神聖に保たれた地を区別したもの」という説もあったが、実際には朝鮮式山城であり、それこそ物部麁鹿火が磐井の乱を鎮圧した528年ごろに築かれたのではないかといわれているそうな。

私は安易にタクシーで登ってきてしまったがために重要なものを見落としてしまったわけであるが、そうはいってもタクシーを使わなければ短い時間に来れるものではなく、私の足も良くないので、仕方がない。


でも貴重な時間を使ってこの高良大社に来れたのは本当に良かった。そして、ずっと温めてたこのブログ記事を書けてよかった。

7月振り返りの投稿はまだ続きますよ。

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筥崎宮(筑前国一の宮)

2019-07-25 14:13:41 | 諸国一の宮巡り

筑前国一宮は、先に行った住吉神社と、この筥崎宮(はこざきぐう)の2つある。

地下鉄の箱崎宮前駅をでると、すぐ参道があり、二之鳥居が見える。

ひたすらに暑いなか進むと・・

一之鳥居と楼門が見えて来る。この鳥居、黒っぽくて、柱が太くて重量感がある。

神社のHPを見ると、「一之鳥居は慶長14年(1609)、藩主黒田長政が建立したとその銘にあります。」と書かれている。

黒いだけに・・・

何となく形が変わっている。HPにはさらに「この鳥居の柱は三段に切れ、下肥りに台石に続いています。笠木島木(かさぎしまぎ)は1つの石材で造られ、先端が反り上がり、貫と笠木の長さが同じ異色の鳥居であり、「筥崎鳥居」と呼ばれています。 」とある。

笠木とか島木とか貫って何?状態なのだが、要するに、横方向に走っている石材のことで、確かに二本ほぼ同じ長さだわね。

その重厚なる一之鳥居の台石から楼門を望むこのアングル・・ちょっと気に入っています。

しかしこの古式ゆかしき楼門は見ごたえありますね。

「敵國降伏」などという穏やかならざる扁額が掲げられているのを見ると、古来よりこの地が防衛の要であったことを感じざるを得ない。

この宮の第一のご神宝として、紺紙に金泥で「敵國降伏」と書かれたものが37葉納められているという。醍醐天皇の御宸筆と伝わるが、以後の天皇も納めれられた記録があるとのこと。特に1274年の蒙古襲来により炎上した社殿の再興にあたり亀山上皇が納められた事跡が有名だそうで、文禄年間に筑前領主小早川隆景が楼門を造営した時に、亀山上皇の御宸筆を写し、拡大したものがこの扁額だそうだ。

実際に敵國に攻められて炎上している地に掲げられている言葉だけに、非常に緊張感が漂ってくる。

そんな重々しい雰囲気の中、いかにも若者向けの場所があったんだが、まぁ~私もこれからの本番を控えてパワーが欲しい処なんで、湧出石にちょろっと触ってきた。

ご朱印もいただいてまいりました。

 


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住吉神社(筑前国一の宮)

2019-07-25 14:04:07 | 諸国一の宮巡り

小倉城から博多に戻って来て、博多駅から10分程度歩いたところにある住吉神社へ。

住吉と言えば、2年前に行った大阪の住吉大社。

▼住吉大社(摂津国一の宮)

https://blog.goo.ne.jp/y-saburin99/e/5bc25fe1496c31adbfb283f2cdffd408

博多の住吉神社も同じ住吉造り(黒田長政による再建)だという。

また住吉と言うからには住吉三神(底筒男、中筒男、表筒男)が祀られていて、かつ大阪の住吉大社同様、神功皇后所以の神社なのだ。住吉三神を祀る神社は2129社あるけれど、博多の住吉神社が一番古いんだそうだ。

住吉三神は海の守護神である。昔はここらへんまで海が来ていたのである。日本書紀に、神功皇后は朝鮮半島に渡る前に「依網吾彦男垂見」に対して住吉神の神主を命じたとする記述があるのだが、住吉神社縁起によると、この「依網吾彦男垂見」が博多住吉神社を創建したとなっている。神功皇后は朝鮮半島に渡航する際に住吉の神の和魂を身体に、荒魂を水軍の先鋒となして導かれ、半島に渡ることが出来たとされるのである。

さらにこの場所は、黄泉の国から逃げ帰った伊弉諾尊が禊ぎ祓いをした場所(筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原)とも言われ、禊ぎ祓いによって住吉三神が誕生したのであるから、まさしくここは住吉三神の誕生の地ということである。

