さぶりんブログ

音楽が大好きなさぶりんが、自作イラストや怪しい楽器、本や映画の感想、花と電車の追っかけ記録などをランダムに載せています。

大宰府政庁跡から大野城へ

2020-04-19 11:30:44 | 日本100名城巡り
昨日に引き続き、去年の7月29日のことを思い出して書いてみる。

久留米でのJAOフェスの本番が終わって、あと一日でどこまで回れるか・・・吉野ヶ里も近いけど、昔行ったからなぁ。ぜひ私にとって初めての朝鮮式山城として、大野城を見てみたい。でも大野城って大野城駅から行くんじゃないのね・・・と、何度もスマホの路線案内を検索してにらめっこ。

それで、朝早く起きて、西鉄久留米から西鉄五条まで行って、歩いて大宰府市役所文化財課まで行って、大野城と水城のスタンプを押し、回り方について教えてもらうことにしたのだ。


ま、回る前にスタンプ押すのも微妙な気分ではあるが仕方がない。


で、市役所から出て大宰府政庁跡まで来たところで、私は立ち往生してしまったのである。


砂利道か芝生だからスーツケースの車輪が回らない。折から天気も悪く、楽器と重いスーツケースでは動きが取れない。令和ゆかりの「坂本八幡宮」も近いのに、とても行く気力がない。大宰府に来たんだから普通、大宰府天満宮も行くよね・・とか思いつつ、足の悪い自分のこと、飛行機の時間などを考えると、ここは恥を忍んでタクシーで、一番行きたい大野城と水城を回るしかない。と思って、タクシーを呼び出そうと付近のタクシー会社に電話するが、この日どこも捕まらないのである。


しかななく、小型バスでめっちゃ遠回りして大宰府駅に着き、そこから延々と待たされてようやくタクシーに乗れた。この日、なんか特別な日だったみたい。


大野城というのは、この看板の地図にあるように、山の頂をぐるっとめぐるようにして作られた朝鮮式山城で、白村江の戦いの敗戦後の防衛拠点の一つとして、亡命百済人の技術指導に基づき築かれたもの。


同じく現地の看板にあった図(だと記憶)であるが、これを見ると、この大野城と昨日書いた水城と大宰府政庁跡の地理的関係がよくわかる。

タクシーで険しい山を登りながら、運転手さんが言った。ここらへんは数週間前まで入れなかったんですよ。がけ崩れがひどくて・・と。私はものすごく運が良かったことになる。昨年7月29日の後も、大型台風が何度もこの地を襲っているはずで、今はどうなっているかしらと心配である。


大野城はとっても広く、城壁の総延長は8kmに及ぶ。なのでどこを見るかであるが、タクシーの運転手さんに連れて行っていただいたのは、この尾花地区土塁という箇所。


まさにここが写真に載っているところですな。草が覆ってしまっているので、単なる山道のように見えるかもしれないが、ここはちゃんと版築工法で突き固めた土塁になってる。


歩いてみるとちょっとのどかな散歩道のように見えなくはないが、


片側は急斜面の崖になってる。


こんな高い所にあるんですもの。お~こわ。万一の時はここに大宰府の機能を移すことも考えて設計されていたみたいよ。


ごろごろと巨石もあるが、それぞれがどういう意味を持っているのかはよくわからない。


上の方にあるのは、だれかのお墓かねぇ・・・。

見れたのはこれだけで、もっと説明が欲しいなぁ・・と思いつつも、こんだけの高いところの土塁を整備するだけでも大変な労力だと思う。ところどころにブルーシートが見えるが、やはり崖崩れの心配な箇所がたくさんあるんだろうなぁ。

初めてみる朝鮮式山城・・・私のポケットには大きすぎるというか、自分の知識の貧弱さを感じる。こういうものを見てもっと語れるようになるように勉強したい。

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高知城

2018-08-16 23:00:55 | 日本100名城巡り

ホテルは15時にならないとチェックインできないので、荷物を預かってもらって高知城へ。


雨は小降りにはなっていたが、どんよりとした空気の中、やたら汗ばかりかく。10分ぐらい歩くと追手門に着く。


この城は山内一豊が築いたもの。奥さんがしっかり者で有名なあの方ですね。天守は、1749年に再建されたものだが、現存12天守の1つに数えられる。


特に本丸御殿がしっかり残っている点がこの城の貴重なところであるというが、個人的には本丸御殿と天守がほぼ繋がっているところが面白いと思った。


本丸御殿に入ってすぐ、大河ドラマ「功名が辻」のレリーフが。


天守に登って、外を見ると鬱蒼とした雲が山腹に寝ているのが見える。


城内は公園として整備されているので、階段等、若干綺麗すぎる部分もある。

その他、展示としては

城建設時の想像模型や、


昔の捕鯨の様子


鰹節等の殖産興業の様子などが目を引いた。


土佐漆喰の展示は面白い。


これはいかにも趣のある陶器だね。


石垣はというと、


このような野面積みの所が多い。野面積みは歴史も古く、見た目は無骨であるが、堅固かつ排水面で優れており、雨の多い高知県には適した積み方なのかもしれない。


今は重要文化財であるが、昔は国宝であったことを物語る。


ちゃんとスタンプもGET。


向かい側の博物館の喫茶店からの眺め。

それにしても足を痛めてからの城めぐりは辛いねぇ。階段の上り下りに四苦八苦。去年いろいろと元気に城めぐりが出来ていたのに、たった一年でこの体たらく。100名城全部回るの無理かなぁ。

