さぶりんブログ

音楽が大好きなさぶりんが、自作イラストや怪しい楽器、本や映画の感想、花と電車の追っかけ記録などをランダムに載せています。

お土産のお菓子も勉強材料

2017-07-31 23:34:01 | 身近なちょっと可愛いもの
今日は連続休暇明けということで、職場や、オペラ練に小田原城で買ったお菓子を持って行った。


小判型のお菓子で「これでよしなに」というメッセージが入っているのだが、


小袋に書かれている文字が、箱の表面より達筆すぎて、読みづらい。

何十枚も配って、ここに「これでよしなに」と書いてあるのに気付いた人は1人だけである。


そういう意味で、土産菓子で笑いを取ろうとした私の目論見は見事に外れた。

ところがこのお菓子にはとんだネタが仕込まれていた。


一箱につき、小判のレプリカが一つ入っていたのである。

最初、こんなレプリカいらないから、その分お菓子を増やしてくれればいいのに、と思った。
オペラ練の時に、声楽の師匠に「小判をオペラの小道具にどうですか」と聞いてみたら、夕鶴をやった時に買ってしまったとのこと。


ということで、どうしようかなぁこの小判と思って眺めているうちに、結構まじめに作られたレプリカなのではないか・・と思った。

私は小判の裏面の画像を注意してみたことがなく、表面と同じような草履のような模様(茣蓙目(ござめ)というらしい)なのかとばかり思っていたが、裏面はのっぺらぼうで、刻印がいくつか入っているだけであることにあらためて気付いたのである。

そもそも何小判のレプリカなんだろう・・と思って調べ始めたのだが、分からなかった。

江戸時代の小判は10種類(慶長、元禄、宝永、正徳、享保、元文、文政、天保、安政、万延)あって、金の含有量、大きさ、重さなど、全て異なるが、デザインは、ほとんど同じなのだ。このレプリカの裏面には真ん中と左下2つにしか刻印がないが、右上に刻印があるケースは、刻印で判別できるケースもある。

慶長、享保、正徳小判にはそういう刻印はないので、表の「光次」文字の書体や花押、茣蓙目等で判断するようだ。だとすると、そこらへんはラフに作っているかもしれないレプリカをあまり追及しても、どの小判をもとにしたのかはなかなか判別できないだろう。しいて言うなら慶長か享保か正徳のどれかなのかもしれないが。


あきらめてそれぞれの刻印についてもう少し調べてみたのが、この図だ。

表面の「光次」というのは後藤庄三郎のしるしである。本家は京都であり、秀吉の時代に大判などを作っていあが、橋本庄三郎は家康に抜擢され、後藤家の手代から後藤家の養子にしてもらった時、光次という名をもらったのだ。先日、門井慶喜さん著の「家康、江戸を建てる」という本を読んだが、慶長小判を作る際の家康と正三郎の苦労話が詳しく書かれていた。その際「光次」の名や花押の刻印が入っていることも書かれていたが、図や写真がなかったので、どこに入ってるのか分からなった。

でもあらめてレプリカを見ると、「光次」の名と花押がどこにどういう風に入っているかが分かり、とても感動した。
ちなみに光次が亡くなった後も、幕末に至るまで、「光次」の名前が刻み続けられるのである。

江戸時代を通じて、小判にこんな風にファーストネームが入ったなんて、なかなかすごい話である。

表面の上下に扇型のマークがある。これは五三桐という紋で、3本の直立する花序と3枚の葉から構成されている桐紋のうち、花序につく花の数が3-5-3になっているのを五三桐というそうな。ちなみに秀吉は、信長の家臣時代は「五三桐」を使い、豊臣姓に改めた時に「五七桐」を後陽成天皇より与えられ、それを使いだしたとのこと。

かくのごとく、たかがお菓子のおまけであるが、わりとちゃんとしたレプリカだったので、細かく見ることで結構勉強になった。

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【読書録】ヴェルディ~太陽のアリア~

2017-07-30 23:56:22 | 読書録
ひのまどか 著/リブリオ出版

ひのまどかさんの書かれる作曲家の伝記は素晴らしい。作曲家の人生はもちろん、時代背景、作った作品の解説がしっかり織り込まれているだけでなく、ご自分でその作曲家ゆかりの土地を取材した記録も末尾に追加されている。それでいて児童書なのだ。小学校上級以上向きとあるが、大人こそ楽しめる内容ではないかと思う。

この本を読んでかなりびっくりしたことが色々ある。

まずヴェルディは音楽家の家で生まれたのではない。お父さんは農業以外にも小売や宿屋などをやっていたので、ヴェルディは何も起こらなければ農民かチーズ工の道を選んでいただろうとのこと。そもそも非常に田舎であり、ふだん聴ける音楽は教会のミサのオルガンや合唱、旅音楽師のヴァイオリンくらいだったそうだが、その旅音楽師こそが最初にヴェルディの音楽的才能に気付くのであった。音楽一家出身じゃないのに、音楽を聴く機会も限られていたのに、周りが放っておかないような音楽の才能を持っていたということ・・・そんなことってあるんだな。

愛国的なオペラを沢山書いたヴェルディ・・・さぞかし生粋のイタリア人かと思いきや、彼の生まれたパルマ公国ロンコーレ村は、ヴェルディが生まれたときはフランスに組み込まれていたのである。だから彼の出生証明書はフランス語で書かれており、それがゆえにミラノ音楽院の入学試験受験時に外国人扱いとされ、それだけが理由ではないが、結果不合格となった。ちなみにパルマ公国はオーストリア領となったこともある。この時代はパルマ公告だけではない・・・イタリア自体がフランスとオーストリアにいいようにされていたのであった。

ヴェルディの若い頃は、まだまだ歌手の方が作曲家よりも偉い時代だった。歌手に振り回されること・・・ヘンデルの伝記を読んだ時もそうだったが、ヴェルディも歌手のわがままには相当苦労したようである。だが、だんだん歌手を支配下に置いていく様子が小気味よい。ビゼーの伝記を読んだ時もそうだったが、ヴェルディも若い頃は興行主に泣かされている。〇月からやるからというので慌てて作っていくと、もうそのスケジュールは違うオペラで埋まっていて、次のシーズンまで待ってくれと言われる・・・等。だがヴェルディは実力をつけ、こうした問題を自ら克服していく。