さて、灼熱の中、駅から歩いて10分くらいすると、神社の神域にはいるが、同じ敷地に別の神社があるので、そこを通っていくことになる。

赤い門を抜けて、

赤い鳥居を抜けて、

ようやく住吉神社。

社殿の前に茅の輪があるが、これは右に、左にと8の字のようにくぐって最後に正面突破(つまり3回くぐる)するんだそうで、後ろにカメラを構えた人がいるのを気にしながら急いで3回くぐってお参りしてきた。大阪の住吉大社とはずいぶん雰囲気が違うけれど、朱塗りの社殿ということで、彷彿とさせるものはあるねぇ。

ご朱印もいただきました。

博多駅に戻り、

次の一の宮、筥崎宮を目指します。博多駅は何となくおしゃれな空間ですね。


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土佐神社(土佐国一の宮)

2018-09-11 23:08:24 | 諸国一の宮巡り
高知のことをまだ全然書けていないので、時々思い出して書くことにする。

最終日、まず行ったのは土佐神社。最寄り駅は土讃線の土佐一宮(いっく)駅とのことで、本当は鉄分補給できるいい機会だったのであるが、膝・腰・大荷物・天気のことを考えて、タクシーで回ったのは結果的には正解だった。

ここは非常に古い神社で、千年前の紀貫之の「土佐日記」にも出て来るという。当時は今の高知市のほとんどが浦戸湾の海の中で、湾が入り込んだ丘の上に土佐神社があったそうな。

南北朝から戦国時代にかけて土地の隆起があったり、鏡川・江ノ川の堆積作用とか、干拓の繰り返しによって現在の高知市が出来てるんだそうだ。


残念ながら一部工事中であったが、白くて古びた木の味わいに癒される社殿であった。


本殿、幣殿、拝殿は、長宗我部元親が再建したものだ。いずれも国の重要文化財。


太鼓まで神々しくみえることよ。


ご祭神は「味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)」「一言主神(ひとことぬしのかみ)」。

この神社の創建は、雄略天皇4年(460年)と伝えられる。『日本書紀』天武天皇4年(675年)の条にもこの神社は登場するというから、本当に古い神社である。

雄略天皇が大和葛城山にて狩りをしている最中、一言主神が不遜な言動を働いたので土佐に流され、最初別の場所の祀られていた。一言主がそこから祀り変える地を選ぶために大石を投げ、それがこの場所に落ちたので、ここに祀られているという伝説がある。

一言主神と雄略天皇については、記紀神話などではもっと友好的に書かれているのでこの話には驚いた。


その一言主が投げたという大石が、この礫石(つぶていし)と呼ばれるもので、当初はこの礫石を磐座として、祭祀が行われていたらしい。


本当に神様が投げた石と信じるかどうかは別として、この礫石は、このあたりの地層にはないもので出来ているらしいので、不思議さが募る。


植物も大きく育つと神性を帯びるものらしく、ありがたく、潜り抜けてきた。


この鼓楼は朱色も鮮やかなので新しく見えるが、江戸時代前期の慶安2年(1649年)の建立であり、こちらも国の重要文化財だ。


ご朱印もちゃんといただいてきた。

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枚岡神社(河内国一の宮)

2017-08-28 15:23:32 | 諸国一の宮巡り
今回の関西行き、最後の目的地、枚岡神社に、計画通りの時刻に到着。


近鉄奈良線の枚岡駅からすぐにまっすぐな参道が開けている。


この手水にはちょっと癒される。いろんな寺社仏閣に行ったけど、鹿のよだれみたいなのは初めてかも。
さすが、ここが元春日と言われるだけある。

ここにはもともと中臣氏の祖神である天児屋根大神(あめのこやねのおおかみ)と、比売御神(ひめおみかみ)を祀っていた。この二柱の神は枚岡から春日大社に分祀されたため、元春日と呼ばれるのだ。逆に春日大社からは奈良時代末期に武甕槌命(たけみかづちのみこと)と経津主命(ふつぬしのみこと)が配祀された。いずれも中臣氏とつながりの深い神である。


手水のところから程よい感じの階段を登って、


拝殿前に出る。


まずは拝殿前で拝む。


そして、拝殿のうしろをちょっと覗いてみると、本殿が並んでいるのがちらっと見える。社殿が4つ並んでいて、それぞれ先ほど言及した4柱の神様が祀られている。
第1殿 天児屋根命(あめのこやねのみこと)
第2殿 比売御神(ひめみかみ)
第3殿 経津主命(ふつぬしのみこと)
第4殿 武甕槌命(たけみかづちのみこと)


なかなかよく見えないので、右側に回ってみる。


少し奥に入ってみると、やっと赤い本殿が見えた。

これは私が持ってきた解説本を見ると、木部に彩色を施していることが特徴の枚岡造りと称されているのだが、ウェブサイトなどで調べてみると春日造だということになっている。