疲労困憊して、ホテルに帰り着き、夜までぐっすり寝てしまった。









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東京国際フォーラムに太田道灌像と江戸城天守模型を見に行く

2017-09-16 23:00:20 | 日本100名城巡り
今日はヴェルディ・レクイエムのはしご。昼は池上本門寺の近くの池上会館で合唱の練習、夜は市川でオケの練習。ほかにもトランペットレッスンやヴァイオリンレッスンをこなしたが、頭の中はほぼヴェルレクで占領された。

そんな稀有な日であったが、池上会館を出る時、「大田区」の文字が目に入り、ヴェルレクに占領された残り僅かの脳みそで、ふと大田区と太田道灌のつながりを調べてみようと思い立った。

しかし、結果は、1947年(昭和22年) に大森区と蒲田区が合併した際、大森区と蒲田区からそれぞれ一文字ずつ採って大田区としたことが分かり、太田道灌から来たものではないことがわかった。

ざんね~ん!

でもそれで終わりにするのはしゃくなので、1ヵ月くらい前に雨の日に撮りに行った太田道灌さまをブログに載せそびれていたことを思い出し、載せることにする。

国際フォーラムのどこに道灌様がおはしますのかというと、


ここだ。


有楽町側から東京駅側を望むと、向こうの方に見える。

あちゃ~、ここって、ラフォルジュルネ音楽祭に出る時、毎年通ってるとこじゃん。まるで視界に入ってこなかった自分が悔しい。

で、早速そこへ向かう。


東京国際フォーラムを訪れるお客様は多いといえど、道灌様に会うために来る人なんてまずいないだろう・・・と思って行ったら、もう一人いた!


道灌様の立派な立像以外にも見どころがある、ナイスな展示コーナーになっていた。教科書に載ってない東国の戦乱についても、詳しくパネル表示。


そして、84分の1大に作られた江戸城天守の模型だ。あれ、先日「家康、江戸を建てる」という本を読んで、江戸城天守は姫路城のように白いお城かと思っていたのだが、想像していたのよりも黒い部分が多い。また屋根の色などから見て、大阪城や名古屋城に雰囲気が似ているなぁと思った。


このパネルを見ると、江戸城天守は明暦の大火で焼けた後は再建されてないが、家康が建てた後に、秀忠によって建て替えられ、家光の代に再度建て替えられたというから3度建てられたことになる。このパネルでは家光が建築主となってるから、家光が建てたものを再現しているのかな?

この江戸城天守の模型、見る角度によって、若干印象が違う。


こっちからみたのと、


こっちがみたの・・・みなさまはどちらがお好きでしょうか?


パネル表示には、太田道灌が建てた当時の江戸城の想像図も載っていた。これは貴重だ・・・と思いつつ、高い建物があまりない様子なので、なんだかよくわからないというのが正直なところだ。とりあえず記念に載せておこう。

ということで、普段の私の生活圏の目と鼻の先にありながら、太田道灌様にお参りしたのは初めて。

道灌様・・ごめんなさい・・・いつか大河ドラマにお出ましになってくださいませ。絶対見ますんで。
コメント (3)
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和歌山城

2017-08-25 13:01:55 | 日本100名城巡り
和歌山駅前で軽く朝食を済ますと、バスで和歌山城へ。つまり紀伊田辺集合前の時間を使って観光をしているわけである。そのために夜行で来たんだけどね。

和歌山城はいわゆる徳川御三家の紀州家の城であるが、もともとは秀吉の弟、秀長が築城を開始し、藤堂高虎らが普請奉行を務めた。関ヶ原後には浅野幸長が入り、大拡張され、その後家康の十男の頼宣が入封し、紀州家の城となったのである。

ここの天守は、大小連なった、見ごたえのある連立天守。明治の廃城令は免れたが、戦災で焼かれてしまったので、残念ながらコンクリート造りで再建されたものである。

しかし、ここのところ城址を見ることが多かったので、再建されたものとはいえ、建物と石垣が揃った姿のお城を目のあたりにすると、やはりとっても嬉しいのである。


バス停を降りたらすぐに大手門。とても観光しやすい位置にある。


この地は上から見ると虎が伏したような形に見えるとかで、虎伏山といわれるそうだが、そこから取って、伏した虎の像があったりする。そう言われなければ虎に見えないのであるが。