彼は若い頃、妻と二人の子供を相次いで失うが、妻の父親はずっとヴェルディを応援してくれた。「ナブッコ」でヴェルディの名声を引き上げるのに少なからず寄与したプリマのジュゼッピーナ・ストレッポーニと、後年ややスキャンダラスながらも同棲生活を送ることになった(最終的は結婚)が、このストレッポーニが、歌手としての立場からヴェルディのよき相談相手になった。その他、検閲に引っかかりそうになった作品をちゃんと交渉して通してくれる友人がいたりと、ヴェルディは人間関係にも恵まれたと言えよう。

七十を超えるまで、つねに作品に新風を注ぎ続けたヴェルディは、人生に成功し、財を成した後も、周囲の人々から受けた恩を忘れず、最後に音楽家のための養老院を作って亡くなる。一世を風靡した歌手たちもひとたび声が衰えて引退すると孤独や貧困に苦しむ者を、沢山見て来たがゆえに、彼らを救う施設を作りたかったのである。こうしたヴェルディの生きざまは、この本を読んで初めて知った。これからは、今歌っている、かつこれからオケでも練習するヴェルディのレクイエムを始め、彼の作品を演奏する際、ヴェルディ自身の生きざまの奥深さをより感じながら演奏できるんじゃないかなと思う。

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【読書録】湖の雄 井伊氏~浜名湖北から近江へ、井伊一族の実像~

2017-07-29 23:22:13 | 読書録
第一章 辰巳和弘 著、第二章 小和田哲男 著、第三章 八木洋行 著 /公益財団法人 静岡県文化財団

佐倉の国立歴史民俗博物館のミュージアムショップで衝動買いした本の一つ。

3部構成になっていて3人の方が書いておられるが、やはり第二部の小和田哲男さんが書かれた部分は、大河ドラマの「おんな城主直虎」の副読本として、ちょうどいい感じの読みやすい本だ。

個人的にすごく収穫があったと思うのは、今川傘下に入る前の井伊氏の記述が書かれていること。

井伊氏の始祖は、一般的には共資の子の共保という人物とされている。共保は藤原道長全盛時代の頃の人である。

共資のルーツは、系図的には藤原氏ということになっているが、共資は、井戸の中に共保を見つけ、男子がいなかったので拾って帰り、養い子とし、自分の娘と結婚させて跡を継がせた、共保はその後、井伊谷に移り住み、井伊氏の祖となったのである。

井伊の祖が拾われ子であることは大河ドラマでもたびたび出て来るが、そのあとのことがあまり出てこないため、今回勉強になった。

南北朝時代に南朝側に立つのである。後醍醐天皇の皇子である宗良親王を井伊谷城にほど近い三岳城に招いて保護したという。井伊氏の勢力範囲には南朝大覚寺統の荘園や御厨が集中していたので、後醍醐天皇もこの地に注目し、皇子の一人を派遣し、南朝の拠点にしようとしたようである。

結果南朝方は敗れ、井伊氏は没落する。また、戦国時代に入ってからは今川氏親による遠江平定の際、三岳城は落ち、井伊氏はさらに没落する。

今川氏親没後は今川氏輝が継ぎ、氏輝も亡くなった頃、状況に変化が出る。今川氏内部での家督争い(花蔵の乱)の中で、井伊直平は今川義元に味方するのである。義元に出仕するに際し、直平は娘を人質として義元に差し出したようである。大河ドラマでは、この娘のさらに娘が築山殿だという説を取る関係で、直平の娘は比較的よく登場したが、井伊が生き残るための起死回生の策として、義元に賭けたという意味では、非常に意味のある人質だったことになり、義元なかりせば井伊の再興もなかったのかと思うと、単なる今川憎しでもないような気がする。

尚、関ケ原で島津が敵陣突破という意表をついて退却する際に、直政がほぼ単騎で追いかけ、鉄砲で打たれて大けがをするという話は知らなかった。随分血気にはやる人間だったんだな。打たれてからもしばらくは持ちこたえるが、結局はその鉄砲傷は治らず、死の原因にもなったようで、徳川家康を支えた英雄の最後としてはちょっと悲しいのであるが、今後大河ドラマで直政がどう演じられるか、ちょっと楽しみではある。

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昆虫食セミナーに行ってきた!

2017-07-28 23:01:01 | 映画・番組等、各種鑑賞録
(昆虫画像は直接貼らずにリンクにしてありますので、興味のある方だけリンク先をご覧ください。)

連続休暇最終日に最後の冒険。自分で申し込んでおきながら、ハラハラドキドキ。大抵のものは食える自信があるのだが・・・。

結果、すばらしいセミナーと試食タイムを堪能し、無事生還!

ただ、出席者にはつわものが多く(男女半々)、明日からでも庭や近所でムシを取って食べたい人達で、具体的な調理法について突っ込んで質問している。学祭でセミチョコ出したいんですけど・・などと言ってる学生もいる。

私はまだそこまでの自信はなく、慣れた人がちゃんとした方法で調理したもので、少しずつ経験を積もうとしているレベル。私もまだまだだなぁ。

昆虫食は、近年、国際連合食糧農業機関も推奨する報告書を出すほど関心が高まっているという話をネットでは見るが、私の身の回りでは全く話題になっていないので、まだ抵抗感を感ずる人は多いだろう。だが、「牛肉1キロを得るのに8キロの餌が必要だが、たとえば同じ栄養をコオロギで摂ろうとすると2キロで済む。ほかにも肉より可食部が多く、狭い土地で養殖でき、水もほとんど不要。家畜に比べてメタンガスの排出も少ない。」などと聞けば、こりゃぁ世界の食糧問題解決のための1つの選択肢として真面目に考えた方がよいだろう・・とほとんどの人は思うのではないだろうか。

日本だって、昔からイナゴ、ハチの子、ザザムシなどを食べてきたわけだし、特に信州等では、今も親しまれているわけだが、大量生産や安定供給に向かず、都心のスーパー等では手に入りにくいのと、何よりも虫と言われるだけで不衛生なイメージが付きまとい、大半の人が嫌悪する存在になってきてしまっている。

