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さぶりんブログ

音楽が大好きなさぶりんが、自作イラストや怪しい楽器、本や映画の感想、花と電車の追っかけ記録などをランダムに載せています。

久留米城

2020-04-20 23:06:59 | 続日本100名城巡り
また去年の7月26日の話にさかのぼる。JAOフェス久留米大会の初日の集合時間より前に、高良大社と久留米城は絶対まわりたいと思ったので、タクシーを使って回ったのであるが、そのタクシーの運転手さん、お城に全く興味のない人みたい。


城好きならまず石垣を見たいだろう・・っていう発想がないんだね。だから高良大社も、実はお城の遺構があるなんて言う話は一言もなかったわけだ。

久留米城についても半信半疑な感じで、いきなり篠山神社に連れていかれる。途中石垣の見えるところとか回ってくれればいいのに。

篠山神社というのは、久留米城の建物を全部壊してしまったあとに、明治時代に建てられた神社なので、いきなりここではさびしいというか・・・・。



久留米城は江戸時代の久留米藩を約250年間を治めた有馬氏の居城だ。ここで私が混乱したのは、有馬氏についての知識がなかったからだ。

有馬氏というと、私が一番先に連想したのはキリシタン大名の有馬晴信。地理的にも肥前で近いし、同族なのかなと思ったら全然違った。

肥前の有馬氏は、肥前国高来郡有馬を本貫とする、藤原純友の末裔を称する肥前有馬氏。
久留米を治めた有馬氏は、摂津国有馬郡を本貫とする赤松氏(村上源氏)の子孫である摂津有馬氏。
(他に、熊野有馬氏とか、有馬北畠家とか、あるらしいけど。)

ということで久留米藩の有馬氏は肥前の有馬氏とは全然違うのだ。

摂津には、古来より有名な有馬温泉がある。もともとはそこの出である摂津有馬氏が、関ケ原で東軍に味方し、さらに大阪の陣でも徳川方になったので、加増移封されて久留米藩の藩主になったのよね。そしてそのまま明治を迎え、15代当主有馬頼寧は大正・昭和期に政治家として活躍し、戦後には日本中央競馬会の第2代理事長となっている。有馬記念というのはそこにちなんでいるという。逆に、古代より有馬の地は温泉で知られ、有馬転じて有間神社というのもあり、有間皇子にも関係がある(古代の皇子は、養育料を負担した地(壬生部)の名を冠しているからね。) ということで、私の中では、有馬温泉・有間皇子・有馬記念・久留米城がようやく結びついたのである。


さて、明治になってお城の建物は取り壊されてしまったが、立派な石垣は残っている。


篠山神社から遠ざかり、上の地図の⑤や③のあたりまでいくと、石垣が楽しめる。


ここらへんも立派ですね。


わくわく・・・


石垣の外に現代が広がっている。


ぎりぎりのところまで行ってみると、さすがに怖いね。


上の地図の⑨⓾を外側からみると、本当に立派な石垣が見える。一瞬皇居を思い出した。その石垣のすぐ上に現代建築が見えるのがちょっと寂しいけどね。


皇居より石の大きさが小さめで、隙間があるので、「打込接(うちこみはぎ)」の乱積石垣とみゆる。古風な感じが出ててよい。

二の丸、三の丸はブリジストン久留米工場の敷地の一部になっているらしい。有馬氏が筑前の黒田氏の協力も得て70年かけて完成した城は、今は石垣しか往時をしのばせるものがないが、本当に立派な城であったことが肌で感じられて楽しかった。

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水城

2020-04-18 22:45:44 | 続日本100名城巡り
去年の7月に久留米に行った時に見たお城や神社、まだ書ききれていなかったので、思い出しながら書くことにする。あの時から8か月・・まさかどこへも行けないような事態になるとは思いもしなかったな。外に行ける・・という素晴らしい機会に目にしたものは、やはりメモっておかないと、勿体ない。