またここは三つの時代に渡り大改修されているので、石垣の積み方も三種類。


もっとも古い、野面積みのところ、



やや加工してから積んでいる打ち込み接ぎのところ、


ぴったりと精密に積んである切り込み接ぎのところの三種類あり、目を楽しませてくれる。


この見ごたえのある階段をのぼって、天守へ。


のぼってしまうと大天守と小天守を同時にカメラに収めるのは大変で、iPhoneのパノラマで撮ってみたが、途中どうしても曲がってしまう。


大小天守をつなぐ回廊の中は中庭のようになっている。


天守の中は展示館になっていたが、結構面白かった。


鎧は見ごたえあるし、


陣羽織も素敵だし、


うまづら…じゃなくて、「ばめん」だ。


この展示されている一番下の金棒の


重さを体験できるコーナーもあった。持つには持てるが振り回したら2〜3回で疲れるのではないかと思った。


采配の実物も初めて見た。あまり風になびかなそう。


これはちょっと涙を誘うかな。


これは明治のものだが、郵便を配達する人はピストルをもってよかったんだね。


天守閣からの眺めもなかなかよい。


これは本来の和歌山城の姿の模型だ。


ということでスタンプもGET。

いつの間にか、夜行バスであまり眠れなかったことなんて、忘れてた。お城って本当にいいですね。


わかやま歴史館というのにも足を伸ばしてみたが、超感激したのが、これ。


いや〜いいね、何通りにも押せる印鑑。ぜひレプリカを売り出して欲しいよ。

さて、和歌山駅に戻ってきて、昼食をとったら、切符売り場がめちゃ混みで予定した電車に乗れなかった。あ〜あ。ということて、1時間後の特急に乗ることに。合唱の集合にはまだ間に合うからまだいいんだけど。



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八王子城

2017-07-27 21:44:05 | 日本100名城巡り
八王子城・・・といっても最寄り駅は高尾である。

川越のイーグルバスで思ったより時間を食ってしまった私は、八王子城のスタンプ押し時間に間に合うのかどうかハラハラしながら西武線と中央線を乗り継いで高尾へ。

高尾駅で降りるのは初めてである。同僚は飲んだ日によく乗り過ごしてここまで来ているらしい。

高尾に着いたのは4時過ぎ。幸いタクシーが何台も止まっていたので、八王子城まで往復してもらうことにした。タクシーに乗ってしまえば管理棟まではさして時間はかからず、10分くらい。本丸は管理棟から30分ハイキングが必要だからとても間に合わないが、復元の進んでいるご主殿付近ならこの時間でも十分見学できる。


タクシーの運転手さんは、お城に理解のある方。スタンプ帳を持って八王子城を見に来られる方は多いとのこと。ということで、ほどなく管理棟に着く。


スタンプの時間には十分間に合う。


管理棟にあったパンフレットは小学生でもよく分かるように書かれた、よく出来たパンフレットだ。これから向かうご主殿は、普段使いの城主の館があるところ。

本丸は遺構がほとんど残っていないが、籠城戦の時に立てこもる場所だ。自然の要害を生かして作られた山城であることが、これを見ても分かるだろう。

八王子城は後北条氏の本城である小田原城の支城であり、先日小田原城でも写真を見たが、後北条氏の支城としては最大規模のもの。

城主は北条氏康の三男、北条氏照。氏照はもともとは滝山城にいたが、小田原攻撃に向かう武田信玄軍に攻められた際に滝山城の防衛の限界を感じて、新たに八王子城を築城して、本拠を移したのであった。

ところがまだ完成しないうちに、秀吉の小田原征伐で上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められて落城してしまったのである。

当時、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内には城代他、わずかの将兵しかおらず、領内から動員した農民と婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠ったが、2方向からの夜討ちと、搦手側別動隊の奇襲により、一日で城は陥落してしまった。氏照正室を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。麓の村では城山川の水で米を炊けば赤く米が染まるほどであったと伝えられ、現代でも、先祖供養に赤飯を炊く風習として残っているとか。

氏照はその後この地に戻ることなく、小田原開城後に兄・氏政と共に切腹を命じられた。氏照は小田原征伐時には徹底抗戦を主張したため、秀吉から主戦派とみなされたのだ。のちに新領主となった徳川家康によって八王子城は廃城となった。


そういう悲劇をかみしめながら、御主殿まで歩く。


ここは大手門(形状は藥医門と考えられている)近くであるが、大変よく整備されている。


曳橋と呼ばれる箇所。まだまだ工事が続いている様子がわかる。


曳橋を渡って御主殿へ。


ここは山城なのに、石垣が作られている。ここのところ、石垣のないお城ばかり回っていたので、石垣フェチな私としては眼福に尽きるというか、一日の疲れが抜ける思いというか、ワクワクするというか・・・・。