だが世界各地の昆虫食人口は20億人で、何と1900種以上の昆虫が食べられているという統計もあり、日本でだって漢方薬などには入っていたりする(セミの抜け殻がアトピーの薬になる等)ので、そんなに特別視するようなことではないのだと思う。

今日試食したのは冒頭の写真の6つだが、右の3つは日本で伝統的に食べられているもの。左の3つは諸外国で食べられているものを参考に1歩踏み込んでいる。

▼上:ハチの子、下左:イナゴ、下右:カイコの蛹
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/17/e7e703b2285881995ce45ff6a05e4874.jpg

ハチの子とイナゴは美味しくて、瞬間蒸発。 カイコは若干クセはあるけど大丈夫。

▼左上:タガメ風味のサイダー 中:ミツバチ幼虫とコオロギ  右:セミの幼虫
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/42/aee6f07d944c7072aab066dcfb28170e.jpg

サイダーは洋梨風味でひたすらに美味しい。ミツバチとコオロギもどうってことなくて・・・つまりサイズが小さければ抵抗ないのよ。
問題はセミで・・・・

▼セミ幼虫(燻製)
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/8a/3dcd7e40cbab4ca222cebbb2d9ca6f94.jpg

今日の食材の中では一番勇気がいるなぁ。ただ先生によると、過去セミを不味いと言った人は誰もいない・・という話なんで、思い切って口へ運ぶ。

う・・一噛み目、二噛み目は虫を噛んでいるという食感なのだが、三噛み目以降はそれを全く忘れる。ナッツに近い味だと教わったが、私は魚で作ったおつまみの味だと思う。
たまたま今シーズンのものが入手できず、一年前に熱を通してから冷凍したものを、昨日解凍して燻製にしてきたものらしく、もしセミ自体が新しければもっと美味しいだろうとのこと。

なお、タガメは高級食材なので、今回は風味付けだけだったが、一応体験ということで、ビンに入った本物も回覧されてきた。

▼タイワンタガメ
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/20/f6eb789242a52ae1348e255087e34687.jpg

ビンが回覧されてきた時は、不覚にも持つ手が震えるほどビビったが、蓋を開けてにおいを嗅いでみたら、拍子抜けするほどいい香りで、洋梨みたいというか、洋梨以上にかぐわしく、いい匂いだった。

ちなみに、夜、美容院に行ったのだが、美容院のシャンプー&リンスが洋梨の香りだったので、思わず「タイワンタガメみたい」と口走った私は、ひょっとすると嫌われたかもしれない。

その他試食はなかったけれど、参考に2つだけ。

▼ツムギアリ(タイの缶詰)
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/b6/526dbf641fb7691f093892324648b7ee.jpg

▼ミルワーム
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/dc/eb8a9e0bd65edf4e4cd62d037daac22a.jpg

セミナー終了後も講師の先生はひっぱりだこ。去年からいろんなセミナーに行ってるが、ここまで盛り上がるセミナーってなかなかないんじゃないかな。

食のチャレンジャーを自認してきた私、他の出席者の勢いを見て、ちょっと自信がなくなってきたのだが、他国でちゃんとした食事として食べられているものに対して偏見を持たない・・・という考え方は、今後も貫いていきたいと思う。

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八王子城

2017-07-27 21:44:05 | 日本100名城巡り
八王子城・・・といっても最寄り駅は高尾である。

川越のイーグルバスで思ったより時間を食ってしまった私は、八王子城のスタンプ押し時間に間に合うのかどうかハラハラしながら西武線と中央線を乗り継いで高尾へ。

高尾駅で降りるのは初めてである。同僚は飲んだ日によく乗り過ごしてここまで来ているらしい。

高尾に着いたのは4時過ぎ。幸いタクシーが何台も止まっていたので、八王子城まで往復してもらうことにした。タクシーに乗ってしまえば管理棟まではさして時間はかからず、10分くらい。本丸は管理棟から30分ハイキングが必要だからとても間に合わないが、復元の進んでいるご主殿付近ならこの時間でも十分見学できる。


タクシーの運転手さんは、お城に理解のある方。スタンプ帳を持って八王子城を見に来られる方は多いとのこと。ということで、ほどなく管理棟に着く。


スタンプの時間には十分間に合う。


管理棟にあったパンフレットは小学生でもよく分かるように書かれた、よく出来たパンフレットだ。これから向かうご主殿は、普段使いの城主の館があるところ。

本丸は遺構がほとんど残っていないが、籠城戦の時に立てこもる場所だ。自然の要害を生かして作られた山城であることが、これを見ても分かるだろう。

八王子城は後北条氏の本城である小田原城の支城であり、先日小田原城でも写真を見たが、後北条氏の支城としては最大規模のもの。

城主は北条氏康の三男、北条氏照。氏照はもともとは滝山城にいたが、小田原攻撃に向かう武田信玄軍に攻められた際に滝山城の防衛の限界を感じて、新たに八王子城を築城して、本拠を移したのであった。

ところがまだ完成しないうちに、秀吉の小田原征伐で上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められて落城してしまったのである。

当時、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内には城代他、わずかの将兵しかおらず、領内から動員した農民と婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠ったが、2方向からの夜討ちと、搦手側別動隊の奇襲により、一日で城は陥落してしまった。氏照正室を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。麓の村では城山川の水で米を炊けば赤く米が染まるほどであったと伝えられ、現代でも、先祖供養に赤飯を炊く風習として残っているとか。

氏照はその後この地に戻ることなく、小田原開城後に兄・氏政と共に切腹を命じられた。氏照は小田原征伐時には徹底抗戦を主張したため、秀吉から主戦派とみなされたのだ。のちに新領主となった徳川家康によって八王子城は廃城となった。


そういう悲劇をかみしめながら、御主殿まで歩く。


ここは大手門(形状は藥医門と考えられている)近くであるが、大変よく整備されている。


曳橋と呼ばれる箇所。まだまだ工事が続いている様子がわかる。


曳橋を渡って御主殿へ。


ここは山城なのに、石垣が作られている。ここのところ、石垣のないお城ばかり回っていたので、石垣フェチな私としては眼福に尽きるというか、一日の疲れが抜ける思いというか、ワクワクするというか・・・・。