屋根が曲線を描いて反り、正面に片流れの庇(向拝)をつけているのが春日造の特徴だという。

そうすると今日一日で、大社造りからの流れ、大鳥造、住吉造、春日造と続けて見れたことになる。


そろそろ帰途に付こうとしたとき、ふと脳裏に浮かんだことがある。

お寺にはない神社の魅力って何だろうということ。

拝殿から奥まったところに美しい本殿が並んでいる。今日訪れた神社は田辺の闘鶏神社も含め、全部その形式である。

奥にずらっと並んだ本殿の姿が心の琴線に触れたような気がした。まさに奥ゆかしいというか、奥の方に大事なものがあることが神社の魅力なんじゃないかと思ったのだ。

無論それはお寺もそうなのかもしれないけど、綺麗な社殿を奥の方に沢山立てて、それぞれに神様が祀られていることに、さらなる丁重さを感じるのだ。

社殿の中にあるものは直接見ることはできないが、おそらく仏像のように具体的な形があるものではない。なにかシンプルだが、私たちの魂を揺さぶるものが入っている。昔の人が山や滝を見て、そこに神様を見た、その源流がこのお社の中に引き継がれていると思うと、とてつもない郷愁を感じるのである。


御朱印をいただいて関空に向かう。






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住吉大社(摂津国一の宮)

2017-08-28 12:26:26 | 諸国一の宮巡り
「住吉」と聞いて思い出すのは、剣道部の先輩・・も、そうなのだが、大江山の酒呑童子の話かな。

確か、源頼光一行を酒呑童子の元に道案内し、秘策や重要アイテムを授けた3人の翁の内の一人が住吉の神様だったよ。

でも、住吉さまのお社にお参りしたことがなかったのよね。半蔵門線の住吉駅は住吉さまとは関係ないという話だし、東急線の元住吉にも住吉神社という神社があるが祀っているのは住吉さまではないみたいだし・・・というのは今調べた話。なぁ~んだ関係なかったんだ。ずっと気になっていたのに。

ということで、生まれて初めて住吉さまにお参りができるのだ。具体的には底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)という三柱の神様の総称が、住吉大神なのだそうだ。

大鳥神社をあとにし、三国ヶ丘で仁徳天皇陵を横からチラ見、南海高野線準急で天下茶屋まで行き、引き返して住吉大社へ。


駅前を路面電車が走っている。これは阪堺線らしい。


で、阪堺線の線路を超えて、向こうに住吉大社が見えるんだが、なんか異様にデカい太鼓橋が見えるんだけど・・・。


いやぁ~デカいよコレ。登れるかしらん。小さい頃、たしか二つ太鼓橋がある神社に行き、小さい方は渡れたけど、大きい方は渡れなかった挫折の記憶がよみがえってきた。


でも、近くに寄ってみると一応階段がついてることがわかり、この角度でも登れた。実際には太鼓橋とは呼ばずに反橋(そりはし)と呼ぶらしく、鎌倉末期にはその名がみえるものであるが、現在の石の橋脚・梁部分は慶長年間(1596-1615年)の淀殿奉納当時のものが残されているそうだ。


特大反橋を上り下りした興奮冷めやらず、鳥居と楼門をくぐると、さらに興奮が待っていた。


わ~、素晴らしい。


この眺めはきっと外国の方に喜んでいただけると思うよ。


第一~四の四つの本宮があり、それぞれこのように並んでいる。第一本宮には底筒男命、第二本宮には中筒男命、第三本宮には表筒男命、第四本宮は神功皇后が祀られている。

何故神功皇后かというと、ここに住吉大社があるのは神功皇后に由来するといわれているからである。伝えられているところによれば、神功皇后が仲哀天皇の遺骸をとりおさめて回路より都に向かわれた時、忍熊王の反乱にあって立ち往生。占ったところ住吉大神が出てきて、「我が魂をまさにこの住吉の地に居らしめなさい・・そうすれば船の安全を見守ってやろう」と言われたので、ここに住吉大神を鎮座させ、無事都に帰ることが出来たという話である。


大社造を一歩進めた大鳥造を、さらに一歩進めたものがこの住吉造だという。前にあるのが幣殿で、後ろにあるのが本殿。


これは第二本宮の本殿を後ろから見たところ。今日、いままでに見た神社は本殿が奥まったところにあり、あまりよく見えなかったが、住吉大社ではしっかり後ろまで見れるところがありがたいね。


これが第一本宮。


振り返ればなんと華やかで明るい気分になることか。


古びたわびさびもいいけれど、こういう朱色もいいねぇ。


ああ、満足度、全開!