石垣や石畳は当時のものをそのまま利用し、できるだけ忠実に復元されているという。御主殿入口の冠木門をくぐると


中はこのような草地になっていて、奥の方に舞台のようなものが見える。


排水路のようなものも復元されている。


建物跡が木で再現されている。


ここら辺は柱が沢山あったのだろうか。


いまごろ気が付いたんだが、マムシに注意だそうだ。怖いね~。

・・・・・・・・・・・・・・・・

ということで遅い時間であったが、素晴らしい石垣に感動して、興奮の極致に達した。


高尾駅の駅舎はこんな愛らしい姿をしているのね。これから神楽坂の情報リテラシーセミナーを受けに行くが、十分間に合う時間に帰って来れてよかった。






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川越城

2017-07-27 21:43:16 | 日本100名城巡り
鉢形城攻略の後、東武東上線を池袋方向に戻って、川越城へ。

川越城は、太田道真、太田道灌父子によって作られ、築城当時は河越城と表記されていた。

私は以前少し書いたけど、太田道灌、大好きなんですよ。太田道灌という名を聞くと、今から30年くらい前、父が、私が作った味噌汁の入ったお椀を箸で一回なでし、「みのひとつだになきぞ悲しき」と言ったことをつい思い出してしまう。

本当の故事は有名だが、念のため書くとすると以下のような話だ。

太田道灌が、突然のにわか雨に遭い農家で蓑を借りようと立ち寄ったら、中から娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出した。蓑を貸してもらえなかった道灌は腹立たしく思って、後日その話を家臣にしたところ、それは後拾遺和歌集の「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」の兼明親王の歌に掛けて、貧しく蓑(実の)ひとつ持っていないことを奥ゆかしく答えたのだと教わった。古歌を知らなかった事を恥じて、それ以後道灌は歌道に励んだそうだ。

主家扇谷上杉氏は、以前は山内上杉氏を補佐する役回りであったが、太田道灌の働きにより勢力を増し、山内上杉家と肩を並べるほどになった。それにつれて道灌の威望も絶大なものになり、逆に主君である扇谷上杉定正は道灌を警戒するようになる。ついに定正が刺客を放ち、道灌を暗殺する。その資格は道灌を槍で刺しておいて、「かかる時さこそ命の惜しからめ」と上の句を詠んだ。道灌は致命傷の中で「かねてなき身と思い知らずば」と下の句をつけて死んでいったという。

この話、私の大学入試の時、どっかの大学の古文の試験で出た。試験中なのに感動してしまって、ずっと気になっていた。

また、道灌は死に際に「当方滅亡」とも言ったという。自分がいなくなれば扇谷上杉家に未来はないという予言であるが、果たして、道灌暗殺により扇谷上杉家に付いていた国人や地侍の多くが山内家へ走った。その後、北条早雲なども登場し、早雲の孫の氏康によって扇谷家は滅ぼされた。道灌暗殺から60年後のことであった。

太田道灌の劇的な人生は、そういう意味でもっと知られてもよい話なのかもしれない。ただ川越市では親しまれていると思う。


川越城前には、道灌饅頭を売る店があった。買ってきたかったけど、時間がなかった。

また川越市役所前に、太田道灌の立像があるのだが、撮りそびれた・・・と思って調べてたら、東京国際フォーラムにも道灌さんの立像があるのね。今度見に行かなくちゃ。

☆ ☆ ☆

話を川越城(河越城)に戻すと、古河公方・足利成氏への防衛線として、扇谷上杉氏の上杉持朝(定正の前々代)が家宰の太田道真、太田道灌父子に築城を命じたのだ。当時は、室町幕府はもう関東を制御できなくなっており、室町幕府より関東の押さえとしておかれた鎌倉府は、鎌倉公方足利氏と、その補佐役である関東管領上杉氏との内部対立から、公方(足利成氏)が管領(上杉憲忠)を殺害する事件が起こり、享徳の乱(1455~1483年)が発生。よく、戦国時代は応仁の乱(1467~1477年)からなんて言われるが、関東は一歩先に戦乱の世になっていたのだ。

全面戦争により鎌倉府は壊滅し、公方は古河に拠点を移し、古河公方を称し、引き続き、管領上杉氏と対立したのだ。そんな背景から足利成氏への対抗拠点として河越城が築城されたが、同じ理由で、江戸城、岩槻城も築造されている。

尚、扇谷上杉氏は河越城に居城したが、その後、北条早雲に攻め取られてしまう。その後、秀吉の小田原征伐の折、前田利家がここを攻撃し、入城。徳川家康が関東に封ぜられた際は廃城にならず、川越藩の藩庁として活用され、酒井家→堀田家→松平家→柳沢家→秋元家→松平家と続いた。

ここも、佐倉城の9名にはかなわないものの、7名も老中を出した老中の城である。有名どころでは、酒井忠勝・松平信綱(知恵伊豆)や柳沢吉保など。

遺構はあまり残っていないが、川越城本丸御殿が部分的に残っており、見ごたえがあった。


これがその本丸御殿。月曜日は休館なので、行かれる際は営業日を確認されたし。


本丸といっても、現存するのは赤く囲まれた部分だけ。


今回の夏休みでは、水戸の弘道館、偕楽園の好文亭、そして川越城本丸御殿と、ちょっと似たような日本家屋に3つ、靴を脱いで入場して歩き回ったのだが、同じ江戸時代の日本建築なのに、三社三様に漂うオーラが違うのだ。