石垣や石畳は当時のものをそのまま利用し、できるだけ忠実に復元されているという。御主殿入口の冠木門をくぐると


中はこのような草地になっていて、奥の方に舞台のようなものが見える。


排水路のようなものも復元されている。


建物跡が木で再現されている。


ここら辺は柱が沢山あったのだろうか。


いまごろ気が付いたんだが、マムシに注意だそうだ。怖いね~。

・・・・・・・・・・・・・・・・

ということで遅い時間であったが、素晴らしい石垣に感動して、興奮の極致に達した。


高尾駅の駅舎はこんな愛らしい姿をしているのね。これから神楽坂の情報リテラシーセミナーを受けに行くが、十分間に合う時間に帰って来れてよかった。






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川越城

2017-07-27 21:43:16 | 日本100名城巡り
鉢形城攻略の後、東武東上線を池袋方向に戻って、川越城へ。

川越城は、太田道真、太田道灌父子によって作られ、築城当時は河越城と表記されていた。

私は以前少し書いたけど、太田道灌、大好きなんですよ。太田道灌という名を聞くと、今から30年くらい前、父が、私が作った味噌汁の入ったお椀を箸で一回なでし、「みのひとつだになきぞ悲しき」と言ったことをつい思い出してしまう。

本当の故事は有名だが、念のため書くとすると以下のような話だ。

太田道灌が、突然のにわか雨に遭い農家で蓑を借りようと立ち寄ったら、中から娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出した。蓑を貸してもらえなかった道灌は腹立たしく思って、後日その話を家臣にしたところ、それは後拾遺和歌集の「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」の兼明親王の歌に掛けて、貧しく蓑(実の)ひとつ持っていないことを奥ゆかしく答えたのだと教わった。古歌を知らなかった事を恥じて、それ以後道灌は歌道に励んだそうだ。

主家扇谷上杉氏は、以前は山内上杉氏を補佐する役回りであったが、太田道灌の働きにより勢力を増し、山内上杉家と肩を並べるほどになった。それにつれて道灌の威望も絶大なものになり、逆に主君である扇谷上杉定正は道灌を警戒するようになる。ついに定正が刺客を放ち、道灌を暗殺する。その資格は道灌を槍で刺しておいて、「かかる時さこそ命の惜しからめ」と上の句を詠んだ。道灌は致命傷の中で「かねてなき身と思い知らずば」と下の句をつけて死んでいったという。

この話、私の大学入試の時、どっかの大学の古文の試験で出た。試験中なのに感動してしまって、ずっと気になっていた。

また、道灌は死に際に「当方滅亡」とも言ったという。自分がいなくなれば扇谷上杉家に未来はないという予言であるが、果たして、道灌暗殺により扇谷上杉家に付いていた国人や地侍の多くが山内家へ走った。その後、北条早雲なども登場し、早雲の孫の氏康によって扇谷家は滅ぼされた。道灌暗殺から60年後のことであった。

太田道灌の劇的な人生は、そういう意味でもっと知られてもよい話なのかもしれない。ただ川越市では親しまれていると思う。


川越城前には、道灌饅頭を売る店があった。買ってきたかったけど、時間がなかった。

また川越市役所前に、太田道灌の立像があるのだが、撮りそびれた・・・と思って調べてたら、東京国際フォーラムにも道灌さんの立像があるのね。今度見に行かなくちゃ。

☆ ☆ ☆

話を川越城(河越城)に戻すと、古河公方・足利成氏への防衛線として、扇谷上杉氏の上杉持朝(定正の前々代)が家宰の太田道真、太田道灌父子に築城を命じたのだ。当時は、室町幕府はもう関東を制御できなくなっており、室町幕府より関東の押さえとしておかれた鎌倉府は、鎌倉公方足利氏と、その補佐役である関東管領上杉氏との内部対立から、公方(足利成氏)が管領(上杉憲忠)を殺害する事件が起こり、享徳の乱(1455~1483年)が発生。よく、戦国時代は応仁の乱(1467~1477年)からなんて言われるが、関東は一歩先に戦乱の世になっていたのだ。

全面戦争により鎌倉府は壊滅し、公方は古河に拠点を移し、古河公方を称し、引き続き、管領上杉氏と対立したのだ。そんな背景から足利成氏への対抗拠点として河越城が築城されたが、同じ理由で、江戸城、岩槻城も築造されている。

尚、扇谷上杉氏は河越城に居城したが、その後、北条早雲に攻め取られてしまう。その後、秀吉の小田原征伐の折、前田利家がここを攻撃し、入城。徳川家康が関東に封ぜられた際は廃城にならず、川越藩の藩庁として活用され、酒井家→堀田家→松平家→柳沢家→秋元家→松平家と続いた。

ここも、佐倉城の9名にはかなわないものの、7名も老中を出した老中の城である。有名どころでは、酒井忠勝・松平信綱(知恵伊豆)や柳沢吉保など。

遺構はあまり残っていないが、川越城本丸御殿が部分的に残っており、見ごたえがあった。


これがその本丸御殿。月曜日は休館なので、行かれる際は営業日を確認されたし。


本丸といっても、現存するのは赤く囲まれた部分だけ。


今回の夏休みでは、水戸の弘道館、偕楽園の好文亭、そして川越城本丸御殿と、ちょっと似たような日本家屋に3つ、靴を脱いで入場して歩き回ったのだが、同じ江戸時代の日本建築なのに、三社三様に漂うオーラが違うのだ。

 弘道館:勉学のオーラ
 好文亭:けだるいオーラ
 川越城本丸御殿:ピリッとしたオーラ


個人的には、勉学オーラやピリッとしたオーラの方が気持ちが前向きになり、癒される感覚があるなあ。ここにも老若男女のお客様が来てたけど、みんな癒されながら前向きな笑顔をしているのが印象的だった。