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大鳥神社(和泉国一の宮)

2017-08-28 11:00:40 | 諸国一の宮巡り
今日は、田辺の闘鶏神社を始め、大鳥神社、住吉大社、枚岡神社・・と回って、関空から帰途についたのであるが、いずれも拝殿から本殿を拝む形式である。

こんだけいちどきに神社を見ると、自分に建築の知識がないことについて忸怩たる思いを覚える。

ただ今回面白かったのは、そんな私にちょっと知識がついたかな・・ということろ。

日本の神社建築は古代の住居が元になって発展したものである。(私が竪穴式住居を復元したものを見ると萌えるのはそのせいでもある。)

出雲大社の大社造を最古のものとして、大鳥造、住吉造、春日造と発展するものと、伊勢神宮の神明造から流造へいくものの二つの大きな流れがあるとか。

今回は大社造の発展形である大鳥造と住吉造について、それぞれその建築様式を代表する神社を回れたというのは自分にとって価値あるものかもしれない。


冒頭の写真が拝殿で、脇に回って本殿方向を観ようとするが、なかなかよく見えない。


よく見えないので、境内にあった配置図を載せておこう。

この大鳥神社は、大鳥大社とも呼ばれるが、大鳥連祖神(おおとりむらじのみおやがみ)と日本武尊を祀っている。
大鳥氏は中臣氏と同祖とされるので、祖先神とは天児屋根命(あめのこやねのみこと)ではないかと言われている。


日本武尊は死後に白鳥となって飛び去り、最後に当地に来て留まったことから社を建立して祀ったとも伝えられる。


御朱印をいただいて、鳳駅へ戻る。

大鳥神社は堺市にあり、近くにあこがれの仁徳天皇陵がある。近くにあるけどと1ても行っている時間がないなぁ・・と思っていたが、予定よりちょっと早く鳳駅に戻ってきたので、あらためて路線検索をし直すと、予定していたルートと異なる、南海を使うルートが現れた。ということは、仁徳天皇陵の最寄りの三国ヶ丘駅を通るわけだ。


車窓から見えないかなぁ・・と眺めていたら、木々が整然とずらっと並んでいるところが出てきて、あそこかなぁ・・と思っているうちに通り過ぎてしまい、写真が撮れなかった。

というか真横から見ても全然わかんないね。

この写真は南海の三国ヶ丘駅ホームから撮ったもの。向こうに見える緑は、仁徳天皇陵かもしれないけど、よくわかんないね。

職場の人に「堺市役所から見ると、古墳の形がきれいに見えるよ」と教わったから、いずれ行ってみたいものである。

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鹿島神宮(常陸国一の宮)

2017-07-25 23:18:06 | 諸国一の宮巡り
香取神宮のある佐原駅からJR鹿島線に揺られて鹿島神宮へ。


途中、潮来付近のこんな眺めを楽しみながら行く。

20代の頃、香取神宮・鹿島神宮に来た時は、気持ち的には暗闇を歩いているような、まるでどん底のような日々だった。前日夜に、たまたま寮の食堂にあったテレビから「茨城県民の歌」が流れ、「空にはつくば、白い雲~」で始まる歌詞と映像とメロディーに心をわしづかみにされてしまったのだ。「あかるく生きる喜びが明日の希望をまねくのだ」というフレーズ・・当時の自分の口からは絶対出ないような青臭い言葉・・・ずっと忘れていた言葉・・・そうだ、そういえば明日茨城県に行くんじゃん。

ということで鹿島神宮を参拝した私は、お土産屋さんで「茨城県民の歌」の楽譜を入手したいと相談したのであるが、その店の人が分からず、通りかかったおばあちゃんが、それなら〇〇さんちに行けばいいということで、その〇〇さんちに連れていかれ、家族団らん中の居間に上がりこむ羽目になり、そこの家のお嬢さんの生徒手帳に茨城県民の歌が印刷されているというので、それを五線譜ごと自分の手帳に写させてもらった・・・という赤面ものの思い出が私にはある。今ならインターネットで検索すればすぐ分かる。でもそんなものはまだない時代だった。藁をもつかむつもりだったんだろうな。当時は合唱団も休んでたから、少しでも自分を救ってくれる歌が自分にとって貴重だったんだろう。


そんな思い出を胸に、鹿島駅に着いた。歩道にある勾玉風の石が気持ちを盛り上げてくれるのだが、なんだか寂しい。


駅からずっと坂を上がっていくのだが、あれ?こんなだったっけ?とびっくり。二十数年前は鹿島アントラーズのマークがそこかしこにあり、もっとにぎわってたような気がするんだが・・それとも歩いているルートが違うのか。


