さぶりんブログ

音楽が大好きなさぶりんが、自作イラストや怪しい楽器、本や映画の感想、花と電車の追っかけ記録などをランダムに載せています。

高良大社(筑後国一の宮)

2020-04-19 21:03:29 | 諸国一の宮巡り
これは去年の7月26日の話だ。JAOフェス久留米大会の練習が始まる初日の午前中、私は何とかして、高良大社と久留米城を回りたいと思っており、西鉄久留米駅近くのホテルからタクシーで、まず高良大社に行ったのであった。


この日は本当に良い天気で、回廊の朱色が青空に映え、そしてその中にある古式ゆかしき社殿に心惹かれた。


社殿は国の重要文化財であり、藩主有馬頼利による1660年の造営によるもので、総こけら葺素木造で、和様・唐様・天竺様の混じった権現造である。


まずは目下のJAOフェス久留米大会の成功を祈る。


社殿からまた回廊の門をくぐり、


眼下を見渡すと、素晴らし景色である。

ここの歴史は古い。高良大社のホームページ上の略年表を見ると、西暦400年ごろの履中天皇の御世、高良山に社殿を創建し、玉垂宮(たまたれぐう)と称した(鏡山系譜)ことに歴史は始まるらしく、以来1600以上の歴史がある。実はそれ以前に仲哀天皇の御世、異国の兵が攻めてきて西に下った神功皇后が追い返し、高良玉垂命という神が住吉の神とともに出現されたという伝説を持ち、当大社は高良玉垂命を祀っている。

前日の7月25日には筑前一宮の住吉神社や筥崎宮を見てきた。住吉神社も神功皇后ゆかりの神社であるし、筥崎宮には「敵國降伏」といういかめしい扁額が掲げられていた。それを考えるとこの筑前筑後の地が、古来より日本の防衛線となっていたことを考えざるを得ない。神功皇后自体は実在性が薄いものの、倭の五王以前に異国との戦があったことを象徴しているとも考えられるし、白村江、蒙古襲来と、この地は危険にさらされていたんだな・・ということを感じざるを得ない。

またこの地は、6世紀に筑紫国造磐井が立てこもった場所として知られる。実は、この高良山自体も朝鮮式山城なのだという。私は現地に行った時、時間に追われてそこまで頭が及ばず、すぐに帰ってきてしまったのであるが、参道の脇あたりから「神籠石(こうごいし)」と呼ばれる列石があり、1500メートル以上も続いているそうな。発見された当初は「霊地として神聖に保たれた地を区別したもの」という説もあったが、実際には朝鮮式山城であり、それこそ物部麁鹿火が磐井の乱を鎮圧した528年ごろに築かれたのではないかといわれているそうな。

私は安易にタクシーで登ってきてしまったがために重要なものを見落としてしまったわけであるが、そうはいってもタクシーを使わなければ短い時間に来れるものではなく、私の足も良くないので、仕方がない。


でも貴重な時間を使ってこの高良大社に来れたのは本当に良かった。そして、ずっと温めてたこのブログ記事を書けてよかった。

7月振り返りの投稿はまだ続きますよ。
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