このつるつるした廊下を、裃を着た武士が真剣な顔をして歩いている様子が目に浮かぶ。


庭もシンプルで落ち着きがある。


こちらでは何やら大事な話をしているようですな。


今は使えないと分かっていても、厠なんてみてたら入りたくなってしまうんで、早々に退散する。


向こうには鎧があるが、江戸時代の建造物なのに、飾ってあるのは源平時代のものじゃないか。


を、やっぱり鎌倉時代初期って書いてある。当たってた! 小田原城→鶴岡八幡宮と梯子して、眼力が鍛えられたみたいだぞ。


畳には伊能忠敬の作った地図が印刷されたマットが敷かれていて、お客さんみんな自分にゆかりの土地を探そうと大騒ぎ。

ちなみに私の場合、前に住んでたところは載ってたが、今住んでるところは載ってなかった。前に住んでたところは江戸時代に栄えた、それこそ八犬伝にも出て来るところだから載ってて当然だな。


こちら、お定まりの100名城スタンプ。


さて本丸御殿以外の遺構としては、中ノ門堀跡というのがある。


堀の内側と外側で勾配が違うのね。こういう堀もあるのか。


富士見櫓のところは残念ながら石柱が立っているだけ。


さて、これから八王子城に向かうのだが、間に合うかどうか微妙な時間。こういうイーグルバスというのにのって本川越駅まで行くことにした。


こちらのバスは、本来の川越観光であれば回るであろうところを回ってくれるし、運転手さんみずから説明してくださる。


楽しそうだなぁ~。次回川越へ来る時があれば、是非この通りを散策してみたい。

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鉢形城(埼玉県寄居)

2017-07-27 20:56:04 | 日本100名城巡り
夏休みの中で、遠出が出来る最終日の今日、日本100名城を3つ回って、さらに夜はセミナーに行って、充実した一日を過ごした。(本も一冊読み終わったし)

朝、東武東上線の寄居からタクシーで「鉢形城址」。
昼は同じ東部東上線の川越からバス+歩きで「川越城本丸御殿」。
夕方は高尾からタクシーで「八王子城址」。

どれも遺構は少ないのだが、それぞれに見どころが違うので楽しめた。関東の城だけに、三城とも後北条氏が絡んでいる。ただ秀吉の小田原征伐で敗れた後は鉢形城と八王子城は廃城に、川越城はその後も酒井氏、堀田氏、松平氏の城として使われるというように、運命が分かれている。

また鉢形城と川越城は両方とも太田道灌が絡んでいる。

鉢形城は太田道灌が攻めた城、川越城は太田道灌が作った城だ。ただ太田道灌は家宰なので、実際に城主となったのは扇谷上杉氏だ。

ま、こんな風に、今日行った3城をおさらいしてまとめてみると面白い。

まずは鉢形城だ。


現地の歴史館に入って下調べ。

ここは1476年に山内上杉氏の重臣であった長尾景春が築城している。

最近お城や城址を回っていて思うのは、日本の城郭の歴史は、戦国時代や安土桃山時代だけ知っていてもだめで、江戸時代初期や、応仁の乱以前のことをもっと勉強しなきゃだめだなぁということ。

永享の乱、結城合戦、古河公方の誕生、享徳の乱、長尾景春の乱、山内上杉家と扇谷上杉家の争いなど、一部南総里見八犬伝の時代背景として使われているが、歴史の教科書にあまり出てこないし、ぐちゃぐちゃしててよくわかんないし、そんなことを知らなくても八犬伝は楽しく読めるし・・・で今まで勉強不足だった。

この鉢形城は乱を起こした長尾景春が築城したもの。長尾氏は山内上杉家の家宰をつとめる家柄。長尾景春は、古河公方との闘いの最中に没した父のあとの家宰として、嫡男の自分ではなく、父の弟の長尾忠景が主君上杉顕定によって任命されたことに怒り、この鉢形城を築き、古河公方側に立って、主家である山内上杉家に復讐を繰り返した。これが長尾景春の乱であるが、鉢形城は扇谷上杉氏の家宰である太田道灌が攻め落とし、山内上杉家の顕定が入城する。(この時点では山内上杉氏を扇谷上杉氏が支えていたわけね〜。後で対立するけど。)

う~ん、ぐちゃぐちゃだけど、太田道灌が仕えてたのって上杉定正・・南総里見八犬伝で言うところの扇谷定正なのよね~。扇谷定正って八犬士(架空)の敵なんだけど、太田道灌は定正に妬まれて暗殺されたから、最終的には八犬士と利害関係は一致するのか・・。

・・・という話はおいといて、その後北条氏康の四男、氏邦が鉢形城城主となるが、小田原征伐で敗れて、この城は廃城になってしまった。



建造物は何も残ってないが、近年、このような門が復元されている。


あとは、空堀や土塁のすばらしさよ。


最近の見学のお陰で、堀を見ただけで感激できるようになってきた。


この笹曲輪の右側は、


荒川になってる・・・って、こんなに水少なくて大丈夫か?

ということで、想像していたよりも見ごたえがあって、楽しかった。

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甘味噌のしそ巻きを作ってみる

2017-07-26 14:43:12 | 下手くそ料理帖
今日は、朝起きたら大雨。夏休み4日目の今日も遠出をする予定だったが、神様が休めと言っているのかなと思い、夜のイタリア語講座までは家でゆっくり過ごすことにした。


ベランダ菜園の方は、青じそがどうしようもなく茂っているので、収穫してしそ巻きを作ることにした。

ちなみにバジルの方も収穫待ったなし。パクチーはやはり盛夏には弱いのか枯れてしまった(強い光線を避けるために部屋に入れてケアしてたんだけど。)


今日はこんだけ収穫。洗って、ペーパータオルで水分を取って、軸を切っておく。

参考にしたレシピはこちら。

▼子供もOK!しそ巻き(しそ味噌)
https://cookpad.com/recipe/2710709

▼子供もOK!しそ巻きの味噌
https://cookpad.com/recipe/2707333

まずは、味噌を準備。材料は以下。(だいぶ余るので、保存しておいてまたの機会に使う予定。)

味噌       100g
砂糖(上白糖)   100g
白ゴマ      15g~20g
上新粉      25g(味噌の水分が多く、やわらかく出来た時は上新粉を追加)
油        大さじ1