 弘道館:勉学のオーラ
 好文亭:けだるいオーラ
 川越城本丸御殿:ピリッとしたオーラ


個人的には、勉学オーラやピリッとしたオーラの方が気持ちが前向きになり、癒される感覚があるなあ。ここにも老若男女のお客様が来てたけど、みんな癒されながら前向きな笑顔をしているのが印象的だった。


このつるつるした廊下を、裃を着た武士が真剣な顔をして歩いている様子が目に浮かぶ。


庭もシンプルで落ち着きがある。


こちらでは何やら大事な話をしているようですな。


今は使えないと分かっていても、厠なんてみてたら入りたくなってしまうんで、早々に退散する。


向こうには鎧があるが、江戸時代の建造物なのに、飾ってあるのは源平時代のものじゃないか。


を、やっぱり鎌倉時代初期って書いてある。当たってた! 小田原城→鶴岡八幡宮と梯子して、眼力が鍛えられたみたいだぞ。


畳には伊能忠敬の作った地図が印刷されたマットが敷かれていて、お客さんみんな自分にゆかりの土地を探そうと大騒ぎ。

ちなみに私の場合、前に住んでたところは載ってたが、今住んでるところは載ってなかった。前に住んでたところは江戸時代に栄えた、それこそ八犬伝にも出て来るところだから載ってて当然だな。


こちら、お定まりの100名城スタンプ。


さて本丸御殿以外の遺構としては、中ノ門堀跡というのがある。


堀の内側と外側で勾配が違うのね。こういう堀もあるのか。


富士見櫓のところは残念ながら石柱が立っているだけ。


さて、これから八王子城に向かうのだが、間に合うかどうか微妙な時間。こういうイーグルバスというのにのって本川越駅まで行くことにした。


こちらのバスは、本来の川越観光であれば回るであろうところを回ってくれるし、運転手さんみずから説明してくださる。


楽しそうだなぁ~。次回川越へ来る時があれば、是非この通りを散策してみたい。

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鉢形城(埼玉県寄居)

2017-07-27 20:56:04 | 日本100名城巡り
夏休みの中で、遠出が出来る最終日の今日、日本100名城を3つ回って、さらに夜はセミナーに行って、充実した一日を過ごした。(本も一冊読み終わったし)

朝、東武東上線の寄居からタクシーで「鉢形城址」。
昼は同じ東部東上線の川越からバス+歩きで「川越城本丸御殿」。
夕方は高尾からタクシーで「八王子城址」。

どれも遺構は少ないのだが、それぞれに見どころが違うので楽しめた。関東の城だけに、三城とも後北条氏が絡んでいる。ただ秀吉の小田原征伐で敗れた後は鉢形城と八王子城は廃城に、川越城はその後も酒井氏、堀田氏、松平氏の城として使われるというように、運命が分かれている。

また鉢形城と川越城は両方とも太田道灌が絡んでいる。

鉢形城は太田道灌が攻めた城、川越城は太田道灌が作った城だ。ただ太田道灌は家宰なので、実際に城主となったのは扇谷上杉氏だ。

ま、こんな風に、今日行った3城をおさらいしてまとめてみると面白い。

まずは鉢形城だ。


現地の歴史館に入って下調べ。

ここは1476年に山内上杉氏の重臣であった長尾景春が築城している。

最近お城や城址を回っていて思うのは、日本の城郭の歴史は、戦国時代や安土桃山時代だけ知っていてもだめで、江戸時代初期や、応仁の乱以前のことをもっと勉強しなきゃだめだなぁということ。

永享の乱、結城合戦、古河公方の誕生、享徳の乱、長尾景春の乱、山内上杉家と扇谷上杉家の争いなど、一部南総里見八犬伝の時代背景として使われているが、歴史の教科書にあまり出てこないし、ぐちゃぐちゃしててよくわかんないし、そんなことを知らなくても八犬伝は楽しく読めるし・・・で今まで勉強不足だった。

この鉢形城は乱を起こした長尾景春が築城したもの。長尾氏は山内上杉家の家宰をつとめる家柄。長尾景春は、古河公方との闘いの最中に没した父のあとの家宰として、嫡男の自分ではなく、父の弟の長尾忠景が主君上杉顕定によって任命されたことに怒り、この鉢形城を築き、古河公方側に立って、主家である山内上杉家に復讐を繰り返した。これが長尾景春の乱であるが、鉢形城は扇谷上杉氏の家宰である太田道灌が攻め落とし、山内上杉家の顕定が入城する。(この時点では山内上杉氏を扇谷上杉氏が支えていたわけね〜。後で対立するけど。)

