天武天皇悲願の藤原京遷都を 天皇亡き後、皇后の持統天皇が成し遂げました。
それも僅か15年で再遷都されます。
畝傍、耳成、香久山に囲まれた広大な藤原京跡を 去年訪れて 不思議なパワーを感じました。
これは何なのだろう。
中大兄皇子伝 上・下 巻、 天翔ける白日 大津の皇子伝 に続き 天風の彩王 上・下巻を読み終わりました。
藤原不比等(659~720)は藤原鎌足の次男として生まれた。
母は 天智天皇の采女の 与志古娘(よしこのいらつめ)鎌足が天智の妃だった鏡大王に続いて貰い受けた女人だった。
大海人皇子(天武天皇)と天智天皇の息子の大友皇子との 壬申の乱の時は大友側だったがまだ12才と幼く罪には問われなかったが 長く不遇の時代を過ごします。
天武亡き後、天武の皇后が持統天皇となり その子草壁皇子の立太子に貢献、持統天皇に取り入り、権力を手にしていきます。
藤原不比等は 天智天皇の御落胤と噂され、 持統天皇の異母弟にあたるので女帝の絶大なる信頼を得たらしい。
大海人皇子の愛人だった額田王を天智天皇は横取りし、替りに同母の娘、太田皇女と鵜野讃良(うののさららの)皇女の二人を妃として与えます。
姉の太田皇女は早世するのですが、草壁皇子とほぼ同年の 大津皇子を生んでいます。
持統天皇は全てに於いて自分の子草壁より勝っている大津皇子を謀反の罪で亡き者にします。
これにも不比等は大きく係わっています。
あの手この手を遣って、とうとう不比等は天皇の岳父になります。
でも 寄る年波には勝てない。
不比等の4人の息子は 長男・南家、 次男・北家、三男・式家、四男・京家、 と繁栄しますが、737年、天然痘により4人とも亡くなってしまいます。
藤原京は 持統天皇亡き後、 元明天皇となった亡き草壁皇子の妃によって710年に平城へと遷都されます。
不祥事が続いたからだそうです。
私が行った時は 夏だったせいか 陽がさんさんと降り注ぎ ミンミン蝉の声だけが響き何もない何もない 明るい原っぱだったのだけど。
by 風呼