フライパンに油を敷き、熱しながら味噌と砂糖を混ぜ合わせる。


白ゴマと上新粉(数回に分けて加える)を加えながら絶えず混ぜる。


ひとまとまりになったところで完成。


粗熱を取る。


味噌を少しずつ掬って、紫蘇に巻き、楊枝で留める。1本の楊枝に3~4巻きくらい。


油でさっと揚げる。表裏ひっくり返し、濃い緑になったなあと思ったら、すぐキッチンペーパーを敷いたバットに上げる。


しばらく油を切ってさます。


残ったお味噌は平らにしてラップでくるんで冷蔵庫へ。


出来上がり。

美味しくできました。

お味噌は、お餅のような、飴のような感じ。千葉のピーナッツ味噌みたいな感じかな。

紫蘇はペラペラで、薄い海苔のように他愛ない感じになってるけど、上品で美味しい。

おかずというよりは、お茶うけのような感じだね。

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水戸城

2017-07-25 23:19:08 | 日本100名城巡り
鹿島神宮駅から鹿島臨海鉄道大洗鹿島線に揺られて水戸へ。まさか香取神宮のある佐原から鹿島神宮、そして鹿島神宮から水戸へ、それぞれ鉄道1本ずつで行けるなんて知らなかった。ただしいずれも直通の本数が少ないので、水戸行きに乗り遅れないようダッシュで乗り込んだ。


さて、トントン拍子で水戸にたどり着いてみれば、黄門様ご一行のお出迎え。ご一行様たち、こんなにイケメンぞろいでしたっけ?


駅前に三の丸ホテルというのがある。まさにお城の跡地にふさわしい名前だね。三の丸ホテルの脇を通って、水戸城址に向かってのんびり歩く。


まず最初の目的地。この大手橋周辺では佐幕派と討幕派が幕末に激闘を繰り広げたのだ。


大手門は復元工事中で、いずれこういう門が建つんだそうだ。


木で作られた仮設の歩道橋を渡ったところにも、このようは旗がひるがえっている。


ん、お城の遺構かな?と思うと中学校だったり、小学校・幼稚園だったり、高校だったりする。


古き街並み、お城の景観を残しつつ、敷地を学校のために使っているのだろう。まさに水戸藩のアカデミックな伝統が今に引き継がれていると考えることもできるかな。

ただ、水戸城って石垣を用いず、土塁と堀だけで守りを固めていた城だと聞いていたので、石垣らしきものがあるのはどうなのか?という気もするが、街づくりに土塁というわけにもいかないでしょうから、やむを得ない話なのかな?


この大きな椎の木は見ごたえがある。


水戸城はもともとは平安末期に平国香の子孫である馬場資幹により築かれ、その後佐竹氏の時代を経て、水戸徳川家の城となった。

水戸徳川家は江戸に常駐していたため、この城は藩主の居城としての役割を担っていなかったため、防衛上の重要性が低く、城郭と言うよりはむしろ政庁としての性格が強かったのだという。天守は築かずに3重5階建ての三階櫓を、天守的な位置づけで使用していたが、残念ながら太平洋戦争の空襲で焼けてしまった。


そういう意味では、現存する唯一の遺構、橋詰門(藥医門)は貴重な存在。佐竹氏の時代(1591~1602)に建てられたものだから、かなり古い。

何と高校の敷地の中にある。


門の下に立つと、古く、温かい、木の香りがする。その香り一つで、やはり来てよかったと、満足度が高まる。


本丸と二の丸の境目は空堀となっているが、現在はそこに何と水郡線が走っている。水郡線のカラフルな車両については、また稿をあらためて書くことにする。


水戸駅へ戻る途中も、復元された門を見たが、やはり安土桃山時代に作られた藥医門が持つ、包み込むような魅力にはかなわない。でも年数を重ねればきっとそれなりに風格は出て来るだろう。空襲で焼けてしまったお城を何とかして復元しようとしている、自治体全体の努力が伝わってくる。


弘道館入口で押させてもらった記念スタンプ。

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弘道館

2017-07-25 23:18:34 | ただの日記
水戸城址の脇に、水戸藩の藩校である弘道館があったので、寄ってみた。


日本百名城巡りの、水戸城のスタンプがここの受付にあるから寄ったのであるが、なかなか趣のある建物なので、中に入ってみることにしたのだ。

もともと予定もしていなかったし、期待もしていなかったのだが、一歩足を踏み入れてみたら・・・・


不思議な感覚に囚われ、気持ちがす~っと癒されていったのだ。


烈公と書いてある左の2つが徳川斉昭で、義公と書いてある座っている方が徳川光圀だ。


外から差し込んでくる光が柔らかく、心が洗われる。


もし昔に生まれていたら、ここで大名家の子息たちと机をならべて勉学に励みたい・・・なんか、館内全体に漂う勉学オーラに影響されてか、猛烈に勉強したい気分でいっぱいになった。


弘道館の鬼瓦なのだが、両脇に二つ小さなハート形があるでしょう? これって「猪目(いのめ)」と言って、魔除けや火災よけの意味がある日本の伝統的な模様なんだって。

日本の伝統文様の中に、ハートマークも入ってたなんて、びっくりだよね。
コメント (3)
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鹿島神宮(常陸国一の宮)

2017-07-25 23:18:06 | 諸国一の宮巡り
香取神宮のある佐原駅からJR鹿島線に揺られて鹿島神宮へ。


途中、潮来付近のこんな眺めを楽しみながら行く。

20代の頃、香取神宮・鹿島神宮に来た時は、気持ち的には暗闇を歩いているような、まるでどん底のような日々だった。前日夜に、たまたま寮の食堂にあったテレビから「茨城県民の歌」が流れ、「空にはつくば、白い雲~」で始まる歌詞と映像とメロディーに心をわしづかみにされてしまったのだ。「あかるく生きる喜びが明日の希望をまねくのだ」というフレーズ・・当時の自分の口からは絶対出ないような青臭い言葉・・・ずっと忘れていた言葉・・・そうだ、そういえば明日茨城県に行くんじゃん。

ということで鹿島神宮を参拝した私は、お土産屋さんで「茨城県民の歌」の楽譜を入手したいと相談したのであるが、その店の人が分からず、通りかかったおばあちゃんが、それなら〇〇さんちに行けばいいということで、その〇〇さんちに連れていかれ、家族団らん中の居間に上がりこむ羽目になり、そこの家のお嬢さんの生徒手帳に茨城県民の歌が印刷されているというので、それを五線譜ごと自分の手帳に写させてもらった・・・という赤面ものの思い出が私にはある。今ならインターネットで検索すればすぐ分かる。でもそんなものはまだない時代だった。藁をもつかむつもりだったんだろうな。当時は合唱団も休んでたから、少しでも自分を救ってくれる歌が自分にとって貴重だったんだろう。