う~ん、ぐちゃぐちゃだけど、太田道灌が仕えてたのって上杉定正・・南総里見八犬伝で言うところの扇谷定正なのよね~。扇谷定正って八犬士(架空)の敵なんだけど、太田道灌は定正に妬まれて暗殺されたから、最終的には八犬士と利害関係は一致するのか・・。

・・・という話はおいといて、その後北条氏康の四男、氏邦が鉢形城城主となるが、小田原征伐で敗れて、この城は廃城になってしまった。



建造物は何も残ってないが、近年、このような門が復元されている。


あとは、空堀や土塁のすばらしさよ。


最近の見学のお陰で、堀を見ただけで感激できるようになってきた。


この笹曲輪の右側は、


荒川になってる・・・って、こんなに水少なくて大丈夫か?

ということで、想像していたよりも見ごたえがあって、楽しかった。

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水戸城

2017-07-25 23:19:08 | 日本100名城巡り
鹿島神宮駅から鹿島臨海鉄道大洗鹿島線に揺られて水戸へ。まさか香取神宮のある佐原から鹿島神宮、そして鹿島神宮から水戸へ、それぞれ鉄道1本ずつで行けるなんて知らなかった。ただしいずれも直通の本数が少ないので、水戸行きに乗り遅れないようダッシュで乗り込んだ。


さて、トントン拍子で水戸にたどり着いてみれば、黄門様ご一行のお出迎え。ご一行様たち、こんなにイケメンぞろいでしたっけ?


駅前に三の丸ホテルというのがある。まさにお城の跡地にふさわしい名前だね。三の丸ホテルの脇を通って、水戸城址に向かってのんびり歩く。


まず最初の目的地。この大手橋周辺では佐幕派と討幕派が幕末に激闘を繰り広げたのだ。


大手門は復元工事中で、いずれこういう門が建つんだそうだ。


木で作られた仮設の歩道橋を渡ったところにも、このようは旗がひるがえっている。


ん、お城の遺構かな?と思うと中学校だったり、小学校・幼稚園だったり、高校だったりする。


古き街並み、お城の景観を残しつつ、敷地を学校のために使っているのだろう。まさに水戸藩のアカデミックな伝統が今に引き継がれていると考えることもできるかな。

ただ、水戸城って石垣を用いず、土塁と堀だけで守りを固めていた城だと聞いていたので、石垣らしきものがあるのはどうなのか?という気もするが、街づくりに土塁というわけにもいかないでしょうから、やむを得ない話なのかな?


この大きな椎の木は見ごたえがある。


水戸城はもともとは平安末期に平国香の子孫である馬場資幹により築かれ、その後佐竹氏の時代を経て、水戸徳川家の城となった。

水戸徳川家は江戸に常駐していたため、この城は藩主の居城としての役割を担っていなかったため、防衛上の重要性が低く、城郭と言うよりはむしろ政庁としての性格が強かったのだという。天守は築かずに3重5階建ての三階櫓を、天守的な位置づけで使用していたが、残念ながら太平洋戦争の空襲で焼けてしまった。


そういう意味では、現存する唯一の遺構、橋詰門(藥医門)は貴重な存在。佐竹氏の時代(1591~1602)に建てられたものだから、かなり古い。

何と高校の敷地の中にある。


門の下に立つと、古く、温かい、木の香りがする。その香り一つで、やはり来てよかったと、満足度が高まる。


本丸と二の丸の境目は空堀となっているが、現在はそこに何と水郡線が走っている。水郡線のカラフルな車両については、また稿をあらためて書くことにする。


水戸駅へ戻る途中も、復元された門を見たが、やはり安土桃山時代に作られた藥医門が持つ、包み込むような魅力にはかなわない。でも年数を重ねればきっとそれなりに風格は出て来るだろう。空襲で焼けてしまったお城を何とかして復元しようとしている、自治体全体の努力が伝わってくる。


弘道館入口で押させてもらった記念スタンプ。

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佐倉城址公園~国立歴史民俗博物館

2017-07-23 23:28:29 | 日本100名城巡り
今日は午前中、太極拳で汗を流し、昼過ぎに佐倉城に向かう。

といっても佐倉城は今はなく、遺構が佐倉城址公園として整備されているので、まずそこに行き、空いた時間で、隣の国立歴史民俗博物館の展示もじっくり見てこようと思った。

国立歴史民俗博物館には20代の頃、昔行ったことかあり、装飾古墳の特別展を見た後、ミュージアムショップで弥生時代の笛の復元品を買った。


http://blog.goo.ne.jp/y-saburin99/e/aeb4f6d4b39ae2e35754bb88001e2d6b

なので、二十数年ぶりに行けるぞ、と楽しみにしていたのだが、天気がやや悪く、小雨がぱらつく。まぁ、灼熱地獄とどっちがよいかというと微妙なところではあるのだが。


何も考えずにJR佐倉駅からテクテク歩くが、猛烈に遠かった。途中、こんな光景も。子供の頃、こういうつる性植物で埋まった場所を見たことがあるが、何十年かぶりに見たなぁ。