鳥居が見えてきた。ここら辺は何となく記憶にある。


こんもりとした老木が格の高さを醸し出す。


この楼門も思い出深い。国の重要文化財で「日本三大楼門」の1つだとか。


外側には随身がいて、


内側は雷様みたいな・・・・香取神宮だとこれが狛犬だったわね。同じように見える楼門でも中に入っているものが違うのね。


さて、これが拝殿(国の重要文化財)。武甕槌大神が祀られている。

国譲り神話で重要な役割を示すこの神がこの地にも祀られていることは、この地が、北の蝦夷に支配を広げようとしている朝廷にとっての拠点であったことを象徴しているらしい。

中臣氏とも縁の深いこの神宮は、古代史大好き、奈良大好きな私にとって、東国に居ながらにして古代大和朝廷の香りがする憧れの神宮であったが、近年では古代史以外にも興味の範囲が広がったので、もう少し冷静に見れるようになったかな。


そうそう、若い頃、この日本最古最大とかいう直刀を見て、直刀の木刀を買ったのよ。今日は時間がないからスルーするけど、久しぶりにあの木刀振ってみるか。


御朱印もいただきました。


昔はなかったこの躍動感あふれる鹿の像が気に入る。


後ろから見てもとてもかわいい。

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香取神宮(下総国一の宮)

2017-07-25 23:17:39 | 諸国一の宮巡り
夏休み3日目。今日は香取神宮→鹿島神宮→水戸(水戸城、弘道館、偕楽園)と回り、夜の職場合唱団の練習にもちゃんと出た。

昨日に引き続き、着替えを持っての外出。昨日、長袖で防御したのに手の甲と指を日光じんましんでやられたので、今日は曇り空だったけど両手の甲にサポーターをしていった。

とにかく、これでもかというぐらい汗をかくので、夜に人と会うときは着替えないとどうしようもない。大変な一日だったけど、無事に予定を完了。

あとはブログを書くばかり。

☆ ☆ ☆


朝早く総武快速でまず成田まで行き、そこから成田線で佐原に行く。


佐原駅の駅舎って、民家みたいに作られているのね。渋~い。

香取神宮には20代の頃、一度来ている。佐原からの交通の便は悪いのは分かっているので、駅前のタクシーに頼んで往復してもらうことにした。
っていうか、10時18分に佐原から鹿島神宮行きの電車がでるので、それに間に合わなかったら2時間お預けになるからだ。


佐原からタクシーで約10分。懐かしいはずの景色のはずが、全然記憶にない。う~ん、以前は木刀などを売る店が神宮前にあったと思ったのだが、タクシーで来たからルートが違ったかな?


朱塗りの立派な楼門をくぐると。。。


立派な社殿が見えて来る。本殿・幣殿・拝殿が連なる権現造で、国の重要文化財だ。ほとんど覚えていないのだが、潜在意識をくすぐる何かがある。
そうそう、私は香取神宮が好きだからこそ、以前行徳で香取という地名が気に入って、18年そこにすんでしまったのだ。


破風のところの彩色も上品で素晴らしい。


何よりもこの連なっている姿が美しい。


左側から真横から見るとこんな感じ。二つ連なっているのはよくあるけど、三つ連なっているのはあまり見ないよね。

ご祭神は経津主(フツヌシ)大神。 別名、伊波比主(いわいぬし)命。武甕槌(タケミカヅチ)神とともに出雲へ天降り、大国主命と国譲りの交渉をした神で、日本書紀に登場し、古事記には登場しない。

宝物館に行くと、その国譲り神話にかかわる絵が展示されていた。その絵は確かに20代でここに来た時にも見て感銘を受けた記憶がある。またここには国宝・海獣葡萄鏡もあり、以前来た時には、海獣葡萄鏡を文鎮の形レプリカを買った。今も大事に持っている。

ご祭神の経津主大神のフツという読みで想起されるのは、布都御魂(フツノミタマ)の剣。この剣を祀っている石上神宮は物部氏のゆかりの神社である。経津主神も本来は物部氏の祭神だったが、後に擡頭する中臣氏の祭神である建御雷神にその神格が奪われたととする考え方もあるようだ。


海自の練習艦「かとり」の錨も境内に展示されている。錨の大きさにあらためて驚くが、たしかに大きな船をつなぎとめるのだから、これくらい大きくないと困るよね、と自らを納得させる。


ご朱印をいただきました。


帰りにまた楼門を通るが、社殿側には狛犬が入っている。


外側には随身がいるのだが、こちらの老人は「竹内宿祢」、


左の壮年像なんと「藤原鎌足」だとか。

今まで楼門の中まで見て来なかったけど、神社によって違うのなら、こういうところも見なくちゃね。

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氷川神社(大宮・武蔵国一の宮)

