身体のむくみは引いてきたけど、どうも身体の左側の筋がこわばるような嫌な気分が一日中続き、職場を早めに失礼して鍼灸院へ。昨日足首に描かれたホツマ文字の痕跡を見て、鍼の先生が怪訝な反応をする。私も誤魔化すので精一杯。効く効かないの見切りをつけたら、こんな文字を描くのやめたい。
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ムダ話はさておいて、先週号の週刊古代文明から、以下をピックアップ。
1.漢の武帝
2.登呂遺跡
3.シバの女王
1.最近脳みそが朝鮮半島に飛んでいっている私にとって、漢の武帝とは、古朝鮮を滅ぼし、楽浪・玄菟・真番・臨屯の四軍を置いた男という発想ばかりが浮かんでくる。韓国ドラマ・チュモンの中盤で、真番・臨屯が廃止される話が出てくるが、それは紀元前82年の話。武帝は紀元前87年に亡くなっている。ふんふん・・それでドラマに武帝が出てこないわけね。ちなみにチュモンが高句麗を建てたのは紀元前37年の話だというが、ドラマの設定ではチュモンは40歳で死ぬことになっている。でも82-37=45・・チュモンの攻撃が切っ掛けで真番・臨屯が廃されたという話と、40歳で死んだという話って両立しないじゃん。ってことで、チュモンによる真番・臨屯郡攻撃の話は創作だと思ってはいたが、やはり創作だろう・・・ちゃんちゃん・・な~んて、チュモンのことじゃなくて、ここでは武帝のこと書いてあげなきゃ。
私の中で、本人とは全然関係ないところですっかり印象が悪くなってしまっている武帝だが、その在位は55年と実に長い。7歳で皇太子となり、16歳で皇帝になり、半世紀以上玉座にあったわけだ。その間、西域へ送り出した張騫が匈奴に十数年捕まるようなことがあっても、武帝はちゃんと待ってたわけだ。武帝は英明な人物ではあったが、激しやすく、怒りに我を忘れて身近な人物を殺してしまうことがたびたびあったようだ。また神仙思想に取り付かれ不老不死に執着したところを見ると、人間的には不幸な人物であったと思わざるを得ない。
2.最近は三内丸山とか吉野ヶ里のような大規模な遺跡が発掘されているから、登呂遺跡の存在って薄れてしまったかのような気がするけれど、週刊古代文明に書かれているこの記事は、とてもよいポイントをついているような気がして、ちょっと感激した。登呂遺跡が発見されたのは昭和18年。本格的な発掘調査が始まったのは昭和22年。この間、我々は敗戦を経験している。戦前の歴史教育は神話世界の延長線上に置かれていたわけで、敗戦を経験し、軍国主義への反省から古代の歴史にまっすぐ向き合おうとした人々の熱意が、登呂遺跡の発掘に結びついたのである。昭和22年であればまだまだ戦後の混乱や物資の不足から脱し切れておらず、ほとんどの品物が配給制だったなかで、この遺跡の発掘は進められたのだ。苦しい生活の中でも何かをつかもうとしていた人たちのエネルギーをこの記事から感じ取った。
先日韓国の歴史教科書を読んで、古代史部分について随分神話的要素が強いなと思ったし、教科書を訳した人もそのように書いている。だが敗戦を通じ、戦前の教育とは一線を画したわが国と、逆にわが国に主権を奪われ、今なお国土の分断に悩み、アイデンティティの確立を重要視する隣国との違いが、子供向けの教科書に現れているのだ。どちらが良いとか悪いとかを言っているのではない。ただ歴史というものは国民の心の支柱の一つであるのだから、自分達が今の生活をどのように獲得してきたのかを代々伝えていくことは重要なことだ。ちなみにアメリカの教科書は、当然ながら、イギリスの支配からどのように独立を勝ち取り、民主政治を実現し、世界の覇者になっていったかを、緻密に語る。近現代史しかないし、毎日1時間ずつやり、毎日宿題が出るから、1年間に電話帳のように分厚い教科書を一冊学べることになる。
3.シバの女王といえば、彼女を描いた絵が、高校時代のクラスメートの顔に似ていて、大いに笑ったことを覚えている。そのクラスメートはその後自殺してしまったので、今はその絵を見るのが辛い。
この記事を読んで、シバの女王および彼女の王国のことって実はあまりよく分かっていないんだということが分かった。エチオピア説とイエメン説があり、特にエチオピア説はソロモンとシバの女王の間のロマンスを感じさせる艶っぽさがあり、エチオピア人自身も自分達はシバの女王とソロモンの末裔であると長らく信じてきたらしいが、残念ながら現在はイエメン説の方が有力のようである。