何とか城址公園近くまでくると、神社にこんな垂れ幕が。麻賀多のむすびちゃんというキャラクターもあるようだ。


大手門跡を示す石碑が寂しく立っている。


公園管理センターで100名城のスタンプを押す。


センター内には、佐倉城の復元模型もあった。

そうそう、佐倉城っていうのは、今はこんなだけど、歴代城主の内、何と9人が老中になっているという(全国最多)老中の城なんだそうな。

江戸初期には土井利勝が城主となり、もっとも有名なのは幕末期の城主堀田正睦(ほった まさよし)で、開国派の老中だった。


城址公園でも、ハリスの像と並んで堀田正睦の像が立っている。


漫画「風雲児たち」の絵や、Wikipediaに載ってる写真に比べると、ずいぶんシャープなお顔立ちだ。

さてこの佐倉城は、石を一切使わず、土塁と深い空堀、水堀で守られた土造りの近世城郭だとか。石垣フェチな私としてはちょっと寂しいが、こういうお城もあるんだということを学んだ。


これが入口近くにあった空堀。


これが博物館前にあるもっと深い空堀で、馬出し空濠と呼ばれる。


ここらへんが旧本丸で、むこうの生垣で囲ったあたりに天守があった。


こちらの天守跡の石碑を撮った帰り道、小型のスズメバチのようなものが何匹か地面近くを飛んでいて、刺激しないようにささっと逃げて来た。

やっと蜂から逃げたと思ったら、今度は目の前を蛇が横切り・・・油断も隙もない。


正岡子規の碑もある。「常磐木や冬されまさる城の跡」・・つまり子規の時代にはすでに城址になっていたということだ。明治維新後の廃城令により建物のほとんどが撤去されてしまったのだ。


国立歴史民俗博物館は馬出し空濠をまたいですぐ向こうだ。そうそう、20年前にこの博物館に来た時、この芝生に覆われたくぼみは何だろうと思ってたのよ。お城の空堀だったのね。


歩き疲れて、とりあえず博物館のレストランで食事。桜モンブランだって。まぁ・・・佐倉だからなぁ。


さて、時間もあるので、これからじっくり展示をみるぞ~! 今やってるのは漆の企画展だ。


これが漆の木。

展示はとても素晴らしかった。特に、目からウロコだったものをメモってきた。

・漆紙文書・・紙に書いたものは土に埋まるとなくなってしまうが、漆のツボの蓋をするために使われた紙に書いてあった漆にコーティングされて残る。今でいえば新聞紙で蓋をするようなものであり、古文書として価値のあるものも発見されている。

・漆の木一本から一年間に取れる漆は牛乳瓶1本分

・日本は漆を98%輸入に頼っており、2%の国産の内、さらに7割が岩手県二戸で作られている。

・チョウザメのひし形の鱗を貼った蒔絵を施した刀の鞘・・・美しかった。

・漆の実を焙煎して飲む、ウルシコーヒーというのがあるそうな。飲んでみたいな~。(内臓カブレるかな)
 韓国ではウルシの実を漢方薬として利用している。日本ではロウとしての使用。

・未来の漆の使われ方として、インクジェットプリンタを使用する、インクジェット蒔絵技法なるものがある。


帰りに思い出のミュージアムショップへ寄る。

あかん! ここのショップはあかん! 購買欲のくすぐり方が半端ない。・・・負けた・・・積読解消で、2冊読んだのに、また4冊買っちゃった。あとは古地図のバンダナとか、正面の小箱とか・・。小箱・・・いかにも怪しいね・・・これは後日また・・。

帰りは、バスに乗って、京成佐倉から帰ってきた。京成を使った方が近かったな~。

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小田原城

2017-07-21 23:26:34 | 日本100名城巡り
今日から連続休暇。ベランダ菜園が心配で遠出できないし、ほとんど毎晩のように何らかの予定が入っていて、全然遠出できないが、その中で、どれだけ日本100名城巡りと全国一の宮巡りをこなせるだろうか?

まずは小田原城。

小田原城は去年の2月に恩師の還暦祝いで行ったが、その時は天守閣は工事中で入れなかった。だが最近「おんな城主直虎」の末尾の歴史解説コーナーにも登場して、工事の覆いがすっかり取り払われているのを確認したので、行ってみることにした。

とにかく今日は暑い。新幹線の小田原駅で隣の学生の切符が改札に詰まり、「暑くて、たまに詰まるんです」とか言われてたけど、改札で切符が詰まるほどの尋常ではない暑さである。私は長袖シャツと帽子と、日焼け止めで一応防御はしたのだが・・・(あとで手の平と首筋が腫れた)。