2017-07-24 23:52:59 | 諸国一の宮巡り
東浦和から大宮へ出て、今度は氷川神社へ。

大宮という地名には「宮」という字が含まれているが、その「宮」こそ氷川神社なのだ・・・ということが実感できる、すばらしく大きくてきれいな神社だった。

さっき行ってきた氷川女体神社がこじんまりとしていただけに、ちょっと思いは複雑なのであるが、平日で、しかもやたら蒸し暑いにもかかわらず、若い人を含む沢山の人がお参りしている様子は、見ていてとても気持ち良いものである。


大宮駅から15分ほど歩いたら、急に大きな参道が眼前に出現。


すばらしく規模の大きい参道であり、歩いていて気持ちがいい。



朱塗りの楼門が、濃い緑と調和して美しい。


内部から見た楼門。ここが関東であることを忘れるほど素晴らしい。


境内中央に舞殿がある。ちょっと鶴岡八幡宮を思い出した。


こちらが拝殿(奥に本殿)。平日なのににぎわっている。


回廊部分に新しく作られたように見える部分もあり、大小さまざまな社殿がにぎわしく、勢いを感じる。

ご祭神は
須佐之男命(すさのおのみこと)
稲田姫命(いなだひめのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)

む、こっちは「奇」が取れて「稲田姫」なのか~。紛らわしいね。

社記によると、

第五代孝昭天皇の御代   御創立
第十二代景行天皇の御代  日本武尊、東夷鎮定の祈願
第十三代成務天皇の御代  兄多毛比命(えたもひのみこと。出雲族)が勅命により武蔵国造となり氷川神社を専ら奉崇

とあるが、実在性が薄い天皇の御代については、何ともコメントしがたく、とにかく古いということだけは言えそうだ。

聖武天皇の御代に武蔵国一の宮に定められたという。

氷川神社というのは大宮を中心に埼玉県に160余社、東京都、神奈川県下を含めると、約280社もあるそうだ。

ということは、氷川信仰って、関東が多いのね。スサノオノミコト系の神が祀られていることが多く、農業用水として役割が大きい半面氾濫を起こす暴れ川・荒川の本支流域に多いとか。坂東武者に信仰されたことから東国に多いそうだが、出雲神話の神々が東国で信仰されていることの不思議さを感じる。スサノオノミコトの猛々しさが坂東武者に好かれたんだろうか?

そもそも諸国一宮に祀られている神は国つ神系が多く、大己貴命=大国主命を祭神としている一の宮は極めて多いそうだ。朝廷が支配を広げるにあたり、祟りを恐れて国つ神を祀ったという話なのかどうかはよく分からないが、これから全国の一の宮を回りながら、自分なりに気付きとか、整理が出来たらいいな、と思う。


ご朱印をいただきました。

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氷川女体神社(東浦和・武蔵国一の宮)

2017-07-24 23:51:55 | 諸国一の宮巡り
今日は夏休み2日目。14時から8月ののオペラ「カルメン」和歌山公演のための打ち合わせがあるため、午前中を使って、一の宮巡りをしてきた。

武蔵国一の宮は2つあって、氷川神社と氷川女体神社がある。まずは氷川女体神社の方に足を運ぶ。


東浦和駅からバスで8分、芝原小学校前で下車し、15分ほど歩く。

ところが、神社への案内看板等が一切ないのである。スマホの地図頼りに歩くと、不意に階段が出てきた。



そこを登っていくと、こんもりとした鎮守の森の中に、拝殿があった。

社伝では、崇神天皇の時代に出雲大社から勧請して創建されたと伝えられるので、相当歴史が古い。


社殿は本殿と拝殿を幣殿(へいでん)でつなぐ複合社殿で、権現造だ。

主祭神は奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)で、大己貴命(おおなむちのみこと)と三穂津姫命(みほつひめのみこと)を配祀(はいし)している。

奇稲田姫はスサノオノミコトの奥様であるが、私はこの漢字を見て、20年ぶりくらいに合点が行ったことがある。

それは、子供の頃読んだ古典童話だと、スサノオノミコトの妻はクシナダヒメと書いてあった。ところが20代の頃、松江の八重垣神社に行った時、スサノオノミコトの妻は稲田姫と書いてあるではないか。「え、この女神だったっけ?」と思いながらお参りしたのであった。(つまりヤマタノオロチからクシナダヒメを救い出した直後に別の女を作ったの?と、疑いたくないけど、半分疑っていた。)

それを今になって、クシナダヒメは奇稲田姫も表記されるのだということを知った。調べると、『古事記』では櫛名田比売、『日本書紀』では奇稲田姫と表記されているとか。

「奇し稲田(くしいなだ)姫」すなわち霊妙な稲田の女神であれば、奇がはずれて稲田姫と書かれることがあるのもわかる。もとは稲田の神である。ただ、ヤマタノオロチから守るために、一時的に櫛に変えられていたので、櫛と「奇し」をかけて言葉の遊びをしているのである。

