イサムノグチは 1904年11月17日に 米国ロスアンジェルスで生まれた。
父は 英詩で一旗揚げようとサンフランシスコに渡った野口米次郎。
母はレオニー・ギルモア。
レオニーは 米次郎が 英詩の添削に雇った女性でした。
父親が別に家庭を持ったため 母親に育てられたレオニーは優秀で 自立した女性でしたが 米次郎の不思議な魅力に魅かれ、その子を身ごもります。
当時のアメリカは 白人と有色人種の婚姻は認められていませんでした。
助産婦だったレオニーの母親は 出自に比較的寛容だったロスアンジェルスに身重の娘と共に移り住みます。
ツトムが誕生した時、アメリカで米次郎の東洋的な英詩が評価され 地元新聞にその子イサムの誕生の記事が載るほどでした。
にも拘らず その命名は 一年以上後になります。
1907年母子は来日。
米次郎には日本人妻との別の家庭がありました。
レオニーは英語教師をしながら 懸命にイサムを育てます。
「アーティストになりたい」 イサムの夢は 母の願望でもありました。
野口勇だったり イサム・ギルモア を名乗ったりの境遇。
茅ケ崎に住んでいた9才の時に指物師に弟子入りしています。
彫刻家としてのイサムの原点だと私は思います。
1918年、母の意向により 単身アメリカに帰国。
ラ・ポート高校をトップで卒業するも 彫刻家に弟子入り。
師とそりが合わず コロンビア大学医学部に入学、夜は彫刻の学校に通う。
舞踊家伊藤道郎の舞台の小道具に拘わる。(後、マーサ・グラハムの舞台装置も手掛ける)
アメリカ人妻で子のいない野口英世に可愛がられ アーティストへの道を勧められる。
彫刻家としての初期には 数えきれない胸像を残しています。
生活の為でしたが どれも見事な出来です。
家具やあかりをデザインしたりもしますが、最後は抽象的な石彫を配した造園に至ります。
世界中の石を求めて旅をして 行きついたのが 香川県高松市牟礼でした。
ここにイサム家を構えます。
イサム・ノグチ庭園美術館があります。
北大路魯山人の離れで 山口淑子との結婚生活を始めた、あの魯山人と気が合うという気難し屋でした。
恋愛だけでなく 仕事にも女性がその一生に大きな比重を占めていました。
出会った人は 性別を問わず 魅了されたそうです。
アメリカ人だから広島の原爆記念碑、日本人だからケネディ大統領墓のデザインは採用されない。
生涯自身のアイデンティティに悩み続けた一生でした。
母レオニーには 芸術に秀でた アメリカインディアンのチェロキー族の血が入っているそう。
レオニーは何処から見てもアイルランド系の白人の容貌でしたが 祖母はチェロキー族そのものの顔だったそうです。
都合のいい時だけ レオニーを頼った、イサムを無視し続けた 野口米次郎は 慶応大学の教授となりました。
イサムは 晩年,アメリカからも日本からも 勲章を受けます。
と いうことは 受け取ったんですね。
著者の ドウス昌子さんの熱い気概に圧倒されました。
by 風呼