馬出門(うまだしもん。平成21年復元)を通り、


常盤木門(ときわぎもん。昭和46年再建)をくぐって本丸へ。


実はもう一つ銅門(あかがねもん。平成9年復元)というのがあり、銅板で美しく装飾されている。同じ門でもそれぞれに趣が違う。


大修理を終えて美しくよみがえった天守が、青空に映える。


「ありがとう!! 新・小田原城百万人達成」ののぼりが沢山立つ中を通って天守閣内部を見学。


まずは1階で100名城のスタンプを押す。


内部は一部区間を除き撮影可能だ。


小田原城天守閣は7番目の高さなんだね。


中の展示は素晴らしかった。ほんの一部しか紹介できないけど、連続休暇初日にしてとっても満足度高し。例えばこの「障子堀」という掘の作り方なんて、参考になるね。


わぁ、なんて細い足なのかしら。


このウェストのくびれもすごい。まるでコルセットみたい。13キロ減量した私でもとても入る自信なし。

そうそ、昔の人は小柄なのよね。姫路城や犬山城では最上階に登る階段で頭をぶつけたが、ここではぶつけなかった。何故。

それは、再建された城だから。階段は普通に現代の階段である。頭をぶつける城というのはオリジナルが残っているということだ。


最上階からの眺めもすばらしい。歩けば10分くらいかかるはずの小田原駅がすぐ近くに見えて、青いロマンスカーが吸い込まれていく。


相模湾も一望できる。右から飛び出しているのは真鶴岬ね。


中央にあるのが箱根の二子山で・・まじで双子みたい。地理的に近いはずの富士山は見えないのね。角度の関係で、箱根の山々が遮っているのだろう。


受付に熊本城復旧支援の募金箱が。これは素晴らしい。私ももう一度熊本城へ行きたいもんね。さっそく募金。


名残惜しいが、小田原城をあとにする。小田原といえば小田原提灯。駅前の商店街に小田原提灯型の風船が乱舞している。なかなかきれいで、ちょっとメルヘンないい気分になった。

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日本100名城めぐり開始

2017-07-19 23:59:42 | 日本100名城巡り
去年姫路城・犬山城を回った後に、日本100名城めぐりというスタンプ帳の存在を知り・・・もう12城くらい回ってるのにと思いつつ、昔行ったところにまた行く切っ掛けが出来たではないかと前向きに考えることにし、早速スタンプ帳を注文したのが今年の1月。



今日は毎年必ず受けてるMRI検査のために午後休を取ったのであるが、病院に行くまで少し時間があったので、皇居・・つまり昔の江戸城に寄ってみることにした。


まずは和田倉門休憩所に行き、自分にとって記念すべき第1号のスタンプをGET。


私の次にスタンプを押した青年は、小田原城から梯子してきたようである。わかるなぁ~。


さてそのまま皇居の敷地内に入り、巽櫓を横目に見て左側へ歩く。


桔梗門は入れないので、蛤濠に沿って歩くと、坂下門が見えてきた。坂下門外の変・・ってのあったなぁ。

だが坂下門も入れない。そうか~もどって大手門に行かないと中に入れないんだな。


大手門にたどり着くと、警備員さんが立っておられて、荷物の中身をチェックされる。ま、当然だよね。


ここは完璧お城の雰囲気だ。

単なる観光地でも遺跡でもない、今まさに生きてるお城ということで、ちょっと厳粛な気分で門をくぐる。


ああ~心を揺さぶる巨石群! あらためて石垣フェチであることを自覚する。


大番所という建物だそうだ。こっちはこっちで別の意味で心を揺さぶられる。


これは自然に出来た模様なのか、それともお手伝い普請として工事を手伝った大名家の刻印が押されたものがさらに崩れているのかがわからないが、ちょっと模様に味があるのでカメラに収めておいた。


本丸休憩所の横のオブジェはちょっとよくわかないのだが、気になるのでこっちも載せておく。


本丸の大芝生。さすが手入れが行き届いていて美しい。


を? あれは南米ティオティワカンのピラミッド?・・・


な・・わけはなく、天守台である。江戸城の天守閣は明暦の大火で焼失した後は、この天守台石垣が築き直されただけで、天守閣自体は再建されなかったのだ。


登るっきゃないね~時間ないけど。


でも、のぼったところで何があるわけもなし。


天守台から大奥跡と本丸大芝生を望む。


天守台は反対側から見ると黒ずんだ石垣になっている。こっちの色の方が江戸城の色としてなじみがあるんだけど、さっきみたいに茶色いと南米のピラミッドを連想しちゃう。


このメルヘンなデザインの建物は桃華楽堂といって、香淳皇后(昭和天皇の皇后)のご還暦をお祝いして建設されたものとのこと。古びた建造物の間で、こういう可愛らしいデザインの建物がなじんていることが素晴らしい。


名残惜しいけど、時間がないので、北桔橋門から竹橋方面に抜ける。今日見れなかったところも多いので、また来たいなぁ。


お堀の水に映える、この石垣の形状の美しさよ。

短時間だったけど、やっぱり来てよかったな。




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