ミヒャエル・エンデ 作・大島かおり 訳/岩波少年文庫
今頃読んでんのか・・と怒られそうな気がするが、この本は岩波少年文庫から出ているから子供むけに書かれたものだとは思うが、実際子供の頃読んでも私には分かんなかったと思うんだよね。時間というものの大切さ、時間がないことへの恐怖などは、大人になってからより深刻に感じるものであるから。ただ大人になった今でもこの本が言わんとしていることをちゃんと理解できたのかどうかは疑わしい。
恥ずかしながらこの本の存在を知ったのは、大人も大人、10年前くらいだったかな? とある人が、どっかの会社のライン長のことを笑っていて、この「モモ」を踏まえた冗談として、そのライン長が仕事の遅い社員に対し「この時間どろぼうめが!」と言ったらしい・・みたいな話を言ってた。私は「モモ」を読んだことがなかったから、その話のどこが可笑しいのか分からなかった。それどころか「モモ」っていうのはなんだか嫌な話なんじゃないかという先入観を持ってしまって・・・この本は2年くらい前にどっかの番組で勧められて買ったはいいけれど読む気になれなくてずっとしまい込んでいた。今回意を決して読んでみたら、そのどっかの会社のライン長こそ、「モモ」をちゃんと読んでいなかったのではないかと思われる。なぜなら時間を節約しろだの、あなたの今〇〇に費やしている時間は無駄であるだの主張する者こそ、本当の時間どろぼうであるからだ。
その時間どろぼう達は、「あなたの今〇〇に費やしている時間を節約して、私たち時間貯蓄銀行に貯蓄しませんか。5年で2倍になるんですよ。」みたいなことを言葉巧みに言い、人々から時間を奪っていくのであった。実際には貯蓄ではなくて強奪である。時間を奪われた人たちは、死に物狂いで目まぐるしく働かなければならなくなり、仕事も雑になり、笑顔も生きる楽しさも失い、ただただ追い立てられるような、物事もまともに考えられないような、無感動な毎日を過ごすことになる。
ここで引き出される教訓としては、一見無駄のように見えるものに意味がある、ぼーっとしている時間、他愛のない会話、お遊び・・そういったものにすべて意味があり、それらが無くなってしまうと、無味乾燥な人生を送ることになる・・・ということが思い浮かぶ。ただ、事はそれほど単純ではないような気がする。
物事を合理化すること自体は悪いことではないし、どうしたら効率化できるかを色々考えることも大事なことである。問題は被害者たちが自分で何も考えることなく、灰色の男たち=時間泥棒たちに言いくるめられて騙されてしまったことにもある。・・だが、それだけでもないような気がするなぁ。
今の自分を考えてみよう。会社が変わり、時間的には早く家に帰れるようになった。そして2月までは毎週末に楽器を担いで6~7個の予定をこなすような毎日であったのに、このコロナ禍で家にいる時間がたっぷり増えた。また朝の時間を有効に使うために、毎日会社から帰ったらその足で次の日の服や持ち物の準備を済ませてしまう等の合理化も図った。また毎日やりたいことを書き上げ、なるべくたくさんのことが出来るように、プライベートでもTODOリストの作成を怠らない。なのに今の私は「時間がない」と感じているのである。
私の性格として、時間があったならあっただけ、「やること」を積み上げてしまい、つねに時間がないのである。今の状態で、コロナ禍が収束し、音楽活動が随所で再開されたら、私はどうなってしまうのだろう。私は新しい生活に適応することができるだろうか。
このような私の状態もまた、ある意味、時間泥棒に時間を奪われている人間と似通ったものかもしれない。もっとゆったりと過ごす勇気を・・と思うんだけどねぇ。時間がないと不満がるのではなく、今日はこれが出来たとプラスに考えようとも思うんだけどねぇ。事はそれほど単純ではない。
「モモ」にはいろんな読み方があるという。人生の節目節目に開いて見て、どう感じるかを楽しんでみてもよい作品かもしれないね。あまり深く考えすぎず、この物語の醸し出しているロマンティックで美しく、ファンタジーとして純粋に楽しむということでもイイのかもしれない。
ちなみに作者のミヒャエル・エンデという人は南ドイツの出身でイタリアに移住したり、最初の妻と死別後、来日して日本人と結婚したりしている人なんだね。「モモ」以外の代表作は「はてしない物語」。をを、あの映画「ネバーエンディングストーリー」の原作か。映画とはラストが違うみたいだから、それはそれで読んでみたいぞ。