昨日に引き続き、去年の7月29日のことを思い出して書いてみる。
久留米でのJAOフェスの本番が終わって、あと一日でどこまで回れるか・・・吉野ヶ里も近いけど、昔行ったからなぁ。ぜひ私にとって初めての朝鮮式山城として、大野城を見てみたい。でも大野城って大野城駅から行くんじゃないのね・・・と、何度もスマホの路線案内を検索してにらめっこ。
それで、朝早く起きて、西鉄久留米から西鉄五条まで行って、歩いて大宰府市役所文化財課まで行って、大野城と水城のスタンプを押し、回り方について教えてもらうことにしたのだ。
ま、回る前にスタンプ押すのも微妙な気分ではあるが仕方がない。
で、市役所から出て大宰府政庁跡まで来たところで、私は立ち往生してしまったのである。
砂利道か芝生だからスーツケースの車輪が回らない。折から天気も悪く、楽器と重いスーツケースでは動きが取れない。令和ゆかりの「坂本八幡宮」も近いのに、とても行く気力がない。大宰府に来たんだから普通、大宰府天満宮も行くよね・・とか思いつつ、足の悪い自分のこと、飛行機の時間などを考えると、ここは恥を忍んでタクシーで、一番行きたい大野城と水城を回るしかない。と思って、タクシーを呼び出そうと付近のタクシー会社に電話するが、この日どこも捕まらないのである。
しかななく、小型バスでめっちゃ遠回りして大宰府駅に着き、そこから延々と待たされてようやくタクシーに乗れた。この日、なんか特別な日だったみたい。
大野城というのは、この看板の地図にあるように、山の頂をぐるっとめぐるようにして作られた朝鮮式山城で、白村江の戦いの敗戦後の防衛拠点の一つとして、亡命百済人の技術指導に基づき築かれたもの。
同じく現地の看板にあった図(だと記憶)であるが、これを見ると、この大野城と昨日書いた水城と大宰府政庁跡の地理的関係がよくわかる。
タクシーで険しい山を登りながら、運転手さんが言った。ここらへんは数週間前まで入れなかったんですよ。がけ崩れがひどくて・・と。私はものすごく運が良かったことになる。昨年7月29日の後も、大型台風が何度もこの地を襲っているはずで、今はどうなっているかしらと心配である。
大野城はとっても広く、城壁の総延長は8kmに及ぶ。なのでどこを見るかであるが、タクシーの運転手さんに連れて行っていただいたのは、この尾花地区土塁という箇所。
まさにここが写真に載っているところですな。草が覆ってしまっているので、単なる山道のように見えるかもしれないが、ここはちゃんと版築工法で突き固めた土塁になってる。
歩いてみるとちょっとのどかな散歩道のように見えなくはないが、
片側は急斜面の崖になってる。
こんな高い所にあるんですもの。お~こわ。万一の時はここに大宰府の機能を移すことも考えて設計されていたみたいよ。
ごろごろと巨石もあるが、それぞれがどういう意味を持っているのかはよくわからない。
上の方にあるのは、だれかのお墓かねぇ・・・。
見れたのはこれだけで、もっと説明が欲しいなぁ・・と思いつつも、こんだけの高いところの土塁を整備するだけでも大変な労力だと思う。ところどころにブルーシートが見えるが、やはり崖崩れの心配な箇所がたくさんあるんだろうなぁ。
初めてみる朝鮮式山城・・・私のポケットには大きすぎるというか、自分の知識の貧弱さを感じる。こういうものを見てもっと語れるようになるように勉強したい。
久留米でのJAOフェスの本番が終わって、あと一日でどこまで回れるか・・・吉野ヶ里も近いけど、昔行ったからなぁ。ぜひ私にとって初めての朝鮮式山城として、大野城を見てみたい。でも大野城って大野城駅から行くんじゃないのね・・・と、何度もスマホの路線案内を検索してにらめっこ。
それで、朝早く起きて、西鉄久留米から西鉄五条まで行って、歩いて大宰府市役所文化財課まで行って、大野城と水城のスタンプを押し、回り方について教えてもらうことにしたのだ。
ま、回る前にスタンプ押すのも微妙な気分ではあるが仕方がない。
で、市役所から出て大宰府政庁跡まで来たところで、私は立ち往生してしまったのである。
砂利道か芝生だからスーツケースの車輪が回らない。折から天気も悪く、楽器と重いスーツケースでは動きが取れない。令和ゆかりの「坂本八幡宮」も近いのに、とても行く気力がない。大宰府に来たんだから普通、大宰府天満宮も行くよね・・とか思いつつ、足の悪い自分のこと、飛行機の時間などを考えると、ここは恥を忍んでタクシーで、一番行きたい大野城と水城を回るしかない。と思って、タクシーを呼び出そうと付近のタクシー会社に電話するが、この日どこも捕まらないのである。
しかななく、小型バスでめっちゃ遠回りして大宰府駅に着き、そこから延々と待たされてようやくタクシーに乗れた。この日、なんか特別な日だったみたい。
大野城というのは、この看板の地図にあるように、山の頂をぐるっとめぐるようにして作られた朝鮮式山城で、白村江の戦いの敗戦後の防衛拠点の一つとして、亡命百済人の技術指導に基づき築かれたもの。
同じく現地の看板にあった図(だと記憶)であるが、これを見ると、この大野城と昨日書いた水城と大宰府政庁跡の地理的関係がよくわかる。
タクシーで険しい山を登りながら、運転手さんが言った。ここらへんは数週間前まで入れなかったんですよ。がけ崩れがひどくて・・と。私はものすごく運が良かったことになる。昨年7月29日の後も、大型台風が何度もこの地を襲っているはずで、今はどうなっているかしらと心配である。
大野城はとっても広く、城壁の総延長は8kmに及ぶ。なのでどこを見るかであるが、タクシーの運転手さんに連れて行っていただいたのは、この尾花地区土塁という箇所。
まさにここが写真に載っているところですな。草が覆ってしまっているので、単なる山道のように見えるかもしれないが、ここはちゃんと版築工法で突き固めた土塁になってる。
歩いてみるとちょっとのどかな散歩道のように見えなくはないが、
片側は急斜面の崖になってる。
こんな高い所にあるんですもの。お~こわ。万一の時はここに大宰府の機能を移すことも考えて設計されていたみたいよ。
ごろごろと巨石もあるが、それぞれがどういう意味を持っているのかはよくわからない。
上の方にあるのは、だれかのお墓かねぇ・・・。
見れたのはこれだけで、もっと説明が欲しいなぁ・・と思いつつも、こんだけの高いところの土塁を整備するだけでも大変な労力だと思う。ところどころにブルーシートが見えるが、やはり崖崩れの心配な箇所がたくさんあるんだろうなぁ。
初めてみる朝鮮式山城・・・私のポケットには大きすぎるというか、自分の知識の貧弱さを感じる。こういうものを見てもっと語れるようになるように勉強したい。