なので、稲田姫=くしなだひめ の関係がようやくわかってすっきりした。

尚、御朱印をいただこうとしたら、係の方が常駐していないとのこと。なので書置きに日付を入れたのをいただいて、御朱印帳に貼ることにした。


こじんまりとはしていたが、何となく懐かしい気持ちになるお宮さんであった。

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鶴岡八幡宮(相模国一の宮)

2017-07-21 23:55:33 | 諸国一の宮巡り
寒川神社をあとにし、また相模線で茅ヶ崎まで行き、東海道線で大船まで行き、横須賀線に乗り換えて鶴岡八幡宮へ。

ここで不思議なのは、相模国には一の宮が二つあるの?ということだ。

歴史的には断然寒川神社の方が古い。この鶴岡八幡宮は源頼義が前九年の役での戦勝を祈願して、京都の石清水八幡宮護国寺(or河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鶴岡若宮として勧請したのが始まりという。源頼義は頼朝の160年くらい前の人であるが、それでも雄略天皇の頃までさかのぼる寒川神社よりは全然新しいのである。ただ源氏ゆかりの神社として、知名度が非常に高く、全国一の宮会にも加盟していて、諸国一宮巡りの本にも名前を連ねている。

個人的には大好きな神社で、人生の節目節目に必ずお参りしているところである。お参りするのは、子供の頃に2回くらい。大学生の時に1回。社会人になってから3回目ぐらいかしら。


段葛という参道があるんだけど、ここにはひと工夫あって、二の鳥居の地点では歩いて6歩ちょっとの幅なのだけれど、


終着点の三の鳥居付近では4歩くらいの幅になってる。つまり2歩分幅が狭くなってるのよね。
これが遠近法の妙で、二の鳥居から見ると非常に奥行きが深く見えるんだと、鎌倉在住の音楽の先輩が教えてくださったけっけ。


灼熱の階段を上って、


抜けるような青い空に美しく映える赤い社殿にお参り。

ご祭神は応神天皇、比売神、神功皇后の3柱で、「八幡神」と総称される。

奥の宝物殿にも久々に入った。教科書にも載ってる鎧も見たが、つい数時間前に小田原城で見た戦国時代の鎧と比べると、鉄の部分が少なく、美しいけれどとても弱い気がした。どっちかを着て戦えと言われたら、迷いなく戦国時代の鎧を取るだろうなぁ。

鎧にしてもお城にしても、短期間で間を詰めて見学すると、より違いに気づきやすいと実感。


もう午後4時過ぎだけど、まだ暑い。


ご朱印をいただきました。

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寒川神社(相模国一の宮)

2017-07-21 23:43:58 | 諸国一の宮巡り
小田原城を後にして、東海道線で茅ヶ崎まで出て、茅ヶ崎から相模線(何と単線だ)で宮山という駅で降り、そこから10分ぐらい歩く。

寒川神社って、子供の頃、母方の祖母や叔父達に車で連れて行ってもらったのよね。我が家に車はないので、父以外はドライブが苦手。叔父の車に乗せてもらったはいいものの、母も弟も私も具合が悪くなり、大変だった思いしかない。でも行った先の神社は大きくて立派だった・・・境内の様子もかすかに覚えている。

そんなわけで45年以上ぶりに、こんどは電車を使って行ったのであるが、え~こういうところだったっけと、自分の記憶のあいまいさに恥ずかしくなる。


これが、寒川大橋。・・・・・・・・・・う~ん、大橋なのねぇ・・・・・・・・・。


渡ってみれば風情はある。

ずっとこんな感じなのだが、突然開ける。


わぁ~とっても立派!


池には噴水が・・・。これで驚いてはいけない。


きゃぁぁ~すごい素敵。さすが相模国一の宮だ。


神門をくぐれば、灼熱地獄も忘れるほどの、スカッとしたスケール感。


一応、iPodのパノラマ機能でも撮ってみたが、現地の感動を伝えるには程遠い。

それでも、神奈川県出身の私としては、鎌倉以外に、しかも県の中央部にこのように素晴らしい神社があることを誇りに思う。

実はこの神社の歴史は大変に古く、雄略天皇の代にさかのぼるのだ。社殿造営の記録は聖武天皇の時代(727年)にもある。朝廷をはじめ、源頼朝や武田信玄などの武将、そして民間と、幅広く信仰を受けてきた。関八州の裏鬼門に位置し、古くより八方除の守護神として信仰されている。

現在の社殿は平成9年に建てられたものだという。そうか~そうすると幼い頃見た社殿は、建て替えられてしまったのか・・それで何となく記憶がつながらないのね。以前は歩道はなく一面が玉砂利だった記憶もあるが、色々施設が新しくなっているのであれば納得も行く。