そんな思い出を胸に、鹿島駅に着いた。歩道にある勾玉風の石が気持ちを盛り上げてくれるのだが、なんだか寂しい。


駅からずっと坂を上がっていくのだが、あれ?こんなだったっけ?とびっくり。二十数年前は鹿島アントラーズのマークがそこかしこにあり、もっとにぎわってたような気がするんだが・・それとも歩いているルートが違うのか。


鳥居が見えてきた。ここら辺は何となく記憶にある。


こんもりとした老木が格の高さを醸し出す。


この楼門も思い出深い。国の重要文化財で「日本三大楼門」の1つだとか。


外側には随身がいて、


内側は雷様みたいな・・・・香取神宮だとこれが狛犬だったわね。同じように見える楼門でも中に入っているものが違うのね。


さて、これが拝殿(国の重要文化財)。武甕槌大神が祀られている。

国譲り神話で重要な役割を示すこの神がこの地にも祀られていることは、この地が、北の蝦夷に支配を広げようとしている朝廷にとっての拠点であったことを象徴しているらしい。

中臣氏とも縁の深いこの神宮は、古代史大好き、奈良大好きな私にとって、東国に居ながらにして古代大和朝廷の香りがする憧れの神宮であったが、近年では古代史以外にも興味の範囲が広がったので、もう少し冷静に見れるようになったかな。


そうそう、若い頃、この日本最古最大とかいう直刀を見て、直刀の木刀を買ったのよ。今日は時間がないからスルーするけど、久しぶりにあの木刀振ってみるか。


御朱印もいただきました。


昔はなかったこの躍動感あふれる鹿の像が気に入る。


後ろから見てもとてもかわいい。

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香取神宮(下総国一の宮)

2017-07-25 23:17:39 | 諸国一の宮巡り
夏休み3日目。今日は香取神宮→鹿島神宮→水戸(水戸城、弘道館、偕楽園)と回り、夜の職場合唱団の練習にもちゃんと出た。

昨日に引き続き、着替えを持っての外出。昨日、長袖で防御したのに手の甲と指を日光じんましんでやられたので、今日は曇り空だったけど両手の甲にサポーターをしていった。

とにかく、これでもかというぐらい汗をかくので、夜に人と会うときは着替えないとどうしようもない。大変な一日だったけど、無事に予定を完了。

あとはブログを書くばかり。

☆ ☆ ☆


朝早く総武快速でまず成田まで行き、そこから成田線で佐原に行く。


佐原駅の駅舎って、民家みたいに作られているのね。渋~い。

香取神宮には20代の頃、一度来ている。佐原からの交通の便は悪いのは分かっているので、駅前のタクシーに頼んで往復してもらうことにした。
っていうか、10時18分に佐原から鹿島神宮行きの電車がでるので、それに間に合わなかったら2時間お預けになるからだ。


佐原からタクシーで約10分。懐かしいはずの景色のはずが、全然記憶にない。う~ん、以前は木刀などを売る店が神宮前にあったと思ったのだが、タクシーで来たからルートが違ったかな?


朱塗りの立派な楼門をくぐると。。。


立派な社殿が見えて来る。本殿・幣殿・拝殿が連なる権現造で、国の重要文化財だ。ほとんど覚えていないのだが、潜在意識をくすぐる何かがある。
そうそう、私は香取神宮が好きだからこそ、以前行徳で香取という地名が気に入って、18年そこにすんでしまったのだ。


破風のところの彩色も上品で素晴らしい。


何よりもこの連なっている姿が美しい。


左側から真横から見るとこんな感じ。二つ連なっているのはよくあるけど、三つ連なっているのはあまり見ないよね。

ご祭神は経津主(フツヌシ)大神。 別名、伊波比主(いわいぬし)命。武甕槌(タケミカヅチ)神とともに出雲へ天降り、大国主命と国譲りの交渉をした神で、日本書紀に登場し、古事記には登場しない。

宝物館に行くと、その国譲り神話にかかわる絵が展示されていた。その絵は確かに20代でここに来た時にも見て感銘を受けた記憶がある。またここには国宝・海獣葡萄鏡もあり、以前来た時には、海獣葡萄鏡を文鎮の形レプリカを買った。今も大事に持っている。

ご祭神の経津主大神のフツという読みで想起されるのは、布都御魂(フツノミタマ)の剣。この剣を祀っている石上神宮は物部氏のゆかりの神社である。経津主神も本来は物部氏の祭神だったが、後に擡頭する中臣氏の祭神である建御雷神にその神格が奪われたととする考え方もあるようだ。


海自の練習艦「かとり」の錨も境内に展示されている。錨の大きさにあらためて驚くが、たしかに大きな船をつなぎとめるのだから、これくらい大きくないと困るよね、と自らを納得させる。


ご朱印をいただきました。


帰りにまた楼門を通るが、社殿側には狛犬が入っている。


外側には随身がいるのだが、こちらの老人は「竹内宿祢」、


左の壮年像なんと「藤原鎌足」だとか。

今まで楼門の中まで見て来なかったけど、神社によって違うのなら、こういうところも見なくちゃね。

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氷川神社(大宮・武蔵国一の宮)

2017-07-24 23:52:59 | 諸国一の宮巡り
東浦和から大宮へ出て、今度は氷川神社へ。

大宮という地名には「宮」という字が含まれているが、その「宮」こそ氷川神社なのだ・・・ということが実感できる、すばらしく大きくてきれいな神社だった。

さっき行ってきた氷川女体神社がこじんまりとしていただけに、ちょっと思いは複雑なのであるが、平日で、しかもやたら蒸し暑いにもかかわらず、若い人を含む沢山の人がお参りしている様子は、見ていてとても気持ち良いものである。