まずは、一番最後に見た水城。


去年の7月29日のことである。久留米でのJAOフェスの本番が終わって、翌日大荷物の中、西鉄久留米から西鉄五条まで行って、歩いて大宰府市役所文化財課まで行って、大野城と水城のスタンプを押し、回り方について説明を受けた後、大宰府政庁跡をチラ見しつつも大荷物で動きが取れず、バスで大宰府駅まで行き、そこですごい待たされた後、タクシーで、大野城、水城と回って、水城駅から電車で福岡空港に向かったのであった。

水城の存在は、小学生のころから知っていた。古代史好きだったからね。白村江の敗戦後の防衛政策の一環として築かれたものであり、『日本書紀』にも「・・・。また、筑紫国に大堤(おおつつみ)を築き水を貯へしむ、名づけて水城(みずき)と曰ふ」と、記されているからね。ただ私が誤解していたのは、これを固有名詞だと思わなかったこと。ため池のようにあちこちにあるものだと思っていた。ところが、水城といえばここであり、地名にもなっていることを知って、驚いたのだ。


水城の土塁というか堤防のようなものが道路によって寸断されている。


道路の反対側にこんなふうにつながっている。上に木が生えているのでちょっとわかりにくいが、


この解説図にあるように、下成土塁と上成土塁のように二段重ねになっているのだ。


近くまで行って、


下成土塁を歩いてみる。しっかり踏み固められている。


上成土塁に向かう傾斜部分。木がうっそうと茂っている。


水城駅の近くには、こんな断面が見えるところがある。


水城の全体の断面図はこのような感じで、今目の当たりにできる部分はごく一部に過ぎない。


説明版をよく見ると、この土塁、単に土を盛っただけではないことがわかる。

1.古代の技 その1・・・版築(はんちく)
これ、先日の歴史秘話ヒストリアの薬師寺の時もやっていたけれど、板などで外側を囲み棒で突き固める方法で固めてあるのだ。タクシーの運転手さんによると、最近の研究では、この水城が特に通常より細い棒で綿密に突き固められていることがわかったんだとか。

2.古代の技 その2・・・傾斜させた版築土層
意図的に土塁を大宰府側に下るように傾斜させており、これは土塁の構造を強化するとともに、しみ込んだ水を内側に導くことで、勾配の急な博多側の外壁が崩れることを防ごうとしたと考えられるとのこと。

3.古代の技 その3・・・敷粗朶(しきそだ)
火山の土の下部には、木の枝はが幾層にもわたり挟み込まれていたとのこと。これは土塁の基礎を安定させるとともに、軟らかい地盤上を作業者が歩きやすくするための工夫と考えられるとか。

土も三種類(山の土、川の土、火山の土)と使っている。一番下が、火山の土で、先日ブラタモリでもやってた9万年前の阿蘇山の噴火にともなうAso-4だ。水分を多く含むので、敷粗朶の腐敗を防ぐ役割もあったようだ。中間が川の土で、砂が多く含まれると。水城の建造のために掘り下げた時の土を有効活用したのではないかと。一番上が山の土であり、これを突き固めて版築にしている。花崗岩の風化土だそうだ。

いずれにせよ3種類も使っているのは、現地の土を有効に使いながら、作業効率を高めようとしたのではないか・・とのこと。発掘調査により、非常に緻密に作られていることが分かったという。この版築工法は現代の土木技術の中にも生きているんだとか。私は土木技術に詳しくないが、現地の看板に書かれていたことを、こんなふうにメモっておくと、いつ何どきか「あぁ・・!」とひらめくことがあるかもしれない。(さっきAso-4に「あっ!」と思ったように。)