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ムダ話はさておいて、先週号の週刊古代文明から、以下をピックアップ。
1.漢の武帝
2.登呂遺跡
3.シバの女王
1.最近脳みそが朝鮮半島に飛んでいっている私にとって、漢の武帝とは、古朝鮮を滅ぼし、楽浪・玄菟・真番・臨屯の四軍を置いた男という発想ばかりが浮かんでくる。韓国ドラマ・チュモンの中盤で、真番・臨屯が廃止される話が出てくるが、それは紀元前82年の話。武帝は紀元前87年に亡くなっている。ふんふん・・それでドラマに武帝が出てこないわけね。ちなみにチュモンが高句麗を建てたのは紀元前37年の話だというが、ドラマの設定ではチュモンは40歳で死ぬことになっている。でも82-37=45・・チュモンの攻撃が切っ掛けで真番・臨屯が廃されたという話と、40歳で死んだという話って両立しないじゃん。ってことで、チュモンによる真番・臨屯郡攻撃の話は創作だと思ってはいたが、やはり創作だろう・・・ちゃんちゃん・・な~んて、チュモンのことじゃなくて、ここでは武帝のこと書いてあげなきゃ。
私の中で、本人とは全然関係ないところですっかり印象が悪くなってしまっている武帝だが、その在位は55年と実に長い。7歳で皇太子となり、16歳で皇帝になり、半世紀以上玉座にあったわけだ。その間、西域へ送り出した張騫が匈奴に十数年捕まるようなことがあっても、武帝はちゃんと待ってたわけだ。武帝は英明な人物ではあったが、激しやすく、怒りに我を忘れて身近な人物を殺してしまうことがたびたびあったようだ。また神仙思想に取り付かれ不老不死に執着したところを見ると、人間的には不幸な人物であったと思わざるを得ない。
2.最近は三内丸山とか吉野ヶ里のような大規模な遺跡が発掘されているから、登呂遺跡の存在って薄れてしまったかのような気がするけれど、週刊古代文明に書かれているこの記事は、とてもよいポイントをついているような気がして、ちょっと感激した。登呂遺跡が発見されたのは昭和18年。本格的な発掘調査が始まったのは昭和22年。この間、我々は敗戦を経験している。戦前の歴史教育は神話世界の延長線上に置かれていたわけで、敗戦を経験し、軍国主義への反省から古代の歴史にまっすぐ向き合おうとした人々の熱意が、登呂遺跡の発掘に結びついたのである。昭和22年であればまだまだ戦後の混乱や物資の不足から脱し切れておらず、ほとんどの品物が配給制だったなかで、この遺跡の発掘は進められたのだ。苦しい生活の中でも何かをつかもうとしていた人たちのエネルギーをこの記事から感じ取った。
先日韓国の歴史教科書を読んで、古代史部分について随分神話的要素が強いなと思ったし、教科書を訳した人もそのように書いている。だが敗戦を通じ、戦前の教育とは一線を画したわが国と、逆にわが国に主権を奪われ、今なお国土の分断に悩み、アイデンティティの確立を重要視する隣国との違いが、子供向けの教科書に現れているのだ。どちらが良いとか悪いとかを言っているのではない。ただ歴史というものは国民の心の支柱の一つであるのだから、自分達が今の生活をどのように獲得してきたのかを代々伝えていくことは重要なことだ。ちなみにアメリカの教科書は、当然ながら、イギリスの支配からどのように独立を勝ち取り、民主政治を実現し、世界の覇者になっていったかを、緻密に語る。近現代史しかないし、毎日1時間ずつやり、毎日宿題が出るから、1年間に電話帳のように分厚い教科書を一冊学べることになる。
3.シバの女王といえば、彼女を描いた絵が、高校時代のクラスメートの顔に似ていて、大いに笑ったことを覚えている。そのクラスメートはその後自殺してしまったので、今はその絵を見るのが辛い。
この記事を読んで、シバの女王および彼女の王国のことって実はあまりよく分かっていないんだということが分かった。エチオピア説とイエメン説があり、特にエチオピア説はソロモンとシバの女王の間のロマンスを感じさせる艶っぽさがあり、エチオピア人自身も自分達はシバの女王とソロモンの末裔であると長らく信じてきたらしいが、残念ながら現在はイエメン説の方が有力のようである。