社殿は本当にきれい。灼熱の中、心洗われる思い。

ご祭神は、寒川比古命 (さむかわひこのみこと)と寒川比女命 (さむかわひめのみこと)。二柱合わせて、寒川大明神と奉称している。記紀神話には出てこない神様だが、相模国を中心に広く関東地方をご開拓になられ、衣食住など人間生活の根源を開発指導せられた関東地方文化の生みの親神様として信仰を集めてきたとのこと。私にとっても地元の神様なのだ。


寒川神社は特に、方位除け(八方除)の神様として有名。私が初めて引越しをして一人暮らしを始めたとき、職場にいた年配の方から「寒川神社に行ってくるとよい」などと言われて、その時は「そんな遠くまで行ってられないよ」と思って行かなかったわけであるが、さらに新居に引っ越して、すぐここに来れてよかったわ。

これは八方除の方位盤と渾天儀、四神を組みあわせた記念碑。若い人が喜びそうな素敵なデザイン。


御朱印も素敵なのよ。今まで数多くの神社仏閣を回って来て、赤以外のスタンプ(紫と金)を押してくださるところってここだけ。

ご朱印の料金も決まっていないので、お気持ちをお納めくださいと言われ、世間相場は大体300円だが、500円納めてきた。


御守りもオリジナリティあふれた素敵なもの。

最近は御守り類はなるべく買わないようにしているが、これはついつい買ってしまう。

と、いうことで、灼熱の中、寒い名前の神社に行って来て、やはり猛烈に熱かったけれど、心の中には涼風が吹いて気持ちよかった。

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玉前神社(たまさきじんじゃ・上総国一の宮)

2017-05-05 23:03:46 | 諸国一の宮巡り
今日は流山に、恒例(年2回)のバイオリンのメンテナンスに行ってきた。

弓の毛替えとバイオリンについたひっかき傷を隠してもらうため、楽器を預けると、上総一ノ宮まで行ってきた。


西国三十三所札所巡りが終わって、次は全国一の宮巡りにしようと思いたったのが昨年の暮れ。それから専用の御朱印帳を取り寄せたのだが、一日フルで空いている日がなく、強いて言えば5月3日だったのだが、日ごろの疲れで、一日中寝込んでしまった。

なので、今日が初めての一ノ宮。


上総一ノ宮って、三十代後半に一度行ったことがあるのよ。社員旅行の帰り道、遠回りしてね。

その時、全国一の宮巡りというのがあることを知ったわけなんだけど、その頃は、西国三十三所巡りを始めたばかりだったから、とても手が出ないと思ったわけよ。

上総一ノ宮って、今自分が通勤に使っている総武線快速でも時々直通があるので、電車一本で行ける近場・・っていうイメージがあったんだけど、実際行ってみたら遠かった。

武蔵野線で南船橋で乗り換えるはずが寝過ごして、気が付いたら新浦安。ああ~ん、東京へ向かってた。

気を取り直して、京葉線、外房線と乗り継いで上総一ノ宮駅へ。


沿道の風景・・・全然覚えてない。まぁ~あの時は雨だったし。

記憶力だけは自信があるのに、こういう全然覚えてないことにぶち当たると凹む。最近そういうの多いよ。


さて、黒い社殿が見えてきた。これは何となく覚えてる。黒い社殿だったことは・・・。でもそこで当時は思考が止まってしまった。

今ならわかる。黒は黒でも黒漆塗りの権現造り。


表面はつるつるのぴかぴか。何というゴージャスさ。玉依姫命を祀っている。

今、書いてて知ったのだが、つい先ごろ平成の大修理を終えたばかりらしく、それでこんなにきれいなのかもしれない。


玉前神社はかなりにぎわっていて、御朱印も10分待ち。


御朱印を待っている間、境内散歩。するとこんなのがあった。

最近足裏マッサージやってないんで自信がなかったが、靴下を脱いで裸足になり、歩いてみたら痛いのなんのって。靴履いてても足痛い奴なのに無謀だったかな。

でも3週回れば気を満たすとまで言われたら、回らないわけにいかないね。額に汗して無事3週歩き終わった後、靴を履いた時に超幸せな気分になり、気を満たすってこういうことかな。。とか思った。


ということで、記念すべき第一回目の御朱印です。


鳥居付近に「さざれ石」というのが展示されていた。正確には「さざれ石が巌となったもの」ということだと思うが、この後、付近の和菓子屋さんで「さざれ石」というゆべしを買った。それが、じゃりじゃりしてて美味しいんだ!

ダイエット中じゃなければたくさん買ってくるんだがな~。

ということで、さざれ石そのものよりも、さざれ石という名の和菓子に感動した私なのであった

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