タクシーで回ったといえ、朝早く起きて、色々苦労したので、とても疲れた。色々教えてくださったタクシーの運転手さんにお礼を言って、水城駅で別れた。


懐かしいこの電車で、福岡空港へ。




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小倉城

2019-07-25 13:06:30 | 続日本100名城巡り

JAO久留米大会、前日に福岡県内をいろいろ回るべく、朝6時市川発のリムジンバスに乗った。ところが途中大変渋滞し、飛行機に乗れなくなるんじゃないかとハラハラした。

福岡空港から博多にでて、荷物をコインロッカーに預け、

もう東京駅には来ない懐かしの500系新幹線に乗って小倉へ。

もう乗れないんじゃないかと思っていた500系に乗れて幸せ。タイトな空間が懐かしい。

小倉駅はなかなか近未来的に美しい。

むかし、カラオケで坂本冬美の「あばれ太鼓~無法一代入り~」をよく歌っていたのだが、「小倉名代は無法松」の一節があるので、小倉といえば無法松や太鼓が思い浮かぶ私・・この銅像を目の当たりにして嬉しかったなぁ。しかしクラシック歌いの私には、無法一代の部分の、演歌独特の「うなり」がうまくできないんだが・・・。

このビルの形も、とっても独特だ。

しかし城回りはさすがに和の風情。

ここの城主はもともとは毛利氏の城だったが、城主として一番有名なのは細川忠興かな。細川氏が熊本に転封になった後は小笠原氏の城となった。

幕末の第二次長州戦争で敗れて、みずから火を放ち、天守閣は失われたが、昭和34年に再建された。

もともとはこういう形のお城だったそうなのだが、再建するときに破風をつけて、違う形の天守になっているね。

城内は博物館になっている。

この虎は立派だねえ。

佐々木小次郎の展示があったのには驚いたよ。彼は小倉藩の剣術指南役だったんだね。

続100名城スタンプもGET。

本当は小倉・・もっとゆっくり見たいんだけど、先を急ぐので、急ぎ足で駅に戻った。

結構魅力的な街のように感ずるので、いずれまた足を運びたい・・と思うのだった。


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岡豊城(おこうじょう)

2018-09-25 23:31:34 | 続日本100名城巡り
さて、なかなか書けない、先月の高知の話題より。

高知城が関ケ原以降に土佐に入ってきた山内家の城ならば、もとの支配者である長宗我部氏の城が岡豊城だ。現地で乗ったタクシーの運転手さんによると、地元では長宗我部氏の方が圧倒的に人気があるそうな。山内一豊は、相撲大会を開くと偽って長宗我部シンパの者を集め、虐殺した人物。妻がいくら賢妻でもそのようなことをしては、歴史に汚点を残すねぇ。武士階級内差別で虐げられた人々の中から志士が輩出され、明治維新への原動力となったわけであるが。

さて、山内家の高知城は日本100名城になっているが、長宗我部氏の岡豊城は趾しか残っていない。それでも続日本100名城にランクインされている。続日本100名城のスタンプラリーは今年始まったばかり。



私も早速ガイドブック兼スタンプ帳を買い込んだが、記念すべき初めてのスタンプがこの岡豊城だ。


わ~お!


現地からも熱いムードが漂ってくる。ただ、高知で泊まったホテルの人に行き方を聞いたところ「趾しか残っていませんが大丈夫でしょうか?」と聞かれた時は寂しかったな。続日本百名城は、日本百名城の近くにあることもあり、一緒に回った方が効率的だ。スタンプラリー開始に伴って、ここを訪れる人が増えるといいなぁ。


さて、ここから登っていくのだが、


最初から猛烈に傾斜が急である。


さすが南北朝時代初期頃の築城だ。この時代は山城が中心だからなぁ。蜂や蛇に出くわしませんように。


古式ゆかしき、建物趾(詰下段)。


中心となる「詰」には、櫓が復元されていた。


二階建て以上の建物であったこと以外はあまり詳細が分かっておらず、この櫓も来年2月には取り壊されてしまう。それは正解かもしれないね。仮に作ったものがイメージとして定着してしまう前に壊すということか。


もとも見晴らしの良い丘であるが、櫓の上から見ると、さらに素晴らしい光景が眼下に広がっている。


前を走る国分川は天然の堀の役目を果たす。すばらしい景色に見とれていたいところだが、黒い蜂が2匹ぶんぶんとうるさいので、早々に退散した。


二の段あたりからまた景色を望むと、


こんな景色を見たら、誰にでも、セザンヌのような絵心が生まれるかも。


ということで、さまざまにイマジネーションを駆使しつつ、岡豊城跡ウォーキングを楽しんだ。

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