大宮駅から15分ほど歩いたら、急に大きな参道が眼前に出現。


すばらしく規模の大きい参道であり、歩いていて気持ちがいい。



朱塗りの楼門が、濃い緑と調和して美しい。


内部から見た楼門。ここが関東であることを忘れるほど素晴らしい。


境内中央に舞殿がある。ちょっと鶴岡八幡宮を思い出した。


こちらが拝殿(奥に本殿)。平日なのににぎわっている。


回廊部分に新しく作られたように見える部分もあり、大小さまざまな社殿がにぎわしく、勢いを感じる。

ご祭神は
須佐之男命(すさのおのみこと)
稲田姫命(いなだひめのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)

む、こっちは「奇」が取れて「稲田姫」なのか~。紛らわしいね。

社記によると、

第五代孝昭天皇の御代   御創立
第十二代景行天皇の御代  日本武尊、東夷鎮定の祈願
第十三代成務天皇の御代  兄多毛比命(えたもひのみこと。出雲族)が勅命により武蔵国造となり氷川神社を専ら奉崇

とあるが、実在性が薄い天皇の御代については、何ともコメントしがたく、とにかく古いということだけは言えそうだ。

聖武天皇の御代に武蔵国一の宮に定められたという。

氷川神社というのは大宮を中心に埼玉県に160余社、東京都、神奈川県下を含めると、約280社もあるそうだ。

ということは、氷川信仰って、関東が多いのね。スサノオノミコト系の神が祀られていることが多く、農業用水として役割が大きい半面氾濫を起こす暴れ川・荒川の本支流域に多いとか。坂東武者に信仰されたことから東国に多いそうだが、出雲神話の神々が東国で信仰されていることの不思議さを感じる。スサノオノミコトの猛々しさが坂東武者に好かれたんだろうか?

そもそも諸国一宮に祀られている神は国つ神系が多く、大己貴命=大国主命を祭神としている一の宮は極めて多いそうだ。朝廷が支配を広げるにあたり、祟りを恐れて国つ神を祀ったという話なのかどうかはよく分からないが、これから全国の一の宮を回りながら、自分なりに気付きとか、整理が出来たらいいな、と思う。


ご朱印をいただきました。

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氷川女体神社(東浦和・武蔵国一の宮)

2017-07-24 23:51:55 | 諸国一の宮巡り
今日は夏休み2日目。14時から8月ののオペラ「カルメン」和歌山公演のための打ち合わせがあるため、午前中を使って、一の宮巡りをしてきた。

武蔵国一の宮は2つあって、氷川神社と氷川女体神社がある。まずは氷川女体神社の方に足を運ぶ。


東浦和駅からバスで8分、芝原小学校前で下車し、15分ほど歩く。

ところが、神社への案内看板等が一切ないのである。スマホの地図頼りに歩くと、不意に階段が出てきた。



そこを登っていくと、こんもりとした鎮守の森の中に、拝殿があった。

社伝では、崇神天皇の時代に出雲大社から勧請して創建されたと伝えられるので、相当歴史が古い。


社殿は本殿と拝殿を幣殿(へいでん)でつなぐ複合社殿で、権現造だ。

主祭神は奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)で、大己貴命(おおなむちのみこと)と三穂津姫命(みほつひめのみこと)を配祀(はいし)している。

奇稲田姫はスサノオノミコトの奥様であるが、私はこの漢字を見て、20年ぶりくらいに合点が行ったことがある。

それは、子供の頃読んだ古典童話だと、スサノオノミコトの妻はクシナダヒメと書いてあった。ところが20代の頃、松江の八重垣神社に行った時、スサノオノミコトの妻は稲田姫と書いてあるではないか。「え、この女神だったっけ?」と思いながらお参りしたのであった。(つまりヤマタノオロチからクシナダヒメを救い出した直後に別の女を作ったの?と、疑いたくないけど、半分疑っていた。)

それを今になって、クシナダヒメは奇稲田姫も表記されるのだということを知った。調べると、『古事記』では櫛名田比売、『日本書紀』では奇稲田姫と表記されているとか。

「奇し稲田(くしいなだ)姫」すなわち霊妙な稲田の女神であれば、奇がはずれて稲田姫と書かれることがあるのもわかる。もとは稲田の神である。ただ、ヤマタノオロチから守るために、一時的に櫛に変えられていたので、櫛と「奇し」をかけて言葉の遊びをしているのである。

なので、稲田姫=くしなだひめ の関係がようやくわかってすっきりした。

尚、御朱印をいただこうとしたら、係の方が常駐していないとのこと。なので書置きに日付を入れたのをいただいて、御朱印帳に貼ることにした。


こじんまりとはしていたが、何となく懐かしい気持ちになるお宮さんであった。

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【読書録】家康、江戸を建てる

2017-07-24 23:50:39 | 読書録
門井 慶喜 著/祥伝社

この本は読みやすくて、江戸時代初期を支えたさまざまな技術について、職人の立場から書かれていて、大変面白かった。

竹村公太郎さんの、「日本史の謎は「地形」で解ける」を読み、皇居を歩き、小田原城に行き、そしてこの本を手にとった私は、ここ一週間ぐらいで得た知識がすうっと整理され、さらに発展していく喜びを感じながら、あっという間に読んでしまった。

まずは利根川の流れを変える話であるが、「日本史の謎は「地形」で解ける」をおさらいしつつ、その過程でどんな困難があったかも含めて解説されているのが素晴らしかった。

「金貨を延べる」については、上方の権威とどのように戦ったかがわかり、「飲み水を引く」については、昔自分が住んでいた文京区の地名(関口)が出てきてびっくり。

「石垣を積む」については、石垣フェチたる私、先日心を打たれた皇居の北桔橋門付近の美しさにかんする記述も、うんうんとうなずきながら読んでた。

でも最後の最後に私の心を持って行ったのは「天守を起こす」だ。明暦の大火後、江戸城の天守は再建されなかったから、今はなき天守の話がどの程度面白いのかと思いながら、読んでいたのだが、その時代、黒い天守が普通だったのに、江戸城は全国に先駆けて白い天守を作った。八王子から採れる石灰を大量に使った・・・という話に心をつかまれた。

江戸城の天守は無くなってしまったけれれど、そのDNAは白い姫路城や白い小田原城に受け継がれているんだな、と思った。

目からウロコだった部分を書き出すときりがないのでこの辺にしておくが、本当にすべてが面白く、さらに勉強してみたいという気になる本であった。

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