風塵社的業務日誌

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『教養としての現代社会入門』

2018年05月01日 | 出版
連休だというのに、めちゃくちゃに忙しい。某ミニコミ誌の制作作業に一苦労して、ようやく終わる。その発送作業までは付き合いきれないから、お役御免とさせてもらった。そして現在、某雑誌の修正作業が終了。ああ、まだこのゲラの校正が終わっていないなあ。次は、5月刊行予定である『教養としての現代社会入門』の最終チェックをすませ、5/6には著者のKさんと確認をしなければY印刷に入稿できない。そして、定例の「救援」紙も5/7には入稿予定である。これは明日にはだいたいの形をそろえなければ間に合わないことにある。そのうえ、6月刊行予定のある本の原稿もブラッシュアップしておきたい。さらにさらにそのうえ、風塵社のたまりにたまった確定申告もしなければならないし、自宅の引越しもすることになっている。そのため、なにがなんだかわけがわからん状態に陥ってはいるのだけれども、幸いにして小生は鬱状態にはないので、粘り強く作業を進めればなんとかなるのではなかろうかと楽観しているところではある。
それにしても、小生よりも有能な方なんてそれこそ数限りなくいるだろうけれど、しかし、小生レベルでもかなり高い方なのだろうと自負しておくことにしよう。文章の下手なもの書きさんや、レイアウトもできないデザイナーさんなんてのは、これまでの人生で小生もそこそこ見てきたものである。この出版不況の時代、彼らはどうされているのだろうか。なかなか生きづらいことだろうと想像する。生きづらいのは弊社も同様であるけれど、それでも、今年もなんとか4月までを乗り切ったのだ。2018年の1/3が過ぎたというわけである。それならば、この忙しくてわからん状態のまま、本年を終えたいものとも願う。そうした一歩一歩がそのうち花を咲かすこともあろう。
天職という言葉がある。先述の『教養としての現代社会入門』をチェック中、その語を久しぶりに目にし、ある感慨に打たれた。森嶋通夫の『なぜ日本は没落するか』(岩波現代文庫)(だったか別の本だったか、いささか記憶が曖昧)を読んでいたら、「お金が稼げるかいなかに関係なく、ある職業を天職とする人もいる」なることが記されていた。その一文に接し、小生などは「ならば、出版業が自分の天職であると勝手に思い込めばよかばい(嗚呼、こういう口語表現を信州弁に変換したいのに、それができない!)」と考えたわけである。会社の売上とか自分の給与とかとは関係なく、現在おのれの従事している仕事が天職だと思い込めれば、それはそれで開き直れるからだ。おのれがその職業に適しているのかどうかに悩み始めると、これはかなり面倒くさいからである。ちなみに、『教養としての現代社会入門』は、天職について述べている本ではないことは断っておこう。
そして、生まれ変わっても出版業に従事したいと述べる出版人は珍しくない。この先も出版業は存続するのかという未来の不安はとりあえずさておき、老出版人でいい思いをした経験がある人ほど、そう表白する傾向にあるのだろう。お金のご苦労が現在も進行形中のSH社M社長もその一人で、「お前なあ、出版社の名刺を持っていったら、だれにでも会うことができるんだぞ」と出版業への想いを口にされたことがあった。実際は、「だれにでも」というのは大げさな表現であるかもしれない。しかし、取材なり、原稿依頼なりで、多くの人と本音で語り合える場を出版人ならば作りやすいというのは事実である。そして、それは会社規模の大小とは関係のない話であったところが、この業界のよさでもあった(アレ?過去形ですか?)。
また、別の方に言われたことがある。その方は映像の仕事をされていた。「腹巻さんは出版業だから、出版って言えば、初対面の人でもどんな仕事なのかすぐに理解してくれるじゃないですか。ところがぼくたちの場合、映像って言っても、どういう仕事内容で、どういう販路を持っているのかなんて、相手がわかってくれないんですよ」。これには、なるほどねえ、出版業って結構わかりやすい仕事なんだなと蒙を啓かせていただいた。金欠にあえいでおのれの世界に没入しちゃっていると、他者からの目線とか評価というものがさっぱり理解できなくなってしまうのである。そして、そこから商機を見出せないかと考えたものの、なんのチャンスもゲットできずに現在に至っている。どうしたものか。
そこで、先ほどもの書きさんの悪口を述べてしまったので、おのれの文体について最後に自己検証してみたい。編集者としての一番の基本は、著者に合わせた文体を書くことである。ところが、そんなことは小生に限らず多くの人にも難しい話だろう。小生もそこまで器用ではない。それがダメとしても、次に考えるのは一文をいかに短くするかである。その場合、接続詞と文末の言葉のダブりに気を配らなければならない。つまり、「そして~」「そして~」とか「~である」「~である」が続くようでは文章として成り立たないということである。この話はさらに体系的に発展すべきだろうが、疲れているので今回